あの春風と一緒に
よろしくお願いします。
麗らかな日差しが照る、春の日。
「君はいつも小説を書いてるニャー」
彼女はいつも、涼しげに、桜の花びらと共に現れる。
「……君はいつも僕のプライバシーを侵害する……勝手に入るなって言ってるだろ」
「君は自己中だね、別にここが君の物ってわけでもないのに」
「僕の邪魔をするなということだよ。君は無遠慮だな」
「なんで? 友達なんだからいいじゃん」
彼女はそう言って、僕の小屋に遠慮なく踏み込んでくる。
「違うよ、友達じゃない、君が勝手に来るだけだ。僕だけの秘密基地に」
僕はパソコンから手を離して、腰を浮かして彼女に身体を向ける。彼女と話す時は彼女を向く、この数週間で習慣化してしまった。
「僕だけの秘密基地? 君は意外と恥ずかしいことを言うんだね。プクク、秘密基地なんて小学生みたい!」
「君は本当に無遠慮だな! 僕が見つけた小屋だ、なんて呼ぼうが僕の自由だろ!」
「こんな山奥にあるボロ小屋を秘密基地にするなんて、健全な男子高校生がやることじゃないよ!」
彼女は俺を茶化すように、わざとらしく肩を揺らして笑う。
「……ここは居心地がいいんだよ、そよ風も心地いいし日差しも丁度いい、さらに街の喧騒からも離れられる。小説を書くには最高のシチュエーションなんだよ」
「高校生が小説書いてるのがおかしいのに、それをこんなところで独りで書いてるんだからおかしいに決まってるよ! わざわざパソコンまで持ち込んで!」
「人の趣味をバカにするのは感心しないな〜……楽しいからいいんだよ」
彼女は僕のことを否定する。
「ここ暑い〜! Wi-Fiもないなんて、よくこんなところにいれるね!」
「ネットはなくてもパソコンがあれば小説は書けるからね、分からない単語は辞書引けばいいし」
「辞書て」
Wi-Fiが飛んでないと悪態をついていた彼女は、なにをするのかと思えばいつも通り、僕の隣で寝っ転がり、スマートフォンを弄り始める。
「…………」
僕はそんな彼女を置いておいて、再びパソコンの活字に向かい合う。
「そういえば、照輿には告白したの?」
横目で訊くと、彼女は頬を膨らませて視線を逸らした。
「…………君はデリカシーないね……。……告白してない」
「まぁ早くした方がいいよ。アイツかっこいいし、すぐ新しい彼女できるだろうから、先越されるよ」
「……分かってるよ、それくらい……。まだ積み上げてる途中なの!!」
「……なんでもいいけど、はやくしたほうがいいよ」
「彼女の一人もいない君に、偉そうに言われるとムカつく……」
「…………」
痛いところを刺された僕は黙る。すると彼女は首を伸ばして、僕の顔を覗く。
「ねぇ、初めて会った日のこと覚えてる?」
ほんの数週間前のことなのに、彼女は遠い過去を羨望するように遠い目をして、窓から青空を眺めていた。
「……覚えてないよ」
「…………、そっかぁー」
彼女は想井優希。彼女は春風。無遠慮な彼女は、鮮やかだ。
***
「ねぇ、この棚にあるものはなんなの?」
セミたちが小うるさい演奏を奏でる初夏。いつも通り居座る彼女が不意に聞いてきた。
「君はここにいろんな物を持ってきたの?」
「違うよ、僕が持ってきたのは机周りだけだよ。そこに保管してあるのは先人の物だよ」
僕は半身だけ振り返って、答えた。その棚にある物はノートやペンから何かの雑誌、さらには安物のロボットの玩具やカードゲームなど。
「先人の?」
「きっと僕より前にここに来ていた人が置いて行った物だよ、僕みたいな人はいるんだよ過去にも。僕が初めてここに来た日に、埃をかぶってたから綺麗にしてそこに置いてあるんだ」
「ここ埃っぽいもんね。ケホケホ。……わざわざ綺麗にするなんて、潔癖症なの?」
彼女はよくここで咳をする。女の子がこんな不衛生なところによく来るものだ。咳が出るなら帰ればいいのに。
「違うよ、別に汚れたままでも……なんなら捨ててもよかったよ、邪魔だったからね。でも誰かの大切な物だったのなら、綺麗にしたほうがいい」
「へー、君は優しいね。このカーペットとかも綺麗にしてるもんね。私が寝られるように」
「最後だけ間違っているけど、掃除は徹底しているよ。その方が気持ちがいいからね」
「君はやっぱり自己中だ」
そう言って、クッションを抱く彼女は皮肉げに微笑む。
「……どうして?」
「だって君はその誰かのためじゃなくて、自分のために綺麗にしてるんでしょ? 君、自己中だね〜」
「……君は本当に読解力が高いな、勝手に真意を読んできて怖いよ」
「私の目は誤魔化せないぞ〜!」
彼女は僕の脇腹をくすぐってくる。彼女の笑顔はまるで桜だ。桜のように朗らかで、暖かい。
「どれどれ〜」
彼女は思い立ち、クッションを隣に置くと棚に置いてあった木箱に手を伸ばした。
「――……君は無遠慮に加えて危機感も欠落しているのか?」
「は、どういうこと?」
夏服の制服、寝転がった態勢で腕を伸ばしたせいで服の裾からチラッとお腹が見えてしまった。彼女に似合う綺麗な純白の肌だった。
僕が注意しようか考えあぐねていると、彼女は態勢を戻した。その手に大きな木箱がついてきた。
「何が入ってるかな〜……うわ、このおもちゃ懐かし〜! ねぇねぇこれ子供の頃やってたね!」
「……そうだね、知らないけど」
こうなってしまえば止まらない。いつもみたいにスマートフォンを眺めていればいいのに、こうやって調子に乗ると無遠慮に話しかけてくるから鬱陶しい。
「じゃ、僕は執筆するから静かにしてるんだぞー」
「はいはーい……ん? なにこれ」
彼女が呟いたのと同時に、箱の中から一枚の画用紙が出てきた。
「うぃ、うぃず……こ、こう……?」
「with courage。勇気と共にみたいな意味合いだよ。それも昔の人が書いたんだよ多分」
「ふーん、英語読めるんだ。流石小説家」
「小説家関係ないけどね」
小説を書く上で、一応他の言語は一通りおさらいしておいた。語彙が増えれば色が増える、物語を彩る文字たちが踊り出すから。
「じゃー、せっかくなら!」
彼女は満開の桜のように笑うと、壁に手をついてよろめきながら立ち上がる。
「せっかくなら……? 余計なことはなにもしないでよ?」
「…………、もう心配性なんだから。全然大丈夫だって!」
額に手を当て、それを誤魔化すように苦笑いを浮かべた彼女は壁に向かって歩き出した。棚に置いてあった画鋲入れから、二、三個画鋲を取り出す。
「やっぱり飾らないとね!」
「……まぁそれくらいなら」
画用紙の四角を画鋲で止める。
「ほら! 殺風景なボロ小屋に彩りが生まれました!」
「君は言葉が荒いな……。別に殺風景じゃないよ、こざっぱりしてて気持ちいいよ」
僕の意見を聞き流して、彼女はもといた場所に寝転がった。そして僕をまた、バカにするように目を細めて笑う。
「全く……君は本当に傍若無人だ。君の人生はきっと輝いているだろうね」
「あはは」
彼女の瞳は確かに輝いている。迷わないよう、夜道を照らしてくれる満月みたいに、ほんのり光を灯している。
「……」
彼女は確かめるように僕の横顔を眺めてから、静かに呟いた。
「うん、輝いてる」
肘杖をつく彼女は僕を上目遣いで微笑む。
隙間から吹き込んだ、初夏の涼しく爽やかな微風が、彼女の枝垂れ桜ような美しい髪を、ほのかに靡かせた。
……輝いているのは、僕以外の全てだ。主に彼女。
***
「ねぇ〜! ここ寒い〜!」
木枯らしが小屋の隙間から吹き込んでくる。僕は温かいコーヒーをひと啜りしたあと、寝転がる彼女を上から見る。
「……じゃあ帰ったら? 勝手に来て勝手に喚かないでよ」
僕が持ち込んだ毛布に潜り込んでカタツムリみたいになっている彼女は、僕に八つ当たりしてくる。僕だって結構寒いのに。
「うぅ〜、隙間風寒い〜。……ねぇ、これ美味しそうじゃない?」
「……」
話の方向が180度吹っ飛んだ彼女は、スマートフォンの画面を僕に見せてくる。
「これは?」
「駅前辺りに最近できたケーキ屋さん。このマカロンの中に生チョコ入ってるんだって。美味しそうじゃない?」
「僕はあんまりそういうの興味ないな、ケーキなんてコンビニで充分だよ」
「むー……。これ今年のハロウィンに、って書いてあるよ。そういえばもうすぐだね」
「そうだね。ハロウィンといえば仮装だけど、元々はヨーロッパの古代ケルト人が行っていた魔除けの、宗教的な催しなんだよ」
「わ、わー……。聞いてないのにすごいどうでもいい豆知識。そんなのどうでもいいから食べてみたいなー!」
「うん、行っておいで」
「むー!」
僕が言うと、彼女は頬を膨らませて眉を顰めた。僕は興味はないから行かない。
「勝手に君の友達と行けばいいよ」
彼女は春のように朗らかで暖かい。その柔らかさは人を惹きつけるだろう。だから、僕もその中の一人で、ただの僕でしかなくて、それ以外のなんでもない。
「…………そうだね」
僕の提案に彼女は薄く張り付いた笑みを浮かべて、毛布を口に当てた。
その時、彼女は初めて、秋空のような空虚さと共に、儚げで寂しそうな色を零した。
「はぁ〜、こんなところで引きこもってるから学校に友達の一人もいないんだよ」
次の瞬間、彼女はことさらにため息を漏らし、そんなことを口にした。きっと、僕の気のせいだったのだろう。彼女が迷うことなんてない、だって彼女は、あの想井優希なのだから。
「そ、それは今関係ないよ……。それに友達がいないわけじゃないよ、……佐藤くんとか潟上くん?とかいるよ」
「イマジナリーフレンドでしょ?だったらLINE見せてよ」
「……、ら、LINEは交換してないんだー」
「それは友達って呼べるの?」
「…………いいんだよ友達なんていなくても! 僕にはこの活字の躍動さえあれば!」
僕はふいっと彼女から視線を逸らし、パソコンに向き合う。
「これは重症だね……。そんなに小説好きならネットに投稿すればいいの」
その質問に、僕は用意してあったコーヒーを三度啜ってから答える。肌寒い秋風が、首筋を辿り、肩を窄める。
「あげないよ、これは僕の物だ。僕が楽しむために書いているものなんだ。それを、赤の他人に見られるのは癪に触る」
「なんで? あんなに面白かったのに。あげないなんてもったいないよ」
「なッ!? 君は見たのかこれを!?」
「あ、うん、君が散歩とか言って出て行った時にこっそり見ちゃった。でもすごい面白かったよ」
「少しは配慮してよ……。そんなことない、こんなのただの自己満だよ」
「えーもったいないな〜……。私も君の小説読みたいのにな」
彼女はボソッと呟いた。
「なんで君は、小説を書いているの?」
その問いに、僕は口を噤んでしまった。静寂の中をカラッと乾いた秋風が通り過ぎていった。
「……僕がいつか、迷って、逃げて、いなくなっても、これがあれば僕はずっと僕だから。……残しておきたいんだ、僕がこの世界をどう感じて、どう綺麗に映っているのかを」
世界は美しい。見渡せばさまざまな色に溢れている。空に手をかざせば届きそうな晴天や、露梅雨に濡れる紫陽花や、静かに見守ってくれる星々。
世界は、色鮮やかに、輝いている。それを忘れないように。
「……私も見たいな」
「え?」
「君の見えている世界を、私も知りたい……。君が見えている色を私も知りたい……!」
これは春陽だ。とても優しくて、暖かくて、愛おしい。
「色なんて、君に比べれば微々たる物だよ。僕よりも君の方がずっと――」
「そんなことない!」
僕の目の前まで身を乗り出して、彼女は僕のことを睨みつけた。寒いからなのか、興奮したからなのか、赤く染まった頬は、微かに震えていた。
「だ、だって私は君のおかけでッ――ゲホゲホ!!」
なにかを言いかけた彼女は大きく咳き込んだ。僕は肩に手を添えて、彼女を制する。
「落ち着いて、ゆっくりでいいよ」
いつからだろう、彼女の咳き込む姿が日常になったのは。そして僕がそれを当然のように受け入れるようになったのは。
「ゲボッゲホ……! ご、ごめん……ありがと……」
苦しそうに喉を抑える彼女は、僕から離れてそっぽを向いた。その顔は、とても哀しそうだった。
暫時、お互い沈黙。
「……僕、散歩してくるよ」
気まずさからなのか、そんなことを口走り、立ち上がっていた。
「散歩……?」
「うん、すぐ戻るよ」
僕はそう言って彼女の横を通り、靴を履く。扉を開ければ、とても寒い外だ。美しくない、外だ。
***
「あ、スマホと財布忘れた」
逃げるように小屋を出たのはいいものの、すぐに忘れ物に気がつく。僕は踵を返し、今降ってきた砂利道を引き返す。
「…………」
木枯らしが首筋を毛糸のように細やかに撫でて、こそばゆい。さぁさぁと鳴く枯れ木たちが、今日はなんだか悲しそうだ。
なんにせよ、外の世界はやはり暗い。僕にとって色が見えるのは、あの小屋の中だけだ。
首を巡らしながら道を戻っていると、いつの間にか小屋に着いていた。
「さて、と――――」
僕は足を止めた。
小屋の隙間から見えた彼女の姿が、目に張り付いて、動けなくなった。
寒そうに膝を抱いて、僕のパソコンを眺めていた。いつも僕が座っている座椅子に座って。
「…………」
彼女は、薬を飲んでいた。苦しそうに恨めしそうに、それを水で流し込む。
「…………うっ……」
彼女は泣いていた。流れ星が一つ流れるように、彼女の頬に一筋の涙が伝う。彼女はそれを指でちょんちょんの拭う。
「…………」
あぁ、やはり彼女は美しい。哀愁漂うその姿は、触れてしまえば溶けてしまう初雪のようで、とても美しい。
この感情を、なんて呼ぶんだ。
そんなの知っている。僕は小説家なんだから。
「好きだな……」
***
雪がはらはらと散っている。例年よりも冷気が強い今冬も、僕は足繁くいつもの小屋へと足を運んでいた。
「何やってんだ僕は……」
小屋の中でも防寒着を着込んだ僕は、いつも通りパソコンの前に座っていた。
だけどいつまで経っても、その文字が打ち込まれることはない。
「……はぁ……」
震えた息を吐き出すと、白い霧がほんやり消えていく。僕は、隠すように置いてある、紙袋を一瞥する。
彼女がいつしか食べたいと言っていたマカロン。先ほど店に並んで購入した。
「……寒い」
肌が凍える。顎がガクガク痙攣して、執筆に全く集中できない。それでも、彼女のことを考えれば心が温まる。
『ありがとー、食べたかったんだ〜!』
『君がこんなことするなんて、雨とか槍でも降るかな?』
『そういやこんなのもあったねー……え? いやいや忘れてないよ! うん忘れてない……てへへ』
「……バカだな僕は」
一人で何をしているんだ。こんなの馬鹿げている。ふざけている。こんなに緊張することなんて無理してする必要もないのに……。
それでも……やっぱり。
「…………」
だけど、いつまで経っても、彼女は姿を現さなかった。
どれだけ時間が経とうとも、はらりはらりと雪が積もろうとも、空が藍色へと表情を変えようとも。
彼女は、小屋に来ることはなかった。
***
世界は小説の文字のようにモノクロで、モノトーンで、白黒。冷たくて悲しくて寂しい。
学校での僕は、肩身が狭い。
思い立った日、僕は隣のクラスを覗いていた。
「……」
僕は一つの、空いた机を眺めている。
空々しく物悲しい。そこにあるべくしてあるような、なくべくしてないような、吹けば飛ぶ無機質感。彼女の机が静かに、そこにあるだけだった。
厚い雲が渡る空模様、今日は雪が積もる。
「――あぁ、想井さん? ……この前倒れたよ。体育の授業中、急にね。救急車も来てたよ、サイレンも鳴ってたけど気づかなかった? それ以来、学校来てないよ」
「倒れた……」
あれは、僕がマカロンを買った日だった。
僕をうたた寝から叩き落とした、クラスメイトたちの響めき。先生も授業を中断するほどの事態。
「…………」
その時僕はただ、ひたすらに鬱陶しくて仕方なかった。 僕には関係ない。見ても意味がない。この白黒の世界に、価値なんてないのだから。
だから、僕は窓に集まるクラスメイトたちから逃れるように、顔を埋めて三度瞳を閉じた。
「――……●●ちゃーん、理科室移動しよー?」
「あ、ちょっと待ってー! 聞きたいことはそれだけ?」
「――……うん。ありがとう」
春は毎年、僕の前に現れる。その秀麗さを、これでもかというほど主張して、僕を魅了する。
満開の桜は見ていて心地がいいし、春のそよ風は優しくて暖かくて気持ちがいい。細やかに輝く小川や若葉たちの囁き声、小鳥たちの楽しげなステップ。
僕は春が好きだ。でも、好きなものほど、すぐに消え去る。
僕が好きと思ったものは、僕の前から離れていく。
「……馬鹿野郎」
やはりこの世界は、薄く、冷たく、黒い。
***
翌る日も、翌る日も、僕は砂利道を登り、いつもの小屋へと足を運ぶ。雪が積もろうとも、吹雪が吹き荒れようと、同じように、同じ道を歩く。
冷め切ったカイロを握りしめ、壁の隙間から外を眺めた。今日は冬晴れ、澄み切った青空がゆっくり寝息を立てている。
「……今日で一ヶ月」
彼女が僕の前からいなくなって、一ヶ月が過ぎ去った。彼女はもう二度と、僕の前には現れないだろう。彼女はまるで春風、過ぎ去れば、消えるだけ。
「や、久しぶりだね」
「……僕の杞憂を返せよ」
僕のことなんてお構いなしに、彼女は現れた。
「いやー、なかなか外出許可下りなくてさー、たはは」
彼女は気まずさを誤魔化すよう、頭を撫でて笑った。それなのに額には汗が滲んでいて、息も荒そうに見えた。
「てか、杞憂って何?」
「……無駄な心配ってこと」
「い、意味は分かるよ……! なにを杞憂してたのかってこと!」
彼女は怒りげに靴を脱ぐと、いつもみたいに座った。でも僕との距離がなんだか、なんだか、大きい気がした。
「なにをって……それは」
「それは?」
「…………」
僕はなにも言えなかった。僕の口から出た白い吐息は、静かな部屋に紛れていった。
「そんなことより、君は大丈夫なの? 一ヶ月も……学校来ないから」
僕は活字が並ぶパソコンの画面を見つめながら、背中越しに訊いた。
誰もいないような静寂。独り言のような物悲しさ。彼女が口籠ることなんて、初めてだった。
長い沈黙ののち、彼女は改まったように言葉を出した。
「今日はお別れを言いに来たの。多分、二度と会うことはできないから」
背中越しに聞こえた声は、えてして正常に振る舞っていた。
「……」
こんな大事な時に、僕の口は開かない。
「私、ちょっと体が良くなくてさ……昔からよく倒れたんだよねー。だから、まぁ今回も、そうなんだけど……、ちょっと、入院が長引きそうだからー」
「……」
彼女はよく、咳をする。
「だから、君と会うのも今日が最後になりそう。だいぶ無理して外出てきたからさー」
「……」
彼女は冬風のように、残酷に笑う。
「ごめんね、意味わからないよね……。勝手にちょっかいかけて、勝手にいなくなるなんて。……いつも邪魔してごめんね。いつも勝手に来てごめんね。……君と出会って、ごめんね」
そんなこと、聞きたくない。彼女の口からごめんね、なんて、聞きたくない。
「私なんかと出会って、ごめんね――」
「違うよ」
気がつけば、僕は彼女の言葉を遮っていた。荒れていた僕の心とは逆に、口にするとなぜかとても優しかった。
「僕は、君と出会えて本当に良かったと思っているよ。この世界で、君と巡り会えたことは、運命だと思っているよ」
「…………小説家だね」
ボソッと、彼女が苦笑する声が聞こえた。
「君は勘違いしているみたいだけど、僕が小説家なのはこの部屋でだけだよ。この部屋を一歩出れば、色はブラウン管テレビみたいに乱れていって、結局消えてしまう」
「…………でも、君はいつも世界は綺麗だって――」
「それは、僕の隣に君がいたからだよ」
「――……え?」
僕は腰を浮かして向き直る。彼女は存外そうに目を丸くして僕のことを見つめていた。彼女と話す時は、彼女を見る。
「僕の世界は君と出会って生まれ変わったんだ。全て、鮮やかに色づき始めたんだ。凍った世界を君が溶かしてくれたんだ、春風のように。つまらなくて味気なくて取り止めのない僕の人生は、君によって劇的に変化したんだ」
桜の花びら、空の青、若葉の緑、梅雨の紫、紅葉の赤、枯葉の茶、冬の灰、雪の白。 君は全ての光だ。
「想井さん。僕は君が好きだ」
僕は言う。
「君が好きだ」
何度でも、その言葉を口にする。
「僕は君が大好きだよ」
彼女の瞳に、涙が溜まる。嗚咽を漏らさないように、ギュッと口に手を当てて、目を瞑る。
「……君はッ、おかしいよ……。これから二度と合わないって言ってるのに、なんでそんな後を引くようなこと――」
「君が言ったんじゃないか。僕は自己中なんだよ」
僕は笑う。彼女は腕を抱くようにうずくまり、涙を流す。
「だから、君は何?」
僕は問う。とても、とても、優しい声音で。
彼女はハッと肩を揺らすと、濡らした頬をそのままに顔を上げ、僕を見た。彼女は、僕の言葉を理解するのが早い。
「私は、私はさ……」
捻り出すように、彼女は綴る。
「な、長くないの……お医者さんにも言われて、自分でも分かるの……。だから全部が明るくて、眩しくて、鮮やか過ぎて、なにも見えなかった」
僕は思い出す、彼女のことを。
「あのお店はなんだろう……。あの花はなんて言うんだろう……。あの人はどんな人なんだろう……。恋って、なんなんだろう……」
彼女の目はいつでも何時でも、輝いていた。僕には明るすぎるほど、鮮やかに。
「かっこいい人がいたから、告白すれば好きになるかと思った……。好きってなにかを知りたかったから」
彼女は照輿という人間が好きだと、いつしか口にしていた。その感情に嘘はなかったはず、というとは、僕の勘違いだったらしい。
「でもさ……、これから入院します、すぐいなくなります、そんな人……重いだけだよね。ほら私の名前と同じで」
重い、想い、想井……。
「長くないって分かってから、この世界はものすごく早くなって一日一日がもったいなく感じるようになったの。明日倒れるかもしれない、今夜寝たら、もう起きられないかもしれない。そう思えば思うほど、世界は眩しくなって、何も見えなくなった」
涙が頬から落ちて、彼女の服を濡らした。
「――……そんな時」
彼女は笑った。僕を見つめて、春風のように、朗らかに。
「君と出会いました」
隙間から吹き込んだ冬風は、凍てつく空気を運んできた。それでも、彼女は春のように暖かく、その風を抱いた。
「初めて会った日のこと覚えてる?」
かの日の問いを、彼女は繰り返す。
「覚えてるよ、忘れたことなんて一度たりともない」
忘れるわけない。僕がまだ二年生になってすぐの頃、彼女は持ち前の天性の明るさと暖かさと共に、この小屋の扉を開けたんだ。
僕は出会って一目で見惚れた。彼女は、春風だ。
「……私が逃げるようにこの山を歩いていた時、この小屋を見つけたの。……壁の隙間から見つけた君は、私にとって静かで、素敵だった」
「……うん」
「眩しすぎる世界で、君は私の救いだった。この小屋で君と過ごした時間は、もったいないを忘れるほど楽しかった」
このチンケな小屋を見渡して、彼女は流星のような涙を流して、微笑んだ。
「この小屋が、世界の全てのようだった……!」
その瞬間、彼女は僕の胸に抱きついてきた。顔を埋めて、僕を強く抱きしめる。
「君は間違いなく、私の人生を変えてくれたんだよ……お願い、私と一生一緒にいて……! 私、一人になりたくないよ…………!!」
彼女は言葉を間違えない、自称小説家の僕なんかと比べ物にならないほどに、語弊を生まない。そんな彼女が、一人になりたくないと言った。
彼女はずっと明るい。飛び交う虫たちは本能で光に向かっていく。人も同じだ、彼女が放つ、包み込むような暖かさに抗えず、ただ彼女に向かう。
そんな彼女が、一人になりたくないと、言った。
生涯を通して明るい彼女が、一人になることなんてあり得ない。そんな、彼女が、一人になりたくないと、言ったんだ。
一人……=……死。死にたくない。
「――うわあああああぁぁぁぁぁ!!!!」
長くないとか、入院とかお医者とか、連想する単語はずっと彼女は言っていた。それなのに、僕は考えないようにしていた。気のせいだ、きっと治る、いつか元気になって、また君は無遠慮にあの扉から入ってくる。そう、目を閉じていた。
「――私を……置いていかないで……――」
絞り出す彼女は、僕の服を、僕から離れないよう、強く握りしめる。
「……」
僕はなんて声をかけたらいいんだ。これから消えゆく彼女に、これから去りゆく大好きな人に、一体なにを言えばいいんだ。
……いや、気休めなのは分かっている。言い訳なのも知っている。こんな言葉に意味はないことも自覚している。
だとしても、僕は小説家だから、言葉にするんだ。
僕は彼女の肩を掴み、切れ細やかなガラス細工を扱うように、優しく、彼女を離した。
彼女の綺麗な目を見て、僕はまっすぐ言う。
「置いていくのは君の方だろ? 君の前から僕がいなくなる時、僕の前から君はいなくなるんだ。……僕の前からいなくなるな、君がいなくなったら僕は前を向けなくなる」
「――……最後まで……、君はひどいね……」
「僕たちはまるで小説の中にいるみたいだ。仕組まれたような性格やシチュエーション。僕たちは、出会う運命だったんだ。そういうふうにできているんだ。――だから」
最後まで、そういうふうでいよう。
「…………うん」
彼女はとても静かに頷いた。僕の服を手放すと、桜の花びらと一緒に立ち上がる。
「しょうがないな〜……。――私は君を一人にする、私は自由だからね……! 勝手に来て、勝手ないなくなってやるんだから! 君の事情なんて関係ない、私は無遠慮なんだから……!!」
彼女は満開の桜のように腕を広げて、春の陽光のような晴々《はればれ》しい笑顔で僕の前で咲き誇った。
「……君は本当に――」
鮮明だ。
「ふん」
彼女は頬を膨らませて鼻を鳴らすと、口を尖らしたまま歩き出す。彼女が入ってきた、扉へと。
さぁ、やっと、静かになれる。
僕はいつもみたいに息を吐いた後、彼女の背中から視線を逸らしてパソコンの文字に向き合う。
「…………」
僕が文字を打ち込もうとした時、彼女が立ち去る音が止まった。隙間風の音や枯れ木が擦れる音とか、世界が進むことを拒んでいるみたいに、音がおしゃべりをやめる。
そんな中で、彼女は扉を開いた。澄み切った冷気が小屋に流れ込んできて、僕を冷やす。薄い陽光が、僕たちを照らした。
彼女が開いた扉の向こう側は、真っ白な光景が見えた。
「じゃあね」
『またね』
『またね』
『またね』
彼女はいつだって、そう言っていた。
「…………」
彼女は進む、何も見えない白の世界を。
そうして彼女は扉を閉めた。最後まで僕を愛おしそうに見つめながら、彼女は勝手に去っていく。
「…………はぁ」
自分でも驚くほど冷たい息だった。
さぁ、日常だ、平穏だ。僕が求めていた安楽だ。戻るだけだ、一年前、彼女と出会う前に。色のない世界を見ないようにして、一人孤独にこの小屋で生きていくんだ。
僕はここにいたって、なにか特別なものを残せれば、それだけで僕は満足だ。
早速執筆活動に入ろうと、キーボードに手を置く。
……嗚呼、くそ。やっぱり無理だよな。
パソコンの画面が滲んで、文字が読めない。フレームを掴み、滲みを取ろうとしても、それはどんどん溢れていくばかりだ。
僕は恐る恐る瞳に触れた。冷たいものが、僕の目から溢れていた。
どれだけ拭っても拭っても、涙は止まらない。決別は済んだのに、涙はそれを拒んでいる。
「うぐっ……っ……」
僕は溢れ出る嗚咽を飲み殺して、行き場のなくして不条理へと苛立ちを噛み殺して、どうすることもできない恋心を抱いて、首を垂れる。
彼女がいない小屋は、ひどく静かで冷ややかで、閉鎖的だ。
『私も見たい……――!』
「…………」
僕は涙をそのままにマウスを手に取ると、検索を開く。
彼女は春風。僕に新しいものを運んできてくれる、春の陽気に包まれた、風。いろんなものを巻き込んで、天高く舞い上がる風。だが、風は通り過ぎてしまえば、あとは消えるだけ、自分に影響されたものを残して、ひっそりと、跡形もなく。
なら僕は、それに抗おう。微細でも、微力でも、抗ってみよう。
「ちゃんと見ててよ……」
彼女に届くのかは、分からない。それでも、彼女がほんの少しでも目を開いていられるように、安心できるように、僕はここにいるよと、伝えよう。
僕の物語を、僕だけの物語を、君のために差し出すのだから。
僕は空白をクリックする。点滅する棒線が現れる。これから始まる物語を、今か今かと急かす棒線は、彼女のようだった。
僕は文字を書き込む。僕の物語を。君との物語を。
過ぎ去ってしまった春風を追いかけて。
タイトルは『あの春風』と。
***
桜が舞い上がる、四月。
「なー〇〇、今日どっか行かねー?」
「わり、今日部活あるわ」
「えー、サッカー部火曜日、休部じゃなかったっけ?」
「新入部員の体験?的なやつがあんだよ、マジでダリーわ。先輩として行かんとまずいでしょ」
校門まで向かう道のりで、さまざまな声が聞こえてくる。どの声も、色鮮やかに輝いていて、綺麗だ。
「●●、去年駅前にできたケーキ屋さん新しいの出したらしいよ! 食べに行こ?」
「いいよ、私買いたいものあったんだよねー」
確か、例のマカロンを買った店か……。いつか寄ってみよう。
僕は校門を出ると、どんどん人気の少ない小道を進んでいく。苔むした塀に寝る野良猫や、錆びたトタンの建物。
そして、桜の木の下を通り抜け、僕は砂利道に入る。もうすでに、人の気配は完全にない。世界に僕だけのような静寂が、ここにはある。
桜の架け橋を渡っていき、やがていつもの小屋が見えてくる。朽ちた木材の壁や、苔が蒸したトタン屋根。
今日は日本晴れ、麗らかな陽光が照らす春の日。とても優しいそよ風が頬を撫ででいく。
鮮緑色の若葉の擦れる音が、心を温かくしてくれる。
「……」
僕は肺いっぱいに空気を吸い込んでから、小屋に入る。
隙間から差し込む陽光が幻想的で、僕の机を照らしていた。僕は机の前に腰を下ろして、ノートパソコンを置く。
マウスと接続し、手早く立ち上げる。
昨日まで書いた小説の続きからだ。僕はアプリを開き、文字を打ち込んでいく。
指が跳ねるような軽い、言葉がポンポンと浮かんでくる。
僕は目を閉じていた。脳内に浮かんでくるのは、色鮮やかな世界。こんな風に楽しく小説が書けるのも彼女のおかげだ。
彼女と出会えて、本当に良かった。
「君はまだ小説を書いているニャー」
春の風と共に、彼女は扉を開けた。桜の花びらが舞い、部屋の中に入ってきて、僕の机までヒラリヒラリとやってきた。
僕は微笑んで、体を彼女に向けた。
「遅いよ、せっかく友達との約束蹴ってここに来たのに」
「君に友達なんていないでしょ?」
彼女はそう嘲笑いながら靴を脱ぎ、僕の隣に座る。
「あったかくなったねー! カーディガンもいらないねこれじゃ」
「そうだね、今年は桜の開花も早かったし」
「全く、この優希さまのおかげかな?」
「なんの因果だよ……」
「神様もきっと私たちを祝福してくれてんるだよ!」
「このロマンチストが……。まさか、ただの地球温暖化だよ」
「うわー夢がないなー」
そんなたわいもない会話を交わしながら、彼女はカバンの中から薬袋を取り出し、机に並べ始める。
彼女はまだ薬を飲んでいる。僕と生きるための、希望の薬を。
「そういえばこの前投稿したやつで私を殺したでしょ!!」
「え?」
彼女はいきなりスマホの画面を見せつけてきた。頬を膨らませて画面を指差す。
「ほら! 『風を追いかけて』云々のやつ! この終わり方じゃ私が死んだみたいじゃん! やめてよね! 私生きてるから!!」
「いやいや、死んだって描写は書いてないから……」
「読者目線で同じこと言えるの!? これじゃみんな私が死んだと思ってるよ!!」
「で、でも史実通りに書いたとしても、あんなお涙頂戴シーンやっといて結局死にませんでした意外となんとかなりましたって書いても納得しないよ」
「いいじゃん! パッピーエンドなんだから!」
あの日から数週間経って、彼女は驚くことに学校へ来た。そして彼女は照れくさそうに頬をかきながら
『やっぱ大丈夫だったー、あははは……』
なんて笑って見せた。あの涙はなんだったのか、僕は羞恥で、これ以上ないほど悶絶した記憶がある。
「でも結末的にこっちの方が〜……」
僕が内容の変更を渋っていると、彼女はジトーと僕の目を見つめてきた。眼前まで責められて、僕は根負けした。
「……はい、改良しておきます」
「うん! それでよし!」
僕が必死に考えた物語を彼女の一存で変えられてしまう。やはり彼女は無遠慮だ。
「そうだ、はいこれ。じゃーん!」
彼女は僕に寄り、鞄からケーキを取り出した。
「なにこれ」
「最近出た新しいケーキ! 一緒に食べようと思って。あとこの前のマカロンのお礼も兼ねてね」
「……あー、そういえばクラスメイトが噂してたっけ。じゃあそういうことならありがたく。……これは君が店に行って買ってきたの?」
「うん、いろんなのがあって迷ったけど、これにしたんだー!」
「……そっか、それは良かった」
彼女は自分でケーキ屋さんに行ってきて、自分でケーキを選んだ。品々が並ぶショーケースから、一つを選んだ。
「んー! おいし〜!!」
彼女はケーキを一口頬張ると、頬に手を当てて、幸せように笑う。それを横目に、僕もケーキを食べる。
「それとさ、……ありがとね」
突然、彼女はつぶやいた。僕は口からフォークを引き抜く。
「私のこと、書いてくれて。私との思い出を書いてくれて」
「…………そんなこと、感謝を貰う謂れはないよ。あれは僕の自己満足のためにやっているんだから」
僕はパソコンを撫でる。
「これがある限り、僕たちは一生一緒だ。君がいなくなっても僕がいなくなっても、どれだけ離れ離れになっても……この物語の中なら、僕たちはずっと一緒だよ」
どれだけ世界が色褪せようとも、文字の中ならその美しさは不変なのだから。
「……やっぱり、結末変えよう」
「うん、だから変えるって」
「……この話も書こうよ! それなら私たちはもっと、ずっと一緒にいられるよ!」
彼女は笑う、満開の桜のように。
僕も微笑う。
「……それだけじゃ足りないな」
「足りない?」
首を捻る彼女、僕は指折りしながら提案していく。
「春は花見に行こう。夏は海に行こう。花火とか夏祭りとかにも行こう。秋は紅葉を見に行こう。冬は……まぁ寒いし炬燵でのんびりしよう」
僕は彼女の手を掴む。彼女は驚いた様子で目を丸くする。愛くるしくて、とてもとても愛おしい。
「これからも思い出を紡いでいこう。僕、君とならどんな色も書けるから、もっと君との思い出を書かせてよ」
「……当たり前だよ、君は小説家だもんね」
彼女は呆れたように微笑んで頷いた。けど僕はそれを否定する。
「違うよ」
彼女の細くしなやかな手を握りしめて、僕は言う。
「僕は君なしじゃ生きていけない、君のことが世界で一番大好きな、ただの男だ」
「――」
みるみるうちに顔を真っ赤にした彼女に、僕は正々堂々、彼女の美しい瞳を見つめて、言った。
「僕と、結婚してください」
殺風景な小屋に春風が吹いて、花びらを舞わせた。春陽を煌めかせて、若葉たちは歌い出す。
言い尽くせない鮮明さの中に、僕たちは生きている。
「――……こちらこそ、よろしくお願いします……!!」
涙ぐみながら、彼女は頷いてくれた。
一介の高校生三年生に、結婚なんて自覚ないけど、これだけは言える。
「絶対に、君を一人にさせないから」
「……私も、君を一人になんてさせてあげないんだから! 安定とか平穏とか、そんなもの私といてあるも思うなよ!! 君が私のことを嫌いになっても、勝手にどこまでもついていってやるんだからな!! ――覚悟しとけよ!!!」
彼女は僕に押し負けまいと、グッと身を取り出してきた。
「……分かってるさ」
こんなものだ。人生なんてつまらなくて味気なくて取り止めがない。
それでも、君がいるなら、歩いて行ける。
彼女は春風。いつもいつも僕を変えていく。
風は、いつか、季節が、時間が過ぎ去っていけば消えてしまう儚いもの――。
僕たちは、お互いを見つめ合う。自己中でも無遠慮でも、こういうのは分かってしまうらしい。
僕たちはどちらからでもなく、一本の桜のように物静かに優雅に朗らか雄大に凛然と、口付けをした。
――それでもいつか、春は巡り巡って、またここへやってくる。
何よりも愛おしい、春風と共に。
君との思い出は、ここには収まらないな。