ラーチェル、謝り倒す
城で働いているラーチェルは、オルフェレウスのことをある程度は知っている。
国王ルーディアスの異母弟で、かつて城の中の権力者たちはルーディアスを担ぐものと、オルフェレウスを担ごうとする者に二分された。
しかし、ルーディアスとオルフェレウスは腹違いの兄弟とは思えないぐらいに仲がよかった。
これは全て、ルーディアスの太陽のような人柄に由来する。
オルフェレウスの母は、城の侍女をしていた子爵家の女だった。
片や、正妃は隣国の姫である。その身分の差は著しく、オルフェレウスの母は気苦労もあったのだろう、早世したのだという。
後ろ盾のないオルフェレウスは、下心のある大人たちに囲まれて、神輿のように担ぎ上げられそうになっていた。
そこに手を差し伸べたのは、ルーディアスだった。
ルーディアスはオルフェレウスを『兄が弟と一緒にいないのはおかしい』と言って、己の傍に置いた。
どこに行くにも何をするにも一緒であり、無自覚ながら大人たちの悪意や策謀から、オルフェレウスを守っていたのである。
オルフェレウスを信頼し、騎士団を任せたのもルーディアスだ。
とはいえ、オルフェレウスは真面目な男だった。
実力もないのに騎士団長にはなれないと言い、見習い兵士の身分から実力で騎士団長までのしあがったのである。
騎士団長になるまでにも、オルフェレウスには様々な逸話が残っている。
不正をしていた上司を文字通り吊し上げて、騎士団本部の門にくくりつけて懲罰を与えただとか。
さる貴族と繋がりがあるせいで誰も手を出せなかった盗賊団の根城を、一人で壊滅させただとか。
あげればきりがないほどで、その逸話を知っているラーチェルは、オルフェレウスのことを怖いというよりはむしろ尊敬していた。
だからといって親しいわけではなく、親しくなるようなきっかけもなかったために、城ですれ違うときに挨拶をする程度の関係性だった。
浮いた話は聞いたことがない。立場を考えれば女性に囲まれそうなものだが、オルフェレウスが恐ろしくて、誰も彼に近づかない。
二十五歳の、独身男性である。
オルフェレウスが独身でよかった。既婚者に結婚を申し込んでいたら、大変なことになっていた。
今もすでに、大変なことになってはいるのだが。
ラーチェルは、てっきり公爵家の馬車に「いい加減になさい、酔っ払い。公爵家の恥晒し」などと言われて、押し込まれるのだと考えていた。
今までこんな失態を犯したことなどなかったために、余計に恥ずかしくいたたまれない。
ひどい醜態である。ひどい失態である。公爵令嬢としてあるまじき姿を、よりにもよってルイやナターシャ、他の貴族たちや、国王陛下にまで見せてしまった。
城には当然知り合いも多いのだ。なんせ、十八から今までの、二年間働いている。
今も仕事を辞めたわけではなく、二日休んだら出勤予定だ。
どんな顔をして、職場に行けばいいのか。
考えるだけで気が重い。
「騎士団長様、どちらに……」
「私の部屋ですが」
「ど、どうして」
「このまま公爵家に戻るために馬車に乗れば、酔いが回って吐くかもしれない。幸い私の部屋は城の中にありますので、そちらの方が近い」
「これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
「ラーチェル、静かに」
そうだった。城の中では騒いではいけないのだ。
押さない、騒がない、走らない。
それが城の廊下を歩く際の鉄則である。
ラーチェルはきゅっと唇を結んだ。オルフェレウスは規則に厳しい。これ以上彼の逆鱗に触れたくない。
オルフェレウスの部屋は、限られた者しか入ることのできない、城の上層階にあった。
剣や本が整然と整えられて置いてあるいかにも真面目な彼らしい部屋のソファに、ラーチェルは降ろされた。
オルフェレウスは「何か飲み物を」と、使用人に指示をする。
すぐに氷と紅茶の入ったグラスが運ばれてくる。それを受け取ると、オルフェレウスは使用人に下がるように指示をして、扉を閉めた。
静かに扉が閉じる。オルフェレウスが内鍵をかけるのを見て、ラーチェルはびくりと尻尾を逆立てる猫のように体をすくませた。
これから、懲罰を受けるのかもしれない。
何かしらの仕置きをされることを想像する。昔、今は亡き祖母に、ドレスを泥だらけにした仕置きに尻を叩かれたことを思い出した。
オルフェレウスも尻を叩くのだろうか。いやいや、まさか。祖母ではあるまいし。
ラーチェルはすぐさま立ち上がると、両手を胸の前で組んで、深々とお辞儀をした。
身分が上の者に対して行う正式な礼の形である。
「申し訳ありませんでした……! 本当に、申し訳ありません。ご不快な思いをさせてしまいまして、申し訳ありません」
ラーチェルは謝った。
ひたすらに謝った。本当に申し訳ないことをしてしまった。発言も、過去も消すことはできない。
できることといえば、謝ることだけだ。
「ラーチェル」
「はい。騎士団長様。私は、本当に申し訳ないことを」
「落ち着きなさい」
「は、はい」
「こちらに座りなさい」
「はい」
低く、感情の起伏に乏しい声で命じられて、ラーチェルはソファに座った。
オルフェレウスはその隣に座ると、ラーチェルの口にグラスをつけた。
冷たい紅茶が口の中に注がれる。すっきりとした味わいに、酩酊のために揺れていた世界の輪郭が、わずかにはっきりとしてくる。
オルフェレウスの長い指、黒い手袋。それから、式典警備用の白い軍服。
すぐ隣にオルフェレウスが座っているという事実をまざまざと感じて、酩酊とは違う目眩を感じた。
こくりと飲み干すと、口角から滴が垂れる。
黒い手袋がそれを拭う。申し訳なさといたたまれなさで、泣きたくなった。
ラーチェルは、オルフェレウスと同じようにとはいかないまでも、公爵令嬢として恥ずかしくないように、品行方正に過ごしてきたつもりだ。
婚約者ではない男性と二人きりで部屋にいるというのは、初めてのことである。
「ありがとうございます。少し、落ち着きました。後日、正式にきちんと謝罪をさせていただきます。皆様にも、誤解を解くためにお手紙を書きます。私の事情に巻き込んでしまい、申し訳ありません」
「君は私と結婚をすると言いましたが」
「それは、その、酔っていましたので……今も、酔ってはいるのですが。申し訳ないです」
「先ほども言ったように、私は嘘が嫌いです。結婚とは、神聖なもの。王国の法では、契りは永遠とされています。何が起きても、離縁は許されていない。そうですね?」
「は、はい」
確かにそうなのだ。
女神ルマリエに婚姻を誓うと、それは生涯の誓いとなる。
離縁は許されず、生涯お互いを唯一無二の存在として、愛し合うのが結婚である。
もちろん例外もある。当然だ。人間、品行方正に生きられる者の方が少ない。
離縁は許されないが、離縁をしないまま別の相手と暮らす──実質の離縁のようなことは、当然起こっている。
それら全ての人々に厳罰を与えることなどできないし、その法律は正直、あってないようなものだ。
しかし、オルフェレウスは規律を遵守する。
悪魔と呼ばれる所以であるが、規律を遵守するのに、悪魔というのもおかしな話である。
悪魔というのは、規律を守らない存在ではないのかしらと、ラーチェルは常々思っている。
それはともかくとして、オルフェレウスはラーチェルの結婚宣言を受け入れた時点で、結婚に関するこの法にすでに縛られているようだった。
「で、ですが、酔った上でのことですし、口約束です。騎士団長様にご迷惑をかけられません」
「酔っていようが口約束であろうが、私たちの結婚は成立しました。私は今日からあなたの夫です」
「怒ってらっしゃいますよね……」
「何故そう思うのですか?」
「私と結婚すると言い張っているのは、騎士団長様が怒っていらっしゃるからだと」
「それはあなたの認識が間違っています」
間違っているのだとしたら、なんだというのだろう。
ラーチェルはさらに泣きたくなった。
尻を叩かれるよりも、この押し問答の方がよほど辛い。
いっそ尻を叩いて、これで仕置きは終わりだ、以後気をつけるようにと部屋から追い出してほしい。
「ラーチェル。前言撤回はできない。君と私は夫婦になりました。……そうだな、これからは夫として君に接する必要がある」
口調が変わると、余計に距離が近くなったような気がした。
ラーチェルの知らないオルフェレウスがそこにはいて、それは夫として振る舞おうとしているからだ。
──本当に、結婚するつもりなのか。
「騎士団長様、どうか、許してください」
「許すも何も、私は怒っていない。君から結婚を申し込まれて、喜んで受け入れたのだ。怒る必要がどこにある?」
怒っている。どう考えても。
オルフェレウスに限って、ラーチェルをからかうというようなことはないだろう。
だが、部屋から逃してくれないことに彼の激しい怒りを感じる。
「ラーチェル。私のことは名前で呼べ」
「……ごめんなさい、本当に」
「夫婦の契りとは永遠だ。君が、酔っていたことを言い訳にして逃げることができないように、今から体を──契ってもいい」
オルフェレウスは冷たい無表情なまま、ラーチェルの腰に触れる。
大きな手で抱かれた腰を引き寄せられて、ラーチェルは世界がぐらぐら揺れるのを感じた。
「……ぁ、う」
──悪魔だわ。
髪が艶々で、皮膚も艶々で、歯が白くて綺麗で、鼻が高くて、まつ毛が長い。
悪魔は綺麗な顔をしているというけれど、本当にそうだ。
顔が近づいてくる。唇が触れそうなほどに、近い。
多少紅茶を飲んだとしても、大量に摂取した葡萄酒が体から抜けるわけではない。
その上、オルフェレウスの体があまりにも近く、ラーチェルの好きな香りがするものだから、余計に体温が上がってしまい、ラーチェルは見事に意識を手放したのだった。