#1
昔の人が思い描いた天国は、そんなにいいところじゃない。
なんてことを思い始めたのは、半ズボンをはいて校庭をばかみたいにかけまわっていたころ、近所の駄菓子屋でビー玉を万引きしたときからだ。
大量のビー玉をポケットの上からなでながら、僕はこれでもう地獄へいくしかないのだと憂鬱になった。
結局、そのビー玉は翌日に元あった場所に戻したのだが、それでも『盗った』という罪悪感は消えなくて、地獄とはどういうところなのだろう、そればかり考えていた。
そうしているうちに僕はすくすくと大きくなり、地獄への恐れはいつの間にか薄れていって、今は高校に通いながらなぜか剣道をやっている。ただし幽霊部員で初心者だ。
「なあ、いいかげん部活こいよ」
放課後に、クラスメイトの安西が駆け寄ってきた。中学のころからの付き合いで、腐れ縁。高校に入学して間もないころはよく安西と一緒に帰り道のコンビニで話していたが、部活にはいってからはさっぱりだ。安西はちゃんと部活に出ているようで、中学のころは腕相撲で負けたことがなかったのに、最近は全く勝てない。そのときの安西の無言で勝ち誇る態度が気に入らない。
「どうせいっても筋トレしかしないし、家でもできるじゃん」
「部活に出てるかどうかってのが大事なの。いいからこいってば」
「今日は予定あるから無理。明日ね」
「どうせコンビニよって立ち読みして家に帰ってオナニーしてゲームして寝るんでしょ」
「お前なんでそれを……じゃねーよバカ。わかってるじゃん、忙しいんだよ俺は」
「隣のクラスのかわいい子、酒匂さんいるじゃん。あの子剣道部にはいったから今日くるかもね」
「すごく久しぶりに部活にいきたくなったよ安西!」
「しね」
使い込まれて丸くなった消しゴムを額で受け止めた。跳ね上がった消しゴムは綺麗な円弧を描いて飛んでいき、机に突っ伏している不良の堂本くんの頭に当たった。俺と安西はすぐにカバンを持って逃げた。
剣道場は校舎の離れにあって、靴をはいて移動しなければならない。防具があまりにも臭いため完全隔離されているというのが定説だ。ロッカーのおかれている部屋には防具も集めて置かれており、部屋に入る前から甘酸っぱいを通り越して発酵しているような酸味のある香りが漂ってくる。
中にはすでに人がいて、袴の帯をしめていた。
「久川さんこんちゃーす」
「おう、安西おそい。あれ、そいつ新入部員?」
はっきりした上下関係からして、どうやら先にいたのは先輩らしかった。長い黒髪を後ろでひとつに束ねていて、道着をきていると昔の侍に見えないこともない。
線の細いすらっと伸びた体、女のような凛々しい顔立ち、まだ声変わりしていないのかハスキーで高い声。義経は絶世の美男子だったというが、きっとこんな感じだったのだろう。
「こいつ幽霊部員です。同じ時期に入ったんですけどね。引っ張ってきました」
「あーまじか。筋トレ全部さぼりやがった」
「ちゃんと家でやってたみたいなんで大丈夫だと思いますよ。道着あります?」
「んー、女子のしかないなー。仕方ない、私のを貸してやろう」
「よかったねタイチ。久川さんの道着なんて臭くて着れたもんじゃないよ」
「安西あとで体育館裏こいや」
「……安西、久川さんって女?」
「おう、タイチお前もこいや。で、名前は?」
「丸太一です」
「だからタイチなんですよこいつ」
なるほどねー。言いながら久川先輩は道着を貸してくれた。匂いを嗅いでみると、確かに洗剤のにおいにまぎれて若干酸っぱい匂いがしないでもない。
道着に顔をうずめようとしたら久川先輩に本気で止められた。
「そんなに体育館裏いきたいのかお前」
久川先輩は凄んではいたが、顔が真っ赤だった。すぐ横にいたはずの安西は、いつの間にか若干の距離感を感じるところから冷たい目でこちらを眺めていた。