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落ち着かない午前中



 ラーチェルは落ち着かない心持ちで自分の席についた。

 広いフロアの一区画がラーチェル用の席になっていて、天井からは乾燥途中の花々が吊されており、鉢には様々な植物が植えられている。

 これまでの研究をまとめたノートが何冊も重なっていて、インク壺とガラスペン、フラスコや試験管などが並んでいる。

 

 とても落ち着く場所である。

 ラーチェルは現在、新しい香水の開発をしていた。

 

 季節ごとに人気の香水は移り変わる。

 その季節に合わせて、新種の花や種、香木などが発見されると、それを組み合わせたりして、新しい香りを作るのである。


 香調には三段階あって、つけたあとの時間の経過によってその香りが変わっていく。

 つけはじめの強く広がる香り、体に馴染んできて長く続く香り、そして残り香。


 少し配合を変えると、途端に香りが変化してしまう。

 不愉快な香りになる場合もあるし、ごちゃごちゃして何の匂いかさえ分からなくなってしまう場合もある。


 夏が終わると、秋がくる。夏はシトラス系の香りが人気だが、秋には甘い香りが好まれる。

 一体どんな香りにするのか頭を悩ませていたが──さきほどオルフェレウスと話したときに感じた、バニラとシナモンの残り香がラーチェルの体を包み込んでいるようだった。


「殿下はまるでそびえ立つ壁のようでしたね」


 皆が席に戻る中、ラーチェルの元にやってきたヴィクトリスが話しかけてくる。

 ラーチェルは開いたノートから顔をあげると、ぱちぱちと瞬きをした。


「壁……?」

「ええ。とても大きくて立派でした。遠目に見るとおそろしいばかりでしたが、近くで見るととても美しくていらっしゃいますね。ラーチェル、殿下はよい広告塔になりますよ」

「広告塔、ですか」

「ラーチェルの香水を殿下に使っていただくのです。そうすると、なんと、香水が売れるのです。大衆というのは、有名な方が使っているものと同じものを使いたいと思うものなのですね」


 ヴィクトリスは、豪商として知られるイルマニ伯爵家の四女である。

 少女のような見た目ではあるが、年齢はラーチェルと同じだ。

 毒草の研究がしたいと希望して、調香府へと配属された。

 

 植物は毒にも薬にもなる。その成分が人の体にとって有害なものもあれば、有益になるものもある。

 その中でも毒草ばかりを扱うヴィクトリスの研究は、毒の匂いを嗅ぎ分けることや、毒の成分を判別することを中心に行われており、その研究結果は薬剤府へと提供されて非常に重宝がられていた。


 どこか浮世離れしているヴィクトリスが、商売について口にするのも珍しい。

 

「香水が売れれば、調香府の成果だと評価されるでしょう。そうしたら、予算を増やして貰えます。予算が増えれば、もっと研究に没頭できます。ラーチェルはとてもよい方と結婚を決めてくれました。ルイ様やルドラン様よりもずっとずっと殿下がいい。私は殿下を応援します」


 ヴィクトリスはぽんっとラーチェルの肩に手を置いて、それから自分の席に戻っていった。

 調香府の面々は皆優しくて親切だが、少し変わっていて、自由なのだ。


 ラーチェルにとってはそれがとても、居心地がよかった。

 ちなみに、ヴィクトリスとルルメイヤには過去の恋愛について根掘り葉掘り聞かれたので、ラーチェルは話をしてしまっている。


 調香府に彼らが来ることはないだろうし、隠し事が苦手なラーチェルは、だまり続けていることができなかったのだ。


 ラーチェルはノートに、インクをつけたペンで、『オルフェ様』と書いた。

 それから、その横に背の高い男性の簡単な絵を描いて、眉を描くと、眉間の皺を描いた。

 少し、似ている。


 バニラ、シナモンと書き加える。甘くスパイシーさのある香りだ。

 ラーチェルは甘い香りが昔から好きだった。

 バニラやキャラメル、砂糖菓子のような香りだ。

 何故好きかと聞かれたら、美味しそうだからである。

 甘くて美味しそうな香りに包まれていると、幸せな気持ちになれる。

 

 自分のつくった香水をつけてもらうことを想像してみる。

 なんだか、少し恥ずかしかった。


 午前中は、バニラとシナモンの香りを表現するのに、どの植物を使うかを考えて時間が過ぎていった。

 時折、昼にまた会いに来るといっていたオルフェレウスの言葉が脳裏を過ぎる。


 どことなく、そわそわと落ち着かない。

 こんなに唐突に先の予定が入るというのははじめてだ。ルドランとの一年程度の婚約期間の間に食事をしたことがあるが、手紙をもらった一週間後や二週間後に会う、という感じだった。

 その間心の準備ができていたし、ドレスや髪や化粧もきちんとしていた。


 今は、ラーチェルにとっては特別な日ではなく、いつもの日常である。

 特別、綺麗にしているわけでもない。


「ラーチェル、迎えに来た」


 正午の鐘が鳴ると、きっちりその時間にオルフェレウスがやってくる。

 ラーチェルはいそいそと立ち上がった。慌てたせいで、足を机にぶつけて、ばさばさと山積みにしていたノートを散らかした。


「大丈夫か」

「大丈夫です、申し訳ありません、大丈夫です」


 いつもはこんなことはしないのに。

 オルフェレウスにはどうして恥ずかしい姿ばかりを見せてしまうのだろう。

 ラーチェルは散らかしたノートを元通りにつんで、それから脱いだ白衣を洋服掛けにひっかけると、急いでオルフェレウスの元に向かった。


 同僚たちが「いってらっしゃい」とにこにこしながら手を振ってくれる。

 ラーチェルは「行ってきます、午後には戻ります」と礼をして伝えて、研究室から出た。


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