フレンドシップ・ハウア
時刻は午後8時を回ったあたり。カフェのアルバイトから帰宅したアンジェラは玄関の電気をつけた。
明るくなった視界に映るのは、洗い場に放置された食器と散らかった床。そして肌に感じるのは、いつも通りの違和感であった。
アンジェラは食器と床を片付けたあと、違和感の正体を探った。まずはトイレと風呂場。しばらく注意深く睨んだが、それといった変化はなく、ここではないとドアを閉める。
次に向かったのはリビング……アンジェラの瞳に「それは」映った。テーブルにあるマグカップ。その中にある、適当に差した万札を手に取った。
慣れた手つきで弾くように数える。1、2……。1枚足りなかった。何度数えても、結果は変わらない。
朝出るときは確かに3枚差していた。しかし、今は2万円分しかなかった。
明らかな異常。しかし、アンジェラは警察に電話しようともせず、まるで天井に何かあるように仰いでからため息をついた。
この間違い探しのような生活は、2ヶ月前から始まっていた。
最初の異常は電気代。変わらぬ生活をしていたはずなのに、突如として額があがったのだ。節約を心がけているわけではないが、むだ使いをしているつもりもない……届く請求書の金額にアンジェラは不思議で首をひねった。
その次に気づいたのは、リビングの物の位置である。テーブルに置いたはずのクーラーのリモコンがソファーに移っていたし、消したはずの冷房がつけっぱなしだったり……。
自分の不注意なのかもしれないが、気をつけてもそれが何日も続いたので、ほかの要因を考えることにした。
アンジェラは空き巣が入ったのだと疑った。
しかし、空き巣にしてはやることがチンケ過ぎる。パソコンやブルーレイレコーダーなど、金目のものは一切無事なのである。引き出しに入れてある通帳や印鑑に関しては、あさった形跡すら存在しなかった。
━━ものの試しに、下着もこれみよがしに干してみる。何日か続けてみたが、なくなったりはしなかった。
しかし、ワナとして用意した万札入りマグカップには手をつけているようで、たびたび数を減らしていた。
数日後、アンジェラはパソコンを開き、ネットを立ち上げた。これまであった不可解な出来事を簡単に検索し、やがて出てきた単語に目を見開いた。
━━寄生。他人が家のどこかに潜み、家主がいない間にくつろいだり、家の中を動き回るのだという。
物盗りとは違う、不法侵入者。腑に落ちる結果を目にし、通報しようと携帯に手をかけた。しかし、警察による部屋の捜査など、これから起きるであろう事を思うと急に面倒になってしまい、これより上の被害が出るようなら電話しようと思い携帯を放り投げた。
以前と比べてお金はかかるようになったが、金銭面において困窮するということは一切なかった。というのも、アンジェラの実家は資産家で、彼女は本来ならアルバイトも不要なお嬢様なのである。
では、なぜカフェで働いているのかというと「友達がやっているから」という理由であり、ただ周囲の真似事をしているという程度の感覚であった。
お金は減るが、特別困ってはいないこと。不可解ではあるが不気味には思わない危機感が欠けた性格。そして未だ自分の体に危害が及んでいないことから、アンジェラはどこに潜んでいるか分からない顔も素性も知らぬ同居人の滞在を容認しつつ、日々の生活を楽しんでいた。
しかし、その均衡が崩れる日が訪れた。きっかけは、お風呂あがりのアンジェラが冷凍庫を開けた時。
食べるのを楽しみにしていた高級アイスクリーム。それが無くなっていたのだ。
アンジェラは悲鳴をあげそうになるのをこらえ、ゴミ箱を覗き込む。そこには食べ尽くされたアイスの残骸が捨てられていた。
唇をわなわなと震わせる。お金はいくら盗られても構わないが、こればかりは許せなかった。
アンジェラはかばんから紙とペンを取り出し、ガシガシとペンを走らせた。
紙には「お前の存在を知っている。何をしてもいいが冷蔵庫の、特に菓子類には手を出すな」といった内容を記した。一緒に、自分には危害を加えないようにと追記する。
書かないだろうが、署名欄とはんこを押す場所も設けておいた。
勢いそのままに、札入りマグカップを重石にして、それをテーブルの上に置く。
こうしておけば、お金を盗むときに気づくだろう。アンジェラはこれを、今後も快適に過ごすための「フレンドシップ協定」と呼ぶことにして、相手の出方を見ることにした。
次の日、夕方帰宅したアンジェラは驚いた。
協定の紙に、名前が書き込まれていたのだ。
偽名かもしれないが、署名欄にはカニスと書いてあった。男とも女ともとれる名前で、はっきりした性別は分からない。しかし、名前の隣にはご丁寧にも拇印が押されていた。インクにしては少し茶色く変色している……しばらくしてそれが血だと気づいた。
本当にバカな犯人だと思った。この指紋を警察に持っていけばすぐに御用になってしまうとか思わなかったのだろうか。
しかし、不思議と通報する気は起きなかった。面倒とは違う別の感情と、律儀に血判まで残していく犯人を想像して、つい笑いがこみ上げてしまう。
こうして、危機感皆無のお嬢様アンジェラと律儀な犯罪者カニスの「フレンドシップ協定」が結ばれたのであった。
その数日後、どういう風の吹き回しだろうか。テーブルの上に花がぽつんと置かれていた。
少しくたびれた一本の小さな花。その下に添えられていた紙には、ぼくのすきなものと書かれていた。全部ひらがなで書かれた、汚く幼稚な字だった。
正直、アンジェラは花があまり好きではなかった。虫は寄ってくるし、きれいなのは一時だけで、すぐに黒くしおれてしまう。いくら長引かせようと手を尽くしても、結局ダメにしてしまうのだ。
しかも、これは花屋で買ったものではなく、その辺で摘まれたような野花である。
……まったく、盗んだお金は何に使っているのやら。
それと同時に、アンジェラは相手がますます分からなくなった。犯罪を犯しておきながら血判という証拠を残し、花を残してどこかへ潜み姿を消す。
別に会いたいとは思わないが……いつか罪を清算したいと思う時が来たのなら、その帰りを待ってやってもいいと思った。
数日後。大学終わりにバイト先へ向かう途中で、ふいにかばんが小さく揺れた。正体は携帯、父からの着信であった。
電話に出ると、大学はどうだとか、ちゃんと食っているのかだとか、親らしく娘を心配する声が聞こえた。
アンジェラは白けた。この人はそんな事で電話してくる人ではない。本題を話せと催促すると、急に真面目な声音になって、これから紹介する男と結婚しろと告げられた。
久しぶりの会話の内容に、ため息しか出てこなかった。
およそ政略結婚かなにかだろう。この人はお金のためなら娘も利用するのだ。本当にヘドが出る。
その時、アンジェラの脳裏にカニスがくれた花が浮かんだ。半分しおれかけた、けれどもアンジェラ自身にくれたプレゼント。
気づいたら、言葉を発していた。
「その人は……わたしに花をくれるような人でしょうか?」
一輪でも立派な花束でも、好きな色、好きな形、好きな匂いを見せてくれる人なのかと。
予想外の問いかけに言葉を失う父に、アンジェラは構うことなく電話を切った。
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