神域の罠
一局目は穏やかに進行した。
ここで『平和』について説明しておくぜ。
知っての通り、麻雀は自分の手牌13枚に、自ら引くか相手が捨てた牌1枚を加えた14枚で様々な役を作り点数を稼ぎ、最終的な得点の多寡を競うゲームだ。
麻雀の役はそれこそ夜空に浮かぶ星の数ほどもあり、全てを覚えることは至難の業とされている。
裏プロ最強とまで言われたオレでさえ、全ての役を覚えているかと言われれば俯いちまう、そういう世界だ。
その中で平和爺は、麻雀における最もポピュラーな役の一つである『平和』に特化することで、裏の世界に君臨し続けてきた古強者。
1つの役に固執する男がそんなに強いのかって?
ふんっ、ちょっとは麻雀を知ってるような口ぶりだったが、過大評価だったようだな。お前さんは何もしらねえ、麻雀という博打の持つ深淵の恐ろしさをな。
麻雀には手を完成させるまでに4つのハードルがある。
「牌はちゃんとあるか」「役があるか」「点数を数えられるか」「発声できるか」この4つだ。
この4つの高すぎるハードルの中で、最も重要で、最も難しいのが、「役があるか」という部分だ。
『役』つまり14枚で決まった形を揃えられなければ、麻雀では和了る資格すら与えられねえ。
麻雀ってのは、和了る度に脳天に突きつけられた銃の引き金を自ら引くような、おっかねえゲームなのさ。
暴発したらどうなるかだって?
おいおい、決まってるだろ………『死』あるのみだ。
雀卓と言う夜空に無数に煌く役において『平和』の構成要件は単純明快。
面前で手を進め、3つの順子と1つの雀頭、そして和了り牌の待ちが両面になれば良い。
ふふっ、オレの言葉が魔法みたいだってか?
あながち間違っちゃいねえ。麻雀を志す人間の半分は一つの役すら覚えられずに、麻雀という深淵を覗く前に脱落しちまう。オレの語る言葉は素人にとっちゃ、魔法みたいなもんさ。
話を戻すぜ。
平和爺は常に『平和』以外の役を狙わず、それのみで裏の世界を渡り歩いてきた。
役があると分かっていれば、和了る際に迷うことはねえ。高等数学も真っ青な点数計算の厄介さも抑えられる。ビビッて発声できないケースも少なくなる。
つまり、あらゆるデメリットを吹き飛ばすくらい強いのさ、役を極めるってのはな。
それは一局目の結果が示していた。
「ふふ、立直じゃな」
平和爺がそう言って牌を横に曲げた瞬間、肉球には安堵と緊張が交互に走った。
立直をして相手を牽制しつつ、先にあがる。奴の必勝形だ。
「ツモ。立直、平和、ツモ………裏ドラは乗らんかったか。3翻で4千点じゃな。親であるお前さんは2千点の払い………既に『うんめぇ棒』2本を損したというわけじゃな」
平和爺が不敵な笑みを浮かべる。
麻雀は相手の心を折るギャンブル。自分がどれだけの高レートで打っているかを思い知らせ、手を委縮させる。いつもの手口さ。
平和爺のペースになる。
誰もがそう思った時、シンの野郎は誰にも予想できない行動を取りやがった!!!
何をしたかだって?
それはこうだ。
「なっ、なんじゃ、お主、なぜ麻雀本を読んでおる!!親被りで2千点を失ったのじゃぞっ!!!!」
ふんっ、平和爺が動揺するのも当然だ。
シンは『麻雀入門』と書かれた辞典のように分厚い専門書を読んでいたんだからなっ!!
どういう意味があるのかだって?
オレが考えるにシンの行動には2つの意味がある。
ひとつは『効いてないアピール』だ。
「えっ、ツモったの?本読んでたから、気づかなかったわ~。で、何点?」
そう言わんばかりのなっ!!
シンの奴は行動1つで、自分の余裕を万の言葉よりも雄弁に語りやがったんだ!!
知らない人と対局するというプロでも緊張する状況で、奴は本一冊で精神的ダメージを無にした………いや、上がった平和爺のダメージを与えることにすら成功したんだ。
強靭な精神力とそれを支える傍若無人なまでの行動力、それがシンという漢だ。
もう一つの理由?
ふふっ、あまりがっつくな、慌てる乞食は貰いが少ないって言うだろ。
ヒントを出すとするならば、この時シンのなかでは既に勝ちへの道筋が完成していたってことさ。
「と、とにかく点棒を払わんかっ!!2千点は2千点、この一局は儂が制したのに違いはあるまい!!」
平和爺は自らの動揺を悟られまいと声を荒げた。それすらもシンの計算通りだと知らずにな。
何が計算だったのかって?
シンはここでとんでもない事を言い出したんだ。
「2千点………でしたね。ところで先ほどの外馬、私がお受けしても良いですか?」
「外馬をお主一人でじゃと!!肉球中の駄菓子と同じ価値の物をお前が払えるとでも言うのか!?」
「外馬成立ですね」
こうしてシンは平然と1対数十人の賭けを成立させやがった。
シンと平和爺の会話が成り立っていないだって??
ふふっ、それもシンの計算のうちさ。
そして第二局。
この局も平和爺の追撃の手は緩まなかった。
「立直!!」
平和爺が肺を曲げると脇の二人はその重力に耐えかねるように首を垂れ、安全牌を切るだけの哀れな機械に成り果てた。立直に立ち向かうのは、シンただ一人。
「ロンッ!!それが出るとは甘いのう。立直、平和。裏はなし。2千点じゃ。勝負あったかの」
再び麻雀入門書を開くシン。
度重なる挑発。
並のやつであれば動揺して打牌が乱れる………しかし、平和爺はそんな罠で崩せるような小物じゃねえ。
恐ろしいほど冷徹に自分のスタイルを貫く、それが奴の強さだ。
平和爺に勝つためにはより強い役をぶつけるしかない。
並の打ち手であれば、そう考える。いや、そう考えざるをえない。
それが麻雀というギャンブルだ。
だが、次の局でオレはシンの本当の恐ろしさを知ることになる。
『神域』と呼ばれる、奴の真の実力の一端をな!!
第3局、親は平和爺。
ますます勢いに乗る平和爺をどう止めるか、注目はそこだ。
「ポンッ!!」
3巡目、早鳴きに定評のある田中が仕掛ける。
だが、これは拙速だった。田中は焦るあまり、役が何もないのにとりあえずポンをしてしまったんだ。
平和爺が周囲に与える強烈なプレッシャー、それが田中の歯車を狂わせた。
狂わされていたのは早鳴きに定評のある田中だけじゃない。ふとオレがディフェンスに定評のある吉永に目を向けると、奴の手牌は20枚もの牌で溢れていた。
そう、吉永は安全牌を抱え込もうとするあまり、引いた牌を切ることすら出来ず、平和爺の幻影に怯えていたんだ。
脇の二人は既に脱落。
卓上はシンと平和爺の一騎打ちの様相を呈していた。
「これでトドメじゃな。立直!!」
13巡目、遂に平和爺が牌を横に倒す。
脇は既に降りている。
平和爺を止められるのはシンただ一人。
脂っこい牌を連続で切るシン。
その勢いに押されながらも確実に仕留めにかかる平和爺。
二人の思惑が交錯し、卓上に火花が飛び散る。
「ロォン!!!!!!!!!!出しおったわ、馬鹿めが!!!!!!!!!!!!!!」
シンが最後の牌を切った瞬間、平和爺の勝ち誇った声が肉球中に響いた。
「立直、平和………裏が2枚。満貫じゃあ!!!!今度こそ勝負あったな、小僧!!!!!」
親の満貫は12000点、『うんめぇ棒』にして12本!!!!!
シンの完敗、誰もがそう思った。
だが、オレ達は全てシンという死神の掌のうえで踊っていたに過ぎなかったんだ!!!!!!
静まり返る肉球。
勝負は終わった、誰もが信じて疑わなかった。
しかし、シンにだけは違う景色が見えていたんだ。
『神域』の世界がな。
「どうした、早く12000点を払わんかっ!!!!!お主の負けじゃ!!!!!!」
「………御老人、貴方がいま上がったのは、本当に平和ですか?」
シンが麻雀入門書を片手に問いかける。
「なっ、なにを言う、平和に決まっとろうが!!!!雀頭に順子が3組、待ちも両面。誰がなんと言おうがこれは平和じゃ!!!!」
シンの苦し紛れの言いがかり………オレを含む誰もがそう思った。
だがシンの次の行動を見た瞬間、肉球に屯する全員が奴の神の読みに驚愕し、言葉を失った。
「この本には『平和の雀頭は役牌以外』だと書いてありますが………貴方の平和の雀頭は………役牌の白ですね」
そうだ!!
シンは第1局で振った時、ただ麻雀本を見ていたんじゃない。
平和爺の『平和』が本当に成立しているか、それを確認してやがったんだ!!!!!
相手の立直に振り込むという裏プロであっても精神が崩壊しかねない苦境のなかで、シンは冷徹に冷酷にただ己の勝ちだけを見つめていやがったっ!!!!!!!!
「はっ、白が頭だから、平和じゃないじゃと!?何を馬鹿げたことをっ!!わ、儂のあがりが、儂の役が、儂の勝利が、平和じゃない??そ、そんなわけが、あるわけないじゃろう。の、のう、皆の衆。儂は平和を上がったんじゃ、そうじゃろう?儂はこれまで何度も同じ形であがってきた………これまでも、これからも!!!!!そうじゃと言ってくれぇ!!!!!!!」
先ほどまでの勝者の余裕をかなぐり捨て、涎を垂れ流しながら懇願するように周囲に訴えかける平和爺の醜態に誰もが声を失った。
「平和でないなら、この手はチョンボですね。親のチョンボは満貫払いの取り決め。4千点オール、お支払いください」
シンの非情な宣告により、平和爺から点棒が吐き出されていく。
いや、平和爺が払ったのは点棒だけじゃない………自らが積み上げてきた麻雀そのもの、点棒と共に奴はそれを支払わされたのさ。