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苦しむ獣



 腐ったような甘い香り──それは、毒の成分によって差異があるが、ラーチェルの感じる特有の嫌な匂いである。

 香しい香木の香りに混じって漂っているそれは──。


「グルルアァア!」


 森の奥から咆哮をあげながら風のように走り向かってくる何かがいる。

 オルフェレウスは剣を抜くと、ラーチェルを片手で庇いながら爪の一撃を受け止めた。


 白い獣だ。狐に似ている。すらりとした足に、美しい毛並み。

 赤い瞳は敵意に満ちて、口からは白い泡がぼたぼたと落ちている。


 白い獣の三つに分かれた尻尾の先は、青い炎に変っている。


「──魔物!?」

「魔物か……? はじめて見るが」


 魔物は剣を弾いてくるりと一回転すると、オルフェレウスに襲いかかる。

 オルフェレウスは前足での斬撃を剣ではじき返した。

 その一撃は重く、オルフェレウスは体幹こそ揺らがなかったが、足元の土が衝撃にえぐれた。


「これは、何……弱っている……?」


 ラーチェルは邪魔にならないように木の陰に身を潜める。

 何か手助けはできないかと思うが──ラーチェル程度の剣の腕では、足手まといになるだけだろう。

 多少の心得はあるが、オルフェレウスと魔物の戦いは、ラーチェルの知るものとはまるで違う。

 

 一撃一撃が重く、素早い。

 オルフェレウスは巨体でありながら身軽な魔物の攻撃を冷静に捌きながら、魔物の首を的確に取ろうとしており、魔物は傷つくのも気にせずに無我夢中でオルフェレウスを食い殺そうとしているように見えた。


 ぼたぼたと口からあふれる白い泡は──魔物が衰弱している証拠ではないのか。

 不愉快な腐った香りが強くなる。何か──どこかに原因があるのではないのか。

 それは、アナベルを苦しめているものと、同じもの。


「オルフェ様!」


 オルフェレウスが魔物の首を剣で貫こうとするのと同時に、オルフェレウスの周りに青い火柱がいくつも立ち上る。

 火柱はオルフェレウスの体を焼いた。それでもその意志の強い瞳は怯むことなく魔物を見据え、その首に剣を突き立てた──ように見えた。

 

 けれど、魔物の体は炎へと変わり、剣はその体をすり抜けてしまう。

 炎から獣の姿に戻った魔物は、オルフェレウスの胸に前足をかけた。

 

 地面に押さえつけられるようにして、オルフェルエスの体が倒れる。

 その衝撃が、ラーチェルの足元まで伝わってくるようだった。


「オルフェ様……!」

「逃げろ、ラーチェル!」


 そんなことは、できるはずがない。


(アナベルさんは、魔物に襲われていない。魔物はオルフェ様に敵意を持っている。毒の匂いがする。どうして……?)


 視線を激しく動かして、腐った香りの原因を探した。

 ルアルアの木の根元。

 そこに──白い花が、咲いている。小さく可憐な白い花だ。けれど──ルアルアの木を浸食するように、つるりとした木肌を這いのぼっている。


「オルフェ様……っ!」


 魔物の口が開き、オルフェレウスの喉元に食らいつこうとしている。

 ラーチェルは肩掛け鞄の中にある秘密兵器を握りしめると、オルフェレウスの元に駆ける。

 足が苔で滑る。転ぶわけにはいかない。


 ──オルフェレウスを失いたくない。


 オルフェレウスに覆い被さりながら、ラーチェルは手にしている香水瓶を蓋をひらいて思いきり魔物の顔に向かって投げつけた。


 瓶から強い刺激臭のある煙が吹き出て、魔物の顔面にぶち当たる。

 魔物は苦しげにもがきながら立ち上がり、自分の尻尾を噛むようにしながらぐるぐると回ったあとに、ぱたんと倒れた。


「オルフェ様、ご無事ですか!?」

「あぁ。……ラーチェル、あれは、一体」

「試作品なのですが、睡眠瓶です。眠りのユスリアと、目潰しのカイエンペッパーをふんだんに仕込んだ、護身用の香水で……オルフェ様、お怪我は?」

「大丈夫だ」


 オルフェレウスは立ち上がろうとしたが、ラーチェルはそれを許さなかった。

 その顔を覆い被さりながら抱きしめて、「ご無事でよかった」と涙声で呟いた。


「情けない姿を見せた」

「そんなことはありません。……オルフェ様、火傷をしています。切り傷も」

「これぐらいはすぐに治る」

「駄目です。起きないでください」


 ラーチェルはオルフェレウスの体をずるずると引きずって、ルアルアの木に凭れさせた。

 水袋をとりだしてハンカチに含ませると、オルフェレウスの焼けただれた頬にあてる。


「……レイモンドさんに、薬草を全部渡してしまって。ごめんなさい」

「致命傷ではない。君に、また、助けられた」

「また?」

「あぁ」


 オルフェレウスは目を伏せる。痛みがあるのだろう。

 ラーチェルは痛み止めの丸薬をとりだした。


「飲めますか、オルフェ様」

「まるで、薬師のようだな」

「薬師であればもっとよかったのですが……」


 丸薬をオルフェレウスの口に入れて、水袋を口元にあてる。

 ゴクンと飲み込むのを確認して、ラーチェルは口の端から流れる水を指先で拭った。


「今のうちに、あの魔物にとどめをさしておかなくては。あんなものが村に向かえば、皆、殺される」

「待ってください、オルフェ様。……もしかしたら、あの魔物は、苦しんでいるのかもしれません」

「苦しむ?」

「はい。……アナベルさんを苦しめているものと同じです。この、白い花。汚染された土地に咲く、淀みの鈴蘭です。かつてシビレカガシはこの場所を住処にしていたのかもしれません。シビレカガシの残した毒が、土を汚して、植物を変性させた……?」


 土の汚染が表に出るには時間がかかる。三年の年月をかけて──あるいは、もっと早く、シビレカガシの毒の影響でこの地は汚染され、淀みの鈴蘭が蔓延るまでになってしまったのだろう。

 ラーチェルは魔物に近づいていく。

 それは魔物と呼ぶには──あまりにも美しい獣だった。


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