老人と犬
老人は山間の小さな小屋に住んでいた。藁葺きの小屋は、入ってすぐにテーブルの置かれた台所、その奥に寝室があるだけの粗末なものだった。
小屋には老人のほかに一匹の犬が暮らしていた。小屋の脇の家畜小屋には牝牛が一頭、山羊が三匹、雌鳥が五羽いた。
高い山々の間、人も寄り付かない鬱蒼とした森の中にひっそりと続く、獣道よりかは幾分ましな、しかしそれほどの広くもない、人が一人やっとこ通れるかどうかといった、そんな道を進んだその先にある、すこし開けた草原の真ん中に小屋は建っていた。
老人は古くからこの森に住んでいた。若い頃より村から離れ、ひっそりと孤独に生きてきた。老人には親も子供もいなかった。唯一家族といえるのは、暖炉の前で丸くなって寝ている犬くらいだった。
老人と犬は朝早くに森を出る。雌鳥が産んだばかりの卵と山羊の乳を荷車に乗せ、犬が引っ張って村までいくのだ。村の商店に荷物を渡し、受け取った金のほとんどをパン屋と雑貨屋で使う。火曜日は雑貨屋でチェリービーンズを買い、土曜日には老人が一週間の出来事を知るために新聞を買う。その新聞は土曜日一杯老人が眺めた後、日曜日に協会の前に立つ若い肉屋の息子に手渡される。肉屋の息子はお礼にビーフジャーキーを一切れ犬に投げる。犬がゆっくりとビーフジャーキーをかみ締める間に日曜礼拝は終わる。すべてがこのようになっていた。
犬は村ではちょっとした人気者だった。賢く、人の言う事をよく聞くので、村の子供達は犬に会えば芸をさせたがった。犬もしたたかなもので、何か言われても、まずご主人である老人を見る。老人がうなずくと、やれやれといった風に子供達のいう事を聞いた。子供達と犬が遊んでいる間、老人は知り合いの面々と日向ぼっこをしながらのんびりとその光景を眺めるのが、日曜の午後の日課だった。
いつだったか、近所の悪戯坊主が蛙を犬の鼻面に押し当てたときは大騒ぎになったが、そんな事が話題になるくらい、この村で変わった事はなかった。ごく普通の山里にある田舎の村だった。
*
その日も老人と犬は荷馬車を引いて村へと続く道を歩いていた。森を抜けた先は村まで草原が続き、夏から秋にかけてのいまの時期はマツムシソウが雑草の間からちらちらとその花を覗かせている。日の出の遅い山間の里の常として、畑を持つ村人達は日の出前に家をでる。いまこの時間に村まで続く草原の道を歩くのは老人と犬だけであった。そんな道中、老人がふと呟いた。それは本当に、ポツリという言葉が相応しいくらいに小さな呟きだった。
「あと何度、この道を歩くことができるじゃろうか」
老人の言葉に犬は怪訝なまなざしを向けたが、すぐに自分の仕事を思い出したかのように前に向き直り、荷馬車を引き続けた。老人は常日頃から独り言も多く、犬にはそれらをまともに受け取るほどの覇気もなかった。
だが、老人の眼差しはいつもより遠くを見つめていた。足こそとめなかったものの、長い間をかけて刻まれた目の横の皺はより深くなり、手の先は自身の胸に置かれ強く麻折りの上着を掴んでいた。
老人はまた何かを言いかけてやめた。言葉の先は前を行く犬に向けてだったのだろう。老人の視線は荷車に向かい、地面へと降り、自分の脚の先へと移った。
脚の止まった老人をいぶかしみ、犬は荷車を引くのをやめて老人を振り返った。前に一度、老人はこの道で倒れたことがある。その時は犬がいち早く村まで知らせにいったおかげで、はるか昔に従軍看護婦だった村長の奥さんが老人の胸へメキサン注を打つのに間に合ったのである。あと少しでも遅ければと村の人間はそろって心配し、老人に村へ移り住むように勧めたが、老人はその誘いを断った。老人はその日のうちに小屋へと戻っていった。
犬は老人を注意深く観察していたが、老人は脚を止めたまま動かなかった。犬は澄んだ目で老人を見つめていた。老人は胸倉を掴んだ自分の右手をもう一方の手で包み、強く押していた。だが、犬は動かなかった。
犬は自分の仕事を心得ていた。この道で、小屋から村まで荷車を引っ張るのが犬の仕事だ。犬は雨の日も雪の日も、毎日この作業を続けてきた。その後ろを老人が歩く。道に二つある大きな溝でだけ、老人は後ろから荷車を支える。それ以外で老人は荷車に触らない。そういう決まりだった。これ以外の行動を老人は望んでいなかった。だからいまも、老犬はただ黙って主人が顔を上げるのを待っていた。
ほどなく、老人は顔を上げた。
顔には幾分疲労の色が伺えたが、しかし表情は穏やかだった。犬は目をしばたいて老人の顔を見つめた。老人は犬の視線に気がつくと、照れたような困ったような笑顔を浮かべた。「さあ行こう」と老人が促し、荷車はまた進みはじめた。
老人と犬はゆっくりと、村へと続く土の道を歩み続けた。
*
冬も始まるある日、その時はきた。
朝、老人は起きる事ができなかった。前日から続いていた胸の痛みは体中にまわり、震える手で注射を打つのがやっとだった。いつまで経っても牛の乳を絞りに行かない老人を、犬はいぶかるように玄関の前を行ったりきたりして待っていた。
朝日が戸口から差し込み、やがて空の上へと昇りきったところで、老人はようやくヨロヨロと座っていた椅子から立ち上がった。家畜へ餌をやるために戸口まできたところで、この小屋にはめったに訪れる事の無い客人がきたのを見て、また椅子へ座りなおした。その動作もひどく緩慢としたものだった。
いつになってもやってこない老人を心配し村を代表して様子を見に来た神父に、老人は牛の乳の出が悪いから今日は村へは行かない事にしたと説明した。礼を言って神父を見送り、小屋の奥に戻った老人は「まいったな」と、ひとりごちた。
老人の言葉を、犬はただ黙って聴いていた。
飼い葉桶にはいつもの二倍の量を入れ、テーブルや食器棚を片し、寝室を掃除したところで夕闇が迫ってきた。老人は少し早いがと呟きながら、暖炉に火を入れた。部屋はすぐに暖かくなり、老人はめったに口にしないスコッチを戸棚の奥から取り出してグラスに注いだ。足元で丸くなる犬を見つめながら、老人は安楽椅子に揺られ、ちびりちびりとグラスを傾けた。
「お前には苦労をかけ通しだったな」
老人の呟くような言葉に、犬は少し顔を傾けたものの、暖炉の薪がはぜるとその方へ気を取られたのか、また元のとおりに顔を横に向けた。老人は椅子の上からその様子を眺め、満足げに微笑んでいた。「もう、あの道を歩く事もあるまい」
多くの夜を越え、多くの月日をかけ、村へ乳を運び続けた男は手に持つグラスをゆっくりとその口に傾け、最後の一滴を飲み干した。そして眠りについた。若草色の毛糸で編んだひざ掛けの上で、武骨な手に包まれたガラスのそれは、暖炉の炎を受けいつまでもキラキラと光り輝いていた。
*
朝霜が溶け出す前に犬は目を覚ました。部屋の空気はすっかりと冷え切り、暖炉には黒い消炭が残るだけだった。
犬は顔を上げてあたりを見回した。すぐ横で椅子に座る主人を見つけ、犬は大きな欠伸をしてから気だるそうにその足元へ近寄った。だが、老人はピクリとも動かなかった。
犬は老人の持つグラスの匂いを嗅いだ。アルコールの匂いがわずかだが、まだ残っていた。
犬は老人の膝に鼻を擦り付けた。いつもなら、これに気づいた主人は微笑みながら犬の頭を撫でるのだ。だが老人は動かなかった。
再度、鼻を擦り付け、老人の足をゆすってみたりもしたが、老人は動かなかった。
犬は吼えなかった。
犬はいつもの姿勢で老人が目覚めるのを待つ事にした。
日も十分に上がり、朝の空気が消えかける頃合になり、ようやく犬は理解した。主人になにが起こったかを。
犬はしばらくじっとしていたが、やがてふらふらと玄関の方へ進み、体で玄関の戸を押し開けた。外は太陽の光に満ち、空は青く、眩しいくらいの快晴だった。犬は闇に慣れた目を細め、振り返った。暖炉の側の安楽椅子は動かない。
犬はゆっくりとテーブルに近寄った。
手をテーブルの上にのせた。
ゆっくりと力を込め、右腕の筋肉で身体を持ち上げようと試みる。左手もテーブルの上に乗せ、両腕に力を込める。常に折り曲げていた大腿筋が悲鳴を上げる。それでも諦めなかった。
長年、四足で歩くように強いられていたため、背骨も曲がりきっていた。肌に滴る汗を拭くことも無く懸命に足掻く。伸ばし放題の髪からのぞく口元から、苦痛とも言えぬ声が漏れた。歯を食いしばり、懸命に脚に力を入れる。普段使う事の無い筋肉を酷使し、脚と腰と背中の痛みが全身にまで駆け巡った。
煤けた肌に汗のすじを作り、ようやくテーブルにもたれるように立ち上がった。首をゆっくりと横に向け、ある方向を見つめる。視線の先は棚の上だった。
長年"犬"と呼ばれたつづけた男の夢は、棚の上になにがあるのかを見る事だった。
了
ほのぼのカテで飛んできた人、ごめんなさい