父親がガンになった
ガンといっても重症じゃなさそうである。老人は進行が遅いというし、そんなに深刻な事でもないかもしれん。但し、稲村某に与えられた情報は三行だけだが。
前向きに考えれば節目を迎えたと言えるのだろうか、それとも単に不幸な事なのか。俄には判りかねるが。
久々に母親にメールをした。きっかけは実につまらない事で久々に帰郷するかと打診する為、その旨を伝えるつもりで短文を繰り送った訳だ。以前は発作的にゲリラ帰郷をし、煙たがられたものである。しかし、今回はキチンと手順を踏んで報告してみたのだ。
返ってきた内容は実に短いものだった。
帰るのは構わない。今、父親が抗がん剤を点滴で入れていて、来月頭には終了する。
ただ、それだけだった。患部がどうとか、余命幾ばくかすら、全く記されていなかった。全く、俺の親らしい。既に母親は自らの終活を決めて邁進し、誠に淡白で達観しているのだから良く判る。
しかし父親は、これからどれだけ生きられるのだろうか。まだ、何も判らない。そもそも、何時からなのか、何処がガンなのか、そして痛みは無いのか。全く、全く、判らん。具体的な事を書かなかったのは心配を避ける為なのか、それとも本当に大した事は無いから、帰郷した折りに話すつもりなのか。これだから、出家した母親は困るのだ。達観するにも程がある。
…せっかく、帰郷するのも以前より気軽になり、さあこれからだと言うのに。車を変え、以前より気軽に連れ回せるかと思った矢先じゃないの? ナニコレ? もうどれほど猶予が有るかすら、今の俺には判らんのか?
修一郎さんよ、どんな感じなんだい? 痛くないのか? 調子はどうか? 今すぐ帰郷して聞きたい事は山ほどあると言うのに。距離で足が遠退き、時間が決心を鈍らせる。たかが八十キロ走れば辿り着けるのに、明日から仕事だと思うと出掛けられない。
そんな悶々とする心を抱えたまま、家族が帰宅する。そして俺に、生協の宅配物の仕分け方が違うと、頼んだ事は出来ないのに余計な事しかしないと愚痴られる。
現実は、常にろくでもない。事態は常に最悪で、毎日はいつも最低の繰り返しである。幸福なんざ昨日の出来事に少しだけ埋もれていて、振り返らないと見つけられもしない。お陰様で感受性だけはガリガリと現実って奴に削り取られ、痛みも直ぐに忘れてしまう。
だからこそ、俺は過去にいつまでも執着しない性分になった。何処かで見たような懐古的エッセイは出来るだけ繰り返して書かないし、二匹目のドジョウは追わない。何度も何度も過去作を掘り返しはしないし、二度目でコケれば三度目はやらない。いや、それは単純に読み手に飽きられるから、避けているだけだろうが。
以前は、事有る度に「実に罪深い」と書いていた時期がある。好ましいフレーズには程遠いのに、ついそう書かずにいられなかった。しかし、罪深い事はそうそう無いものだが、今の自分には良く当てはまる。親の病気を記し、それを呼び水にして文を並べているだから。
経験とは知であり、澱みである。知る事は未来を予測する材料になるが、余りにも折り重なれば厚く澱んで足枷になる。文を構成する為に知識は必須だが、苦い経験を積み重ねれば澱みが溜まり、筆が鈍る。そうして筆を折った者がどれだけ居るのか、なろうの登録者数と現行作品の比較をすれば、なんとなく判る気がする。
俺は直ぐに忘れる気質である。どうせ、一年も過ぎれば過去の記憶は次第に薄れ、三年過ぎれば思い出す事は稀である。だからエタらせ率が高い? 確かにそうかもしれない。
でも、書くのは止めんのだ。こんちくしょうと思いながら血を流し(いやそれは切れ痔だ)、歯をくいしばって書き続ける。身体を張ってネタを集め、時にトンでもない物を食ってでも、執筆する。あ、また絶メシエッセイ書きたい。しかし、ネタを集めたくても、コレステロール数値下げないと医者に怒られるんだよな。
父親よ、もう少しだけ長生きしてくれ。月末になったら会いに行く。どうか、それまで心配すんな杞憂だと笑って過ごしていて欲しい。そうすればきっと、間に合うだろう。
字には、力が有ると思う。そう信じて記し、形に残し、後から眺めて確信したい。それを実現させる為にも、修一郎さんよ、ちょっとだけ待っててくれ。
全部コロナが悪い。そう思うしかない。