暗い森
ラーチェルはオルフェレウスにそっと目配せした。
オルフェレウスは何かに気づいたように、アナベルの額や手首に手を触れさせる。
「急いだほうがいい」
「ど、どういうことですか!? アナベルは……!」
「高熱が出て一週間経つのだろう。衰弱が激しい。食事や水分は?」
「食べても、吐いてしまって……ど、どうしたらいいのか……っ、アナベルまで失ってしまったら、僕は……!」
自分が目を離したせいだ。一人で森に向かったのだ。母に会うために──と、レイモンドは床に膝を突いた。
がっくりと肩を落とすレイモンドを励ますために、ラーチェルはその前に膝を突いてその手を両手で取った。
「原因を探ってきます。それからこれは、熱を取るためのレイシェルの葉。濡らして体にはりつけると、熱を奪ってくれます。火傷の治療に使われますが、発熱にも効きます」
ラーチェルは肩掛け鞄から、旅行用の常備薬草をとりだした。
ラーチェルの仕事の性質上、薬草などを採取することも多くある。香水用の草花に、薬用効果があることも多々あるからだ。
その場合は薬学府との連携を行う。王城の研究室は、それぞれ派閥があったりするものの、横の繋がりが強いのである。
ラーチェルはとりだした乾燥した葉の束をレイモンドに渡した。
オルフェレウスはアナベルから手を離すと、ベッドの前から立ち上がった。
「発熱は体力を奪う。まずは熱をさげて、煮出した水を白湯にして、砂糖と塩をごく少量混ぜて飲ませるように。急ぎ、森に入り熱の原因を突き止めてくる」
「は、はい。やってみます! ですが、森は危険です。もし騎士様やラーチェルさんまで、呪いにおかされてしまったら……」
「心配ない。ラーチェルはここで待っていろ」
何があるか分からないとオルフェレウスは一人で森に行こうとしている。
ラーチェルはオルフェレウスの腕を掴んだ。
「私も行きます。こう見えて、草花には結構詳しいのです。森の中で熱を出したとあれば、何かの毒草が原因かもしれません」
「毒草か……」
「オルフェ様がいらっしゃれば、私の身は安全。ですよね?」
オルフェレウスは小さく息を吐くと、「そうだな」と頷いた。
村の奥にある小道を進んだ先に、森の入り口がある。
森の手前には木材加工場があり、ある程度までは伐採を行っているために道が整備されていている。
伐採されたあとの切り株からまるまるとしたキノコが顔を出していたり、クワの実や栗の実がなっていたりと、光のよく入る風通しのいい森である。
「アナベルさんの熱の原因は何でしょうね。確かに森には毒草が多くあります。うっかり食べると死に至る実も、熱が出続けて、嘔吐を繰り返す症状も。キノコも木の実も葉も根も、危険なものが多いのです」
「……あぁ」
「たとえばアルカステロ。とても綺麗な紫の花を咲かせます。でも毒です。食べたらいけません。公爵家の林にたくさんはえていますけれど」
「アルカステロ……」
「はい。そういえば……いえ、なんでもありません」
昔誰かが食べようとしていたような──。
ラーチェルは軽く首を傾げたが、今は昔の思い出に浸っている場合ではない。
森の奥へと歩きながら、ラーチェルは思案した。
常備薬の中に、解毒剤も持っている。採集の際にうっかり口にしてしまったり、切り傷に樹液が触れるなどをして毒が回ったりした場合、使用するための薬草である。
だが、原因が何か分からない限り、迂闊なことはできない。
「三年前のシビレカガシとはどんな魔物なのでしょうか。魔物についてはある程度知っているつもりですが、そこまで詳しいというわけではなくて」
「珍しい魔物だ。人など簡単に飲み込めるぐらいの蛇の姿をしている」
「蛇ですか……」
「蛇は苦手か?」
「いえ。ある種の蛇には匂い袋がありまして、そこからは蛇香といわれる高級素材がとれるのです。これは、私よりはアベルさんの専門ですね。動物が好きなんです」
「シビレカガシの毒はとても危険だ。生きているときは、毒の息をまき散らす。噛まれたらひとたまりもない。毒の息は神経毒で、吸ってしまえば一日は動くことができなくなる。その間に、獲物を食らう」
「そんな危険な魔物を、どうやって倒したのですか?」
「近づくときは呼吸を止める。一太刀で首を切り落とせば、毒の息も牙も無害化できる。毒袋があるのは口の中だからな。胴体には毒はない」
その後の始末は、王都から騎士団と魔物研究者を派遣して行ったのだという。
だとしたら、土地が汚染されているようなことはないだろう。
オルフェレウスが魔物を倒してから、もう三年の月日が経っているのだ。
森の小道が途切れると、苔むした地面に葉や枯れ枝が落ちる人の手の入っていない暗い森が現れる。
針葉樹の葉が空を覆っているせいで、光量が少なく薄暗い。
手つかずの、湿った森の香りをラーチェルは好んでいた。
苔の匂い、土のに多い。木の匂い。むせかえるような生命の匂いがする。
「オルフェ様がシビレカガシを倒したのは……」
「森の手前だ。森の奥はレイモンドが言っていたように、死者の道だとあの村の者たちは信じている。森の奥に生命の木が密生していることも、その理由の一因なのだろうが」
「アナベルさんは、あの小さな体でここまできたのでしょうか」
「何かを決意した人間の行動力は、普段の比ではない。森で行方不明になった子供が、数週間後、そこから数日歩かなければたどりつけない街で発見されることもある」
アナベルは、母に会いたい一心で歩き続けたのだろう。
森の奥で──何があったのだろうか。
道なき道を歩いて行くと、木々の香りの中に甘い香りが混じり始める。
「……バニラです。すごい。ルアルアの木ですね」
「わかるのか?」
「はい。オルフェ様は、感じませんか?」
「私は、何も。君はとても敏感だ。……それは女神が君にあたえた祝福なのだろうな」
「私もそう思います」
オルフェレウスに褒められて、ラーチェルは微笑む。
匂いに敏感などという特技が、一体何の役に立つのだろうと思ったこともある。
けれど今は──少しでもアナベルの病気の手がかりが欲しい。
ラーチェルは足を止めた。そこはルアルアの木の密生地だった。
つるりとした木肌を持つ、真っ直ぐな木である。木肌は白い。広葉樹特有の大きな葉が、空に手を広げるようにしてはえている。
「すごいですね。死者の国への道だと感じる気持ち、よくわかります」
それは居並ぶ骨のようでもあり、神殿の柱のようでもある。
どれも甘い香りを漂わせていて、ここが森のなかであることを忘れるほどだ。
「ここは、問題がなさそうだが」
「……待ってください、オルフェ様」
その甘い香りの中に、微かな、不快な香りを感じる。
ラーチェルはオルフェレウスの腕を掴んでひいた。




