研究棟発表会の準備
オルフェレウスに出迎えてもらったために、いつもよりも早く研究棟についた。
ラーチェルの家のある貴族街から城まではさほど遠くないとはいえ、徒歩では小一時間程度はかかるが、馬ではかかる時間も半分以下だ。
「それではオルフェ様。また昼休憩の時間に。今日は私からお伺いしますので、待っていてくださいね」
「──私が迎えにくるわけにはいかないのか」
「ご迷惑でしょうか」
「そういうわけではないのだが。……わかった、待っている」
「はい!」
約束ができたことを嬉しく思い、ラーチェルは微笑んだ。
騎士団本部に向かうオルフェレウスの背中を見送って、ラーチェルは調香局へと向かった。
香りというのは繊細なもので、調香局の調香室の中では飲食が禁止されている。
珈琲でも飲もうものなら、部屋中が珈琲の香り一色になってしまうからだ。そのため、普段皆で過ごす机の置かれた部屋の奥に、分厚い扉を隔てて調香室が設置されている。
研究室は話し合いをしたり書き物をしたり、書類をまとめるための場所で、こちらでは飲食が許されている。
ラーチェルは支度室で服の上から白衣をばさりと羽織ると、研究室へ向かい、アルコールランプに火をつけてビーカーで湯を沸かした。
湧いた湯で紅茶をいれて飲んでいると、ややあって「いつも早いね」といいながら、同僚たちがやってきた。
「おはよう、皆。さっそくだけれど、話があるわ」
皆が揃うと、ルルメイアが珍しく朝から張り切っている様子で口を開いた。
「二ヶ月後の研究発表会なのだけれどね。調香府からは何を発表しようかと悩んでいて。去年はアベルとヴィクトリスの共同研究を発表してもらったのだったわね」
去年は、ラーチェルは調香府に入って一年目だった。研究発表会では、同僚たちの研究を裏方としてささえさせてもらった。
ヴィクトリスが海で釣ってきたオオアカエイを乾燥させたものをずらりと並べて、尻尾にある毒の成分研究と、乾燥させ粉末状にしたものから香りを抽出したシーソルトアカエイフレグランスの発表をしたのである。
オオアカエイはきちんと水分を抜いて乾燥させると、生臭さが一切なくなり、清涼感のある海の香りが強く残る。
海辺の地方では薬や、虫除けなどとして使用されているため、また尻尾に毒があることもあり、アベルとヴィクトリスが共同で研究をすすめていた素材の一つだ。
ラーチェルはとてもすばらしい研究成果だと感じたのだが、研究発表会に集まった貴族たちは、乾燥させたオオアカエイの奇っ怪な姿形に青ざめたり悲鳴をあげたりしていて、いまいち反応がよくなかった。
海産物は兎角、魔物扱いされやすいのだ。
魔物と動物ではその成り立ちが違うといわれているので、全くの別物だろうとラーチェルは思うのだが。
とはいえ、シーソルトアカエイフレグランスは、『海の魔物』という名前の香水として商品化されて、男性を中心としてかなり売れている。
女性を魅了する効果があるのだとか。海の魔物という名前や、黒と青のグラデーションで深海をイメージした瓶のデザインもよかったのだろう。
このあたりは、研究発表会での受け入れが悪かったので、ラーチェルとヴィクトリスと話し合いをして決めていった。
アベルは研究以外には興味をもたない。「名前とデザイン? エイ香水にして、エイ型の瓶につめればいいんじゃない?」とにこにこ言っていたので、これは駄目だとルルメイアが判断したのである。
「今年でラーチェルも二年目だし、殿下との結婚という話題もあるし、ラーチェルに頼もうと思っているわ」
「私ですか?」
「えぇ、あなたよ。秋に向けた新しい香りがいいわね。素材はなんでもいいけれど、できれば商品化までしてほしいわ。新商品として研究発表会で貴族たちに配るのよ」
「は、はい。頑張りますね」
一瞬戸惑ったが、ありがたい提案だとラーチェルは笑顔で返事をした。
けれど、今から二ヶ月で商品化までとなると、なかなか厳しそうだった。
昨日、いくつか案を書き出そうとしていたが、結局ノートに書いたものといえば、オルフェレウスの似顔絵とバニラとシナモンという文字だけである。
「それから、今回は服飾府の者たちが共同で発表したいと言ってきているわ。香水と服装はセットみたいなところがあるし。調香府で作った香りから、新しいドレスをデザインしたいと言っているの。担当は、リュシオンよ。あとで話しておいてね」
「それは……ありがたい話です。わかりました」
香水単品で発表するよりも、視覚的に華やかな服飾府のドレスや礼服とセットにして発表した方が、たしかに目立つ。
服飾府の発表会はいつも賑やかで、会場に組まれた中央のランウェイを、新しくデザインされた衣服を着たモデルたちが歩くのである。
このモデルたちは、毎年城の侍女たちや騎士たちから選ばれる。
服飾府の者たちが、これはと見込んだ者に声をかけるのである。
忙しくなりそうだが、楽しみだとも思う。
共同発表を行うリュシオン・アルマニは、アルマニ伯爵家の三男である。
昔から着飾ることが好きで、宝石や布を集めたり、絵を描いてばかりいたのだという、美貌の青年である。
個人的に話したことはないが、挨拶を交わしたことなら幾度かある。
去年は、モデルをして欲しいと言われたのだが、ルドランとの婚約の話が出ていたので断った。
古い貴族たちは、見世物になるようなことを嫌うのだ。
はしたない女と思われると困る。それに、ラーチェルはモデルをするほど美しくはない。
ナターシャならいざしらず、そんな役目がつとまるとは思えなかった。