自由と尊敬
なにもかもを要らないと拒絶するオルフェレウスに、ルーディアスは困り果てたように「ならばせめて、家ぐらいは王家の所有するものを使用してくれ」と伝えた。
「王都にいくつか空き家があるだろう? 遊ばせていても仕方ないし、好きなものを使え。本来ならば領地を切り取って与える慣例になっているのだ。それもいらない、爵位もいらないと言われてしまってはな。大切な弟に、できる限りのことがしたい」
「必要ありません」
それも否定しようとするオルフェレウスの手を、ラーチェルは引っ張る。
オルフェレウスの清廉さは理解できたが、人の好意を無碍にするのはラーチェルとしては避けたい。
「オルフェ様、空き家であればいいのではないでしょうか。私の父も、王都に家を用意するのだとはりきっていましたから……どのみち、二人で暮す家は必要なのですから、陛下からいただいても、父が建てても同じことなのでは」
「そうだわ、オルフェレウス様。ラーチェルのいうとおりよ。いちから建てれば数年はかかるでしょう? 空き家を買うとしても、ラーチェルは公爵家の令嬢なのよ。中途半端な家を用意したのでは、オルフェレウス様は嫌われてしまうかもしれないわ」
「そんなことはないのですが……」
家が小さかろうが、古めかしかろうが、そんなことで相手を嫌いになったりはしない。
首をふるラーチェルに、ミーシャが「でも結婚して不自由するというのはいけないわ」と指摘する。
「オルフェ。先王が道楽で建てた空き家なのだ。使ってやったほうが、家も浮かばれるだろう」
ラーチェルの参戦で水を得た魚のように、ミーシャとルーディアスが言いつのった。
先王という言葉に、オルフェレウスの眉がぴくりと動いたが、彼はラーチェルと繋いだ手と、ラーチェルの顔に視線を落とすと、それから静かに頷いた。
「わかりました。では、そのように」
「やった。そうしよう! ありがとう、ラーチェル。この分からず屋を説得してくれて」
「いえ、私は何も」
「それでは、兄上。私はこれで」
「もう帰るのか?」
「用は済みましたので」
「結婚の式典はどうする? 弟の結婚だ。国を挙げて大々的に……」
「結構です。ラーチェルは、国をあげて大々的に祝いたいか?」
「いえ、私は……オルフェ様と二人だけでも、十分です」
そこまで派手好きでもない。着飾るのは相応に好きだが、だからといって地位や名誉が好きかといえば、そういうわけでもない。
オルフェレウスの意志にできるだけ沿いたいと思う。
あまり、こだわりがないのだ。たとえば今日から王都から離れて、どこかの街で暮すといわれても、ラーチェルは楽しめるだろう。
ラーチェルは仕事柄、野山に分け入り香草や、香木を探すことが多い。
そういうときはもちろん着飾らないし、身分も隠している。
そういうところはきっと、父に似たのだろうなと思う。
父も身分を隠して街をうろつくのが好きな人だ。
「わかった。そのあたりのことはまた話し合おう。オルフェがどう思っていようが、お前は俺の弟であり、王弟だ。それが変わることはない」
ルーディアスとミーシャは立ち上がると、それぞれラーチェルの手を握って「弟をよろしく」「ラーチェル、またお話ししましょうね」と言って、挨拶を交わした。
部屋から出ても、ラーチェルの片方の手は、オルフェレウスにしっかりと握られていた。
革手袋の感触にも少し慣れたようだ。
それでも、大きな手にすっぽり包まれるように手を握られていると、戸惑いと気恥ずかしさを感じる。
自分から握っておきながら照れるというのも、変かもしれないが。
「このあと、時間はあるか?」
「ええ。ありますよ」
「少し、付き合って欲しい」
「はい。もちろんです」
オルフェレウスに連れられて、ラーチェルは庭園へと向かった。
城の庭園は、ラーチェルにとっても馴染み深い場所である。
そこには、調香府が管理している温室がある。温室には、様々な薬草や香草、香木の類が育てられている。
ラーチェルが集めたものもあれば、同僚たちが集めたものもある。
調香には多量の草花を使用するので、植えて増やすことも重要なのである。
この季節、庭園には薔薇や紫陽花が多く見られる。
王国の夏は涼しいが、それでも冬よりは気温が高い。薔薇や紫陽花も全て同じではなく、品種によって形に違いがあり、香りも少しずつ違う。
庭園には様々な香りがあふれている。
ラーチェルは、その香りに包まれることが好きだった。
不機嫌そうな表情の逞しく美しい男は、不思議と花がよく似合った。
幼い頃、公爵家で過ごしていたのだとしたら、ラーチェルはオルフェレウスに会っているのだろうか。
ルイやナターシャと過ごした記憶はあるというのに、オルフェレウスの記憶はない。
それが、申し訳ないような、寂しいような気がした。
「ラーチェル。こちらに」
庭園の奥にある白いガゼボの長椅子に、促されて座った。
ガゼボの周囲は薔薇に包まれていて、それ以外にもガーベラやユリが咲いている。
特にユリは香りが強い。
独特な強い香りは、他の花の香りをかき消してしまうほどだ。
「先に話しておくべきだった。領地や、爵位についてだ」
「私は、大丈夫ですよ」
「いや。君に言わなかったのは私の甘えだ」
甘え――というのは。
オルフェレウスはラーチェルを信用しているという意味だ。
あまり関わったことがないのに、やはり、不思議だった。
「王国では、婚姻の誓いは絶対。女神に誓い、夫婦は最後まで添い遂げるものだろう。それは、どの立場でも同じであり、立場が上の者ほど規律を守る必要があると私は考えている」
「ええ。私もそう思います」
「だが、私の父──先王は、私の母と浮気をし、私が生まれた」
「それは……」
「母の記憶はあまりないが、いつも肩身が狭い思いをしていたようだ。口数は少なく、暗い顔ばかりをしていた。私が生まれなければ、城から逃げることもできただろうがな」
本来は生まれてきてはいけなかったのだと、オルフェレウスは言っていた。
そこに含まれる意味に、胸が詰まる。
ラーチェルは、生まれてから今まで、そんなことを考えたりは一度もしなかった。
──恵まれているのだろう。
「だが、兄は私を弟だと言ってくれた。ずいぶん助けられた。兄には感謝をしている。だからこそ、余計な火種になりたくない」
感情のあまり籠らない声だが、そこに嘘はない。
彼は嘘をつかないのだと、その赤裸々な言葉を聞いていれば、よくわかる。
「兄を守るため、国の剣となり一生を終えることができれば、それでいい。地位も名誉もいらないのだと私は思うが、君は違うかもしれない」
「私は、あなたの意志を尊重します、オルフェ様」
それは、どれほどの覚悟なのだろう。
どれほどの重荷なのだろう。
オルフェレウスにはもっと相応しい人がいるのではないか──と、思わずにはいられない。
けれど、彼はラーチェルを選んだ。
だとしたら、ラーチェルは誠実でいたい。
誠実さの欠片もないはじまりになってしまったから、余計に。
「オルフェ様は、私のことを知っていたとおっしゃいました。私は普段は、白衣で過ごしていますし、ドレスも着ません。一人で採取に出かけることも多くあります。あまり、貴族令嬢らしくはないのです。華やかな世界は嫌いではないですが、どうしてもそこにいたいわけでもありません」
オルフェレウスが伝えてくれたのだから、ラーチェルも自分の話をしないといけないと感じた。
少しでも、知ってもらいたい。
そして、知りたいと思う。
「ですから、オルフェ様の求める自由は、私もとても、素敵なものだと思います」
「自由、か」
「はい。出自に縛られない自由です。その上で、ルーディアス様を支えることを選択するオルフェ様を、私は尊敬します」
オルフェレウスは、一瞬言葉に詰まったように、黙り込んだ。
それから、ラーチェルの手をそっと握ると「ありがとう、ラーチェル」と小さく言った。