あなたのものは、全て私の
◇
自分が一番可愛いと思う角度で、ナターシャは小首を傾げた。
「ラーチェル様が、エディクス地方に?」
「なんでも、そこにしか自生していない香木があるのだとか。生命の木というそうだよ」
「生命の木ですか」
「うん。バニラの香りがする木なんだって。今度の研究発表会で、新作の香水を発表するらしい。ラーチェルは不幸なことがあったのに、よく頑張っていて偉いね」
ルイという男を一言で表すと『人がいい』ただそれだけの人間である。
ラーチェルとルイ、幼少期から三人で遊ぶことが多かったナターシャは、ルイについてそう思っている。
要するに、甘いのだ。
不幸があれば同情し、困っている者がいれば手を差し伸べようとし、ナターシャの言葉もすぐに信じる。
御しやすいけれど、魅力的かといえばそうではなかった。
そんなルイに、ラーチェルが恋をしていると知ったとき、ナターシャは正直なところルイのどこがいいのだろうと不思議に思った。
ラーチェルはクリスタニア家という裕福で立派な貴族の家に生まれた。
生まれた時から恵まれている女である。
そう、ナターシャは思っていた。
ラーチェルはルイとナターシャを友人だといい、平和な笑顔を浮かべて楽しく遊んでいるつもりだったのだろう。
けれどナターシャは、楽しいと思ったことは一度もなかった。
クリスタニア家の令嬢と仲良くすれば、きっといいことがあると、両親には言われていた。
いいこととは何だろう。
(ラーチェルよりも私の方が綺麗なのに。私の方が可愛いのに。私の方が皆から愛されているのに)
それなのに、『いいこと』を目的にラーチェルと仲良くしなくてはいけないなんて、おかしい。
ナターシャは心の中でずっとそう思っていた。
そして、ラーチェルが「ルイが好き」だとこっそり教えてくれたとき、ナターシャの中にはじめて『楽しさ』がうまれた。
ルイは、ラーチェルのことが多分好きなのだろう。
ふと気づくと、ラーチェルを目で追いかけている時がある。
ラーチェルのどこがいいのか、何がいいのかはわからないけれど。だって、普通だ。
クリスタニア家に生まれたということ以外、なんの特徴もない。
顔立ちも、髪の色も目の色だって、体つきだってずっと、ナターシャの方が優れていた。
ナターシャは妖精令嬢と呼ばれていたが、ラーチェルには呼び名がない。
強いて言うならナターシャの『おまけ』である。
そんなおまけに恋をしているルイが滑稽だった。
そしてルイなどという顔立ちが特別美しいわけでもなければ、特別背が高いわけでもなく、ただにこにこしながら人の話を聞いているしか能のないような男に、ラーチェルが恋をしているのもおかしかった。
だから──奪ってやろうと思ったのだ。
そもそも、ラーチェルと仲良くしていて、ナターシャにとって「いいこと」なんて一つもない。
男たちのようにちやほやしてくれるわけでもなければ、他の令嬢たちのように褒めそやしてくれるわけでもない。
偶然公爵家に生まれたというだけで、偉そうにしている女である。
(私の方がずっと優れているのだから、ラーチェルのものは私のものにならなくてはいけないわよね)
ごく当たり前のようにナターシャはそう思った。
だから、ルイをこっそり呼び出したのである。
「ルイ、秘密の話があります。ラーチェル様のことなのだけれど、ラーチェル様は信仰に背いて何人もの男性とお付き合いをしているのです」
「まさか、そんなわけがない」
「私も最初は驚きました。ラーチェル様が見知らぬ貴族男性と歩いているのですから。それが、見かける度に相手の男性が代わるのです。ラーチェル様は公爵家の令嬢ですから、引く手あまたでしょう。けれど、信仰に背くなんて、私はとても見ていられなくて……」
「気持ちはわかるけれど、それはラーチェルの自由だから。口を出してはいけないよ」
ルイはどこまでも優しい男だった。
ナターシャの涙を簡単に信じ、ラーチェルを庇いながらも、彼女に失望して淡い恋心を捨て去った。
そして、それからルイに思いを寄せている態度をとり続けたナターシャに恋心を抱き、果ては結婚することになったのだ。
結婚するまでは、ナターシャも楽しかった。
ラーチェルの暗い顔を見ていると、心が躍った。
無理して笑う顔も、何か言いたげな顔も、切なげに揺れる瞳も。
何もかもが、ナターシャの心を弾ませた。ラーチェルと一緒にいて、はじめて楽しいと感じたのだ。
ラーチェルが新しい婚約者に裏切られたと知ると、更に楽しくなった。
ルドランにも、もちろんナターシャは接触した。
ルイで上手くいったのだから、きっとルドランでも上手くいくだろう。
密会し、ラーチェルについてあることないこと吹き込んだ。
あんな女性と結婚しなくてはいけないなんて、ルドラン様はお可哀想。
ラーチェル様も浮気をしているのですから、ルドラン様も好きな女性と結ばれてはいかがでしょう。
そう伝えると、ルドランは──長年の思い人と浮気をした。
ラーチェルの婚約がなくなったと知ると、ナターシャは上機嫌になった。
そして、あの日の夜会でラーチェルの落ち込んだ顔を見ると更に更に楽しくなった。
いい気味だわと、思ったのだ。
クリスタニア家に生まれたから、特権階級だから、王城での仕事が手に入ったのだろう。
たいして特別な何かがあるわけでもないくせに。
その特権を当然だという顔で享受しているラーチェルが、ナターシャは多分、嫌いだったのだ。
(私の方が優れているのだから、私の方が幸せになって当たり前よね。私の方がずっと可愛いもの)
ナターシャはそれを当然と思っていた。
ラーチェルに同情的な言葉を投げかけると、ラーチェルは言葉に含まれている棘に気づいたのだろう。
自棄のように酒を飲み干して、あろうことかオルフェレウスに求婚をした。
ナターシャは愉快で仕方なかった。
皆の前でいらない恥をかいている不幸な女を見ていると、結婚生活のつまらなさも、ルイという男の退屈さもどこかに消えていくようだった。
それなのに──。
「オルフェレウス殿下も優しい人だそうだ。悪魔、なんていう呼び名は、誇張なのだろうね、きっと。再来週には結婚式があるそうだ。招待状も貰ったよ」
ルイは、昼間ラーチェルと会っている。
ナターシャは王都の劇場に友人たちと出かけていた。
ラーチェルとオルフェレウスの結婚の噂が耳に入ってきて、苛立っていたのだ。
気を紛らわせたかった。
帰ってきて早々、聞きたくもないラーチェルの話を聞かされて、ナターシャの完璧な笑顔は崩れそうになっていた。
「ラーチェル様も少しは落ち着いたということでしょうか。オルフェレウス様はラーチェル様の男遊びを知らないのでしょうか?」
「さぁ、そこまでは。本人に尋ねたことはないし。友人といえども、プライベートには踏み込むべきではないからね」
「そうですよね……」
ナターシャは目を伏せる。
オルフェレウスといえば、王弟殿下だ。
騎士団長を務めている、華々しい立場の──権力者である。
気に入らなかった。
ルイもルドランも、たいした家柄ではない。けれど、オルフェレウスは違う。
もし、婚約が破棄されたら──今度こそラーチェルは、皆から白い目で見られるだろう。
それはとても楽しそうだと、ナターシャは苛立が暗い喜びに変っていくのを感じた。




