バニラとシナモン
オルフェレウスはラーチェルの頼みに、嫌な顔一つせずに頷いた。
「私でできることなら。だが、私は香水にも装飾品にも詳しくはない」
「ありがとうございます、無理を言ってしまって申し訳ありません」
「以前、謝罪を禁じたはずだ。君は私に気を使いすぎだ。私は、怖いか?」
ラーチェルは慌てて両手を振った。
怖いと感じたことはないのだ、本当に。
「申し訳……ではなくて、その、怖くはありません。オルフェ様は真面目な方だと思っています。以前から、尊敬をしておりました。そのせいでしょうか、迷惑をかけたくないと、感じてしまって」
「尊敬?」
「はい。オルフェ様ほど清く正しく、真面目な方はいらっしゃらないでしょう。不正を嫌い、信仰に背くことを嫌い、まっすぐで」
「私はそんなにいい人間ではない。……だが、君は私を憎からず思っていてくれたのだな」
「そうなってしまうでしょうか……まるで、気が多い女のようで、恥ずかしいです」
ラーチェルは無意識に自分の服を掴んだ。
ラーチェルはつい最近まで婚約者のある身だった。それなのに、オルフェレウスにまで秋波を送っていたと思われたらと、不安になる。
「そんなふうには思っていない。ラーチェル、私は……いや、なんでもない。それで、私に何が手伝える?」
「は、はい! あのですね、オルフェ様。オルフェ様からはいい香りがするのです」
「香り……?」
オルフェレウスは不思議そうに繰り返した。
自分の袖を鼻に持っていく。それから、軽く首を傾げた。
「自分ではわからない。指摘されたこともないな。香水を使っているわけでもないが、服の匂いか?」
「あの、少し失礼していいですか?」
「あぁ」
ラーチェルはぐいっと、オルフェレウスに体を近づけた。
香りの出所を探るように、オルフェレウスの軍服の襟や、胸元、指先や腕に鼻を近づける。
首筋や、髪まで真剣な表情で鼻を近づけて探っていると、ぱちりと、至近距離でじっとラーチェルを見つめている美しい碧玉と目が合った。
「……も、もうしわけ」
「ラーチェル」
「ではなくて、わ、私、夢中になってしまって……」
「構わない。むしろ、役得だった」
「え……?」
「それで、わかったのか? 何の匂いだろうか。そう言われると、気になるな」
無遠慮に距離を縮めて、口付けでもしそうな距離まで顔を近づけてしまった。
なんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう。
けれど、オルフェレウスは平静なままだった。
自分だけ意識しているのが恥ずかしく、これではまるで男性に惚れやすい恋多き女のようである。
そんなことは、なかったはずなのに。
ラーチェルは高鳴る胸に手を当てて、心を落ち着かせるために深く息をついた。
赤くなっている顔を見られないように俯いて、視線を彷徨わせた後、ラーチェルは隠すのを諦めてオルフェレウスに向き直った。
もう、見られてしまった。真っ赤になって狼狽えているところを。
どういうわけか、恥ずかしいところばかりを見せてしまっている。
普段はこんなことはないのに。多分。
「わかったような、気がします。香りは、髪と、軍服から。布や髪は、匂いが染み込みやすいのです。でも、香水ほどに強くはなくて。香りは、やっぱりバニラとシナモンですね。それから、珈琲でしょうか」
「あぁ、なるほど」
オルフェレウスは得心がいったように頷いた。
「珈琲に、淹れている。シナモンスティックと、バニラの枝だ」
「枝?」
「バニラの香りのする香木だな。エディクス地方にある森で取れるもので、あまり流通していない。香りだけつくが、味はしないために重宝している」
「そうなのですね! シナモンスティックは知っていましたが、バニラの香木は……」
「その地方のものたちは、ルアルアと呼んでいるな。生命の樹という意味だ。彼らにとっては神聖なもので、あまり乱獲はしない。そのため、一般には知られていないのだろう」
「オルフェ様は、どうして?」
騎士は遠征にいくことがある。それは領主からの依頼で、どうしても手に負えなくなった大規模な盗賊の討伐や、人里に害を及ぼす魔物退治、それから、災害時の人命救助などを行うためである。
だが基本的には王都の守護をするために、王都にいることが多い。
戦さがなくとも、騎士が騎士として在住していることが他国からの侵略の抑止力につながり、また、貴族の離反の牽制にもつながるのである。
遠征の時に、エディクス地方に行き、ルアルアの香木を持ち帰ってきたのだろうか。
「数年前に、エディクス地方での魔物討伐で怪我をおってな。魔物の森の手前にある村で世話になった。その時、鎮痛剤として使われたのがこの香木だった」
「鎮痛剤になりますか?」
「どうだろうな。精神を落ち着ける作用はあるのだろうが、香木を焚いた所で痛みが取れるわけでもない。ただ……よい香りがするから、もらってきた」
「オルフェ様は、バニラとシナモンが好きなのですか?」
「あぁ。……好きだな」
オルフェレウスはテーブルの上に置かれているラーチェルの手に、自分のそれを重ねた。
ラーチェルは再び自分の顔が真っ赤に染まるのがわかる。
顔が熱くて、言葉が出てこない。
「オルフェ様、あまり、お戯は……っ、私、慣れていないのです。ですから」
「リュシオンには、手に触れられなかったのか?」
「リュシオン様に?」
「……彼がよくて、私が駄目だというのは、奇妙な話だろう」
「オルフェ様……?」
どうしてリュシオンの名前がここで出てくるのかと疑問に思う。
ラーチェルが尋ねる前に「あ! ここにいた!」という、可愛らしい声が響いた。




