序章:ラーチェル・クリスタニア、勢いで結婚宣言する
華やかな舞踏の音楽が、楽隊により奏でられている。
何本もの太い蝋燭が燭台に立てられている車輪型のシャンデリアがいくつも天井から吊り下げられて、大広間を照らしていた。
着飾った女性たちから香る香水の匂いや、酒の香りや、軽食の匂い。
大広間の中央で音楽に合わせて踊る男女の熱気が、大広間の温度をあげて、体のほてりを感じる。
本音とも建て前ともつかない笑みを浮かべている貴族たちの様子を眺めながら、ラーチェルは小さく息を吐いた。
やや赤みがかった、ゆるく癖のあるブルネットの髪が、俯くと額から顔にはらりと落ちる。
長い睫が頬に影をつくり、いつもは好奇心に輝いている鳶色の瞳を隠した。
ラーチェル・クリスタニアは、舞踏会が好きだった。
化粧をして、髪を整えて美しいドレスを着せてもらうことも、アクセサリーを身につけることも人並みに好きだった。
けれど――今日は少し、憂鬱だ。
壁際に目立たないように立って、舞踏会の終わりを待っていた。
「ごきげんよう、ラーチェル様。今日はお一人なんですか?」
誰にもみつかりたくなかったのに――不吉は、親切なふりをして、待ってもいないのに閉じた扉をこじ開けてくる。
「ナターシャ……」
同い年の友人の名前を、ラーチェルは呼んだ。
ナターシャは、美しい金の髪に青い瞳の、妖精令嬢とまで呼ばれる美貌の伯爵令嬢である。
ラーチェルとは昔なじみだ。所謂、幼馴染みの間柄である。
クリスタニア公爵家とサルディージャ伯爵家では身分が違うのだが、両親の仲がよく、王都のタウンハウスでは幼い頃からお互いの家を行き来していた。
ナターシャの隣にはもう一人の幼馴染み、ルイがいる。
ルイ・オランドルはオランドル侯爵家の長男である。
ナターシャとラーチェルと、ルイは、幼い頃は男女の差異など感じることなく、三人で一緒に遊んでいた。
「ラーチェル、聞いたよ。大丈夫?」
黒髪に柔和な青い瞳をしたルイは、同情とも心配ともつかない瞳をラーチェルに向ける。
ルイは、声を荒げたことなど一度もないような、優しい人だ。
他者への思いやりや気遣いを忘れず、使用人にも動物にも植物にさえ優しかった。
だからラーチェルはルイのことが好きになった。
今から、五年前。ラーチェルが十五歳のことである。
まだ子供だったラーチェルは、ルイのお嫁さんになることができるのだと、信じていた。
けれど、ラーチェルの知らないところでルイはナターシャと想い合っていて、ラーチェルを置き去りにしてナターシャと婚約をし、ちょうど一年前に結婚をしてしまった。
ラーチェルの密やかな想いは、伝えることもできず、昇華もできないままに、心の奥に燻り続けていた。
「ルドラン様は誠実な方だと思っていたのに。ひどいわ。ラーチェル様はもう二十歳なのに、傷がついてしまうなんて」
「……そうね」
絞り出すような声音でなんとかそれだけを言った。
ナターシャはちらりと、件の男性――ルドラン・アルバス侯爵に視線を向ける。
燃えるような赤毛で体格のいいルドランは遠目からでもとても目立つ。
彼の腕には小柄で可愛らしい令嬢がぴったりとくっついていた。
「一年も、騙されていたということだろう? 僕がルドランに文句を言ってこようか」
「大丈夫よ、ルイ。私は大丈夫」
ラーチェルの不運を嘆き、珍しく怒りを露わにしているルイを、ラーチェルは宥めた。
もう、関わりたくないのだ。
それに、ラーチェルにとってはもう、ルドランは無関係な他人でしかない。
たとえ、一年間婚約していたとしても。
ルイとナターシャが正式に結婚をする一年前。ラーチェルが十九の時まで、ラーチェルはずっとルイへの想いを引きずっていた。
だから誰とも婚約もせず、かといって年頃になっても公爵家にずっといるわけにもいかずに、城に仕官をして働いていた。
公爵家に呼び戻されたのが一年前で、事情を知っている母から「あなたの気持ちは分かるけれど、そろそろ結婚をしなさい」と言われて、ルドランとの婚約を勧められたのである。
そして一年。準備を整えて、正式に結婚をする予定だった数週間前。
ルドランの浮気が発覚したのだ。
浮気相手はラーチェルよりも三歳も年下の、侯爵家に行儀見習いに来ていた子爵家の愛らしい女性だった。
ラーチェルがルドランの家を訪れたとき、二人でベッドの中にいたのである。
修羅場――には、ならなかった。
ルドランには頭をさげられ「すまない、ラーチェル。俺は真実の愛をみつけたのだ」と、結婚を断られてしまった。
全裸で頭をさげる男を前にして、ラーチェルは呆れるやら恥ずかしいやらで、何も言えなかった。
子爵家の女もまるで己が被害者のように泣き始めてしまったので、なおさらである。
「わかりました」と言うのが精一杯で、ルドランに詰め寄ったり、詰ることもなく、ラーチェルの結婚は破談となった。
ラーチェルはルイが好きだった。けれど、ルドランのことも好きになれるかもしれないと思い始めた矢先のことだ。
一呼吸置いて冷静になると、捨てられた事実が体に染み渡るように、目の前が真っ暗になり、何も考えることができなくなってしまった。
公爵家の両親は、そんなラーチェルを哀れんだのか、もう結婚しろとは言わなくなった。
けれどせめて、舞踏会や晩餐会には参加をするようにと言われた。
それはクリスタニア公爵家にうまれたラーチェルの務めであり、そこで新たな出会いがあるかもしれないと、両親は期待をしているようだった。
娘の幸せを願ってはいるが、婚約をさせたルドランとの関係がろくでもない終わり方をしてしまったために、もう結婚を強くすすめることはできないのだろう。
そんな両親にもなんだか申し訳なくて、ラーチェルは素直にそれに従った。
だから婚約が破談になったばかりだというのに、その破談になった相手が堂々と参加をしている舞踏会の会場の片隅で、いたたまれない気持ちで時間が流れるのを待っているというわけである。
「でも、ラーチェル様。ラーチェル様はもう二十歳でしょう? はやく相手をみつけないと、誰とも結婚できなくなってしまいます。私、ラーチェル様にも幸せになって欲しいのです」
ナターシャの心づかいが、今は嫌味に聞こえた。
ナターシャはラーチェルの気持ちを知っていた。ルイが好きだと気づいた時、ラーチェルは真っ先にナターシャに相談したのだ。
ナターシャは親身になって相談に乗ってくれて、「応援しています。ルイ様とラーチェル様はお似合いですから」とまで言ってくれた。
蓋をあけてみたら――これである。
あれはいったいどういうつもりだったのかと、ナターシャには聞くことができていない。
友人だけれど、だからラーチェルはナターシャのことが少し苦手だ。
「大丈夫だよ、ラーチェルは美しいから。きっと素敵な相手がみつかるよ」
「そうですよ、ラーチェル様。このままではいきおくれてしまいますもの。私も、よい相手を探しますね、ラーチェル様を幸せにしてくれそうな……落ち着きのある、浮気をしない年上の男性がいいかと思います」
ナターシャは軽く手を胸の前で合わせる。
「そうだわ! ヴィンス伯爵が、奥様をなくされて後妻を探しているのだとか」
これは――嫌味だ。
本人は親切だと思って言っているのかもしれないが、ラーチェルにとっては寒気のするような嫌味だった。
ヴィンス伯爵は、年上もいいところである。もう、ご老体だ。
それは確かに浮気はしないだろう。浮気をできるような体力がない。
「ラーチェル様が独身だなんて、私、なんだか申し訳なくて。ですから私も、ラーチェル様の相手探しに協力したいのです」
「そうだね。僕も同じ気持ちだ。僕たちは幼馴染みだからね」
「ええ、ルイ様。そうですね」
「僕とナターシャと、君。関係は変わってしまったけれど、ずっと友人だ」
――あぁ、もう!
(放っておいてほしい。私に構わないで欲しい。私を哀れまないで欲しい)
ただでさえ、傷ついているのに。
傷ついた心に無遠慮に踏み込むことが、友人といえるのだろうか。
ラーチェルは、何かよけいなことを言わないように我慢をした。
我慢をしていたがとうとう耐えられなくなり、給仕から葡萄酒のたっぷりはいったグラスを受け取って、勢いよく飲み干した。
酒に、弱い。
それは十分わかっているが、飲まずにはいられなかったのだ。
ぐいっと飲み干して、グラスを給仕にかえす。
空っぽの胃の中に度数の強い酒が落ちて、かっと、燃えるように体が火照った。
ふらりと体が傾いて、誰かに、とん、と、ぶつかった。
ラーチェルはそのぶつかった男性の腕にしがみつく。
誰だろう。逞しい腕の持ち主だ。いい匂いがする。好きな匂いだ。
「私のことは心配しないで。私、この方と結婚しますから!」
「……えっ」
「えぇっ」
その場にいた者達の瞳が驚きに見開かれて、どういうわけか、熱を帯びた空気が一気に凍り付いた。
ラーチェルはぼんやりと、しがみついた相手の顔を見上げる。
ラーチェルよりもずいぶん高い位置にある。
光を帯びた月のような金の髪に、涼しげな青い瞳の――とても怖そうな男だった。
「構いませんが」
ラーチェルに突如結婚を申し込まれた悪魔の騎士団長と呼ばれている強面の男、オルフェレウスは、少しの沈黙のあとに、あっさり頷いたのだった。
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