うまくいかない日
今日はあんまりよくない日なのかもしれないと、ラーチェルは焦がしてしまったフライパンをごしごしタワシで擦った。
もちろん、焦げてしまったのはラーチェルがぼんやりしていたのがいけなかったのだ。
花形に切ったウィンナーを弁当につめて、卵焼きを焼いていた。
焼いている最中に昨日のルイとの邂逅が思い出されて、意識が一瞬別の場所へと飛んでいた。
気づいた時には卵焼きはフライパンにはりついて、焦げていたのだ。
「駄目だわ、私……」
こういう日が、まれにあるのだ。
星回りが悪いとしか言えない日である。
ルイと会ったのは、エディクス地方での採取の許可を得るためだった。
個人での採取なら構わないのだろうが、国営の調香府で商品化するともなれば、香木が採れる土地の領主に許可を得る必要がある。
ここをきちんとすませておかなくては、あとあと問題になりかねない。
領主によっては素材の売買を産業化する者もあれば、興味がないから好きにしていいという者もいる。
ルイの場合は「ラーチェルが必要だというのなら、好きにしてくれていいよ。香木がとれるという村の、村人と交渉してくれてかまわない」と言っていた。
その鷹揚さがルイらしいなと思う。ルイは昔からそうだった。
美味しいお菓子があればラーチェルとナターシャに分け与えるし、チェスやトランプをやっていても、一位にならないように手加減をしてくれる。
怒ることはなく穏やかで、春のやわらかな陽射しのような人である。
恋心こそもうないが、人として、友人として尊敬できるし好ましいと感じる。
「ルイ、余計なことかもしれないけれど、あまり領地に帰っていないと聞いたわ。ルイはオランドル家を継いだのでしょう? 皆、心配しないのかしら」
「ナターシャが、王都の方が華やかでいいと言ってね。ナターシャを王都に一人残して僕だけオランドルに帰るわけにはいかないし、ナターシャの言うように実際、オランドルは田舎だからね」
「そうかしら。私は好きよ。自然が豊かで、花も木々もたくさんあって。今回採取に行くのは生命の木だけれど、オランドルの綺麗な川にはミズザクラという水草が自生しているの。水の中にあるときには香りを感じられないのだけれど、香を抽出すると、すごく甘くていい香りになるのよ」
「褒めてくれて嬉しいよ。僕もオランドルは好きだ。生まれ育った場所だからね。ありがとう、ラーチェル。……君は昔から、草花が好きなんだね」
「ええ。可愛くて綺麗で、強いでしょう? 水と太陽と土と風があれば、草花は育つもの。色々な種類があって、色々な香りがして。すごく、魅力的だわ」
久々のルイとの二人きりの会話は楽しかった。
気兼ねなく会話ができる相手は貴重だ。付き合いが長いからか、ルイはとても話しやすい。
付き合いが長いだけではないのだろう。ルイの穏やかな性格が、先を急がせないゆったりとした話し方が、一緒にいて落ち着くのだ。
けれど──オルフェレウスといるときは、もっと緊張する。
緊張するし、ドキドキするし、嫌われないかと不安になる。
もしかしたら、恋を、しているのかもしれない。
そんなことを、卵焼きを焼きながら考えていた。そうしたら、見事に焦げたというわけである。
「はぁ……」
卵焼きを焦がしたぐらいでなんだと、気合いを入れ直す。
そうすると、気合いが入りすぎたのか、カボチャを切ろうとして包丁で手を切った。
慌てて駆け寄ってくる侍女たちに傷薬を塗ってもらい、包帯を巻いてもらった。
いつもよりも早く起きたのに──と、やや悲しい気持ちになりながら、オルフェレウスの分とそれから、シエラの分を作り終えた。
シエラのお弁当は、シエラが喜ぶように花に細工したウィンナーや、チキンライスを薄焼き卵で包んで、うさぎの形に整形したもの(ちゃんと顔も口もトマトソースで描いた)、ハート型にしたカボチャサラダなど、可愛い形のものをたくさん詰め込んである。
オルフェレウスの分は、入っている料理は同じだが、可愛く細工はしていない。
お弁当を作り終えて身支度を調えた。
オルフェレウスには今日は出迎えはしなくていいと伝えてある。
今日の朝はいつもよりも少し遅い出勤である。
ラーチェルはルルメイアから許可を貰ったので、今日からしばらくは採取に出かけるつもりだ。
こういう時は、調香府に行かなくても構わないことになっている。
シエラとオルフェレウスにお弁当を届けたら、出かけるつもりだ。
オルフェレウスにしばらく留守にする、週末までには戻ると伝えなくてはいけないと考えながら、ラーチェルは家を出た。
エディクス地方までは、乗合馬車を使う。
仕事をするときに、ラーチェルはできるだけクリスタニアの家に迷惑をかけないように気をつけていた。
費用は経費で支払うことができるが、あくまで仕事である。
できる限り安価な手段で移動して、宿にも食事にも金をかけないようにするのが、礼儀であるとラーチェルは考えていた。どうしても何か食べたくなったら、自分で稼いだ金で支払う。
貴族という身分を極力隠して仕事をするのは楽しかった。
旅のための荷物を一先ず調香府に置いて、弁当の入ったバスケットを二つ持って、オルフェレウスの元に向かう。
少し嫌な予感はしていた。失敗の多いついていない日には、嫌なことが起こりがちなのである。
騎士団本部に向かう手前の中庭に、背の高い人影を見て、ラーチェルは足を止めた。
思わず柱の陰に隠れてしまう。
覗き見はいけないとわかっていながら、それがオルフェレウスだと気づいた時には、柱の陰から中庭の様子をうかがっていた。
オルフェレウスとナターシャが、親密そうに何かを話している。
「──たとえば、あなたのような?」
「お戯れはいけません、私には夫が──」
「ルイ殿ですか」
「女神様は意地悪です。一度の恋しか、許されていないなんて」
ナターシャの涙声が切なく響いてくる。
ラーチェルの背筋を冷たいものが流れ落ちた。
二度あることは三度──というけれど。
オルフェレウスはナターシャが好きだったのだ。ナターシャに思いを寄せていた。
(だから、ナターシャの友人である私との結婚をあっさり承諾したのね)
ラーチェルはその場から音を立てないように気をつけながら去った。
去ったというよりも、逃げたのである。
本当はきちんと会って話そうとしていたけれど、騎士団本部ですれ違った騎士にお願いをして、バスケットをオルフェレウスに届けるように手渡した。
それから、「しばらく留守にします。週末には戻ります」という言付けもお願いした。
そのまま城の奥へ行き、シエラ姫にバスケットを届けると、ミーシャが何かあったのかと心配をしてきた。
「今度の研究発表会で、香水を発表するのだけれど、少し悩んでいて。大丈夫、元気よ」
「そう、ならよかった。ラーチェル、無理をしないで。色々重なって大変よね。結婚も、仕事も。結婚は、知らない相手と暮すのだもの。ルーディアス様は優しいけれど、私はあなたに支えられた。だから、私もあなたを支えたいの」
「ありがとう、ミーシャ」
二人きりの時には気兼ねなく話すようにとミーシャから頼まれている。
ミーシャは心優しく繊細な人だ。ナターシャとの方が付き合いが長いのに、ラーチェルはミーシャといるほうが心が安らぐ。
「出かけるのよね、気をつけてねラーチェル。オルフェレウス様もきっと、とても心配しているわ」
「そうね。すぐに戻るわ。お土産を買ってくるわね」
「お土産、やった!」
シエラが嬉しそうに抱きついてくる。
心にぽっかりあいた穴に、シエラの子供特有の高い体温の温もりが、じわりと染みこんでくるようだった。




