冷製トマトスープと空豆とベーコンのパスタ
多くの人々が働いている城には、いくつかの食堂がある。
騎士団本部や、ラーチェルの働く研究棟、それから使用人たちの使用するもの、官職の者たちが使用する者など様々だ。
それぞれの食堂は独自に運営されており、その料理の旨さを競い年に一度、食堂対抗料理合戦が繰り広げられるぐらいである。
ルーディアスは兎角、祭りが好きな男だ。
こういった催し物は彼が王になってから増えていった。
それは研究棟も例外ではなく、こちらは競いこそしないが、研究発表祭というものが夏に行われる。
各研究棟の開発した商品や、研究結果を報告する会で、堅苦しいかといえばそうでもなく、新しい調味料を使った料理が振る舞われたり、ドレスやアクセサリーのお披露目会があったり、新種の動物がお披露目されたりと、結構賑やかなのである。
ラーチェルはオルフェレウスと共に向かった研究棟の食堂の、ゆったりとしたテーブル席に座って、一ヶ月後に行われる研究発表祭について話していた。
食堂のメニューは数種類。選べる仕様になっている。
ラーチェルは冷製トマトスープと空豆とベーコンのパスタセットを頼んだ。
オルフェレウスも同じものをと言っていた。ほどなくして、料理が運ばれてくる。
ガラスの器に入ったトマトスープはまるで宝石のようだ。パスタにころころと入っている空豆とベーコンも愛らしい。
オルフェレウスと共に食事の前のお祈りを捧げる。
それからスプーンを手にして、トマトスープを口に運んだ。
「美味しい。私、トマトが好きなのです。トマトスープを苦手に思う方も多いようですけれど、オルフェ様はいかがでしょうか」
「食事の好き嫌いはないな」
「では、特別好きなものはありますか?」
「そうだな──これといって、とくには」
「なるほど。好きな食べ物にまだ出会っていないのかもしれませんね。私に任せておいてください、これでも料理は得意なのですよ」
オルフェレウスに何を作ったか、何を食べてもらったら喜んだのか、これからきちんとノートに書き留めていこうと、ラーチェルは心の中で決意した。
「使用人は、雇うつもりだが」
「え……あ、そうですよね。私、オルフェ様のお話をきいて、てっきり二人きりで生活するのだと思っていました。それも楽しそうだと感じていたものですから……もしかして、浮かれているように見えるでしょうか。恥ずかしいです」
想像を巡らせて──色々先走っていたようで、恥ずかしい。
一人で浮かれてしまっているような気さえする。
ラーチェルはただ、オルフェレウスに感謝をしていて、結婚について前向きに考えたかっただけなのだが。
「……いや。そんなことはない。君には不自由をさせないつもりだ。だが、家の采配は君がしてくれて構わない。必要がないのなら、雇わなくてもいいが……君は、公爵家の令嬢だろう」
「我が家は少し変わっているとお話ししましたよね。両親は私に自由を与えてくれていました。ある程度のことは一人で行えるのですよ。仕事で、採集に向かうときも一人ですし」
「危険では?」
「身分を隠して行きますし。危なくないよう、護衛から剣術も教わっていますので」
「……しかし」
眉間に皺を寄せて厳しい顔をするが、これは心配をしてくれているのだろう。
ラーチェルはありがたいことだと思い、微笑んだ。
「採集は、山や森、それから海などで、必要な素材を集めるだけですので、森を散策するのと同じなのですよ。危険な場所に行くわけではありませんので」
「では、私も共に行こう」
「ですが、オルフェ様は忙しいので」
「大きな戦が起らなければ、忙しいようなことはない」
「ありがとうございます……」
ラーチェルは視線を、パスタの皿に落とした。
オルフェレウスは美しい所作で、けれど素早く食事を終えて、ラーチェルが食べる姿を見ている。
マナーについては厳しくしつけられていたため、見られて恥じるようなことはないが、視線を感じると少し落ち着かない気持ちになる。
「オルフェ様……私、あなたにお話しをしなくてはいけないと思いまして」
「何を?」
「私には幼馴染みがいます」
「知っている。ルイ殿とナターシャ嬢だな」
「はい。……私はルイが好きでした。けれど、ルイはナターシャと結ばれて、私の気持ちは伝えられないまま片思いで終わりました」
正式に結婚をする前に、きちんと伝えておかなくては行けないと感じた。
オルフェレウスの人生を、ラーチェルの迂闊な求婚で奪ってしまうのだ。
まだ間に合う内に、全て話しておきたい。
話したことで嫌われてしまうのだとしたら、それは仕方のないことだろう。
いつか知られてしまうとしたら、例えばそれがオルフェレウスを裏切ったり傷つけたりすることになるよりは、ずっといい。
「それで?」
「それで……私はずっと、その気持ちを引きずっていて。でも、母のすすめでルドラン様と婚約をしたのです。ルドラン様は優しく誠実な方のように感じました。お会いして食事をすることはありましたが、結婚までは清い関係を続けてくださり」
「もうすぐ結婚する予定だったところで、浮気をされたのだったな」
「ご存じですか」
「皆が噂をしている。私の耳にも入ってきた」
「……お恥ずかしい限りです」
「君は被害者だろう。恥じ入る必要はない」
だとしても、婚約者に捨てられた女という肩書きは、恥でしかない。
ラーチェルは小さく息をついて、目を伏せる。
改めて話をしてみると、情けないことばかりだ。
「あの夜──ルドラン様も会場にいて、私は気にしないようにと思っていました。けれど、ルイとナターシャに声をかけられて、なんだかとても惨めな気持ちになって、お酒をあおってしまったのです。オルフェ様、私はそのような、恥ずかしい女なのです」
「君はそう感じたのだろうが、私はそうは感じなかった」
「それは、どういう……」
「君のことは知っていたと言っていただろう。だから、君の過去の感情がどうであれ、それは私にとってはどうでもいいことだ。誰にでも、過去はある」
確かにそれはそうかもしれない。
だが、本当にいいのだろうか。
「君が今でも、ルイ殿が好きだというのなら、話が変わってくるが」
「そんなことはありません……! 私はオルフェ様に誠実でありたいと思っています」
「感情というのはままならないものだろう。私が、君に好かれる努力をすればいい。それだけの話だ、ラーチェル」
そんなことを言われると──まるで、好かれているのだと勘違いしそうになる。
ラーチェルは体が熱くなるのを感じながら、残りのパスタを喉に流し込んだ。
過去は誰にでもあると──オルフェレウスは言った。
オルフェレウスにも誰か、忘れられない人がいるのだろうか。
そんな疑問が首をもたげたが、あまり詮索するのは失礼だと、心の奥に押し込んだ。