5話 日常に溶け込む
12の月に入り、リズニアは本格的な冬を迎えた。
ここ王都シェナヴィーゼではまだ雪は降らないけれど、少し北にあるノルデヴィーゼやノルオスディランゼでは雪が積もり始めており、それらの奥に広がるラヴィーネ大山脈は真っ白に化粧をしていた。この前観光特区にあるリアの塔から見えたので間違いない。
これは弟のフランツとその婚約者リリー嬢のデートになぜか俺も同行することになり、その時に三人で見たのだ。正確に言うとメーヴェの従者ブルーノも一緒だったので四人か。
フランツの婚約者リリー・ライアーは俺やフランツの幼馴染とも言える令嬢で、メーヴェと同じ御三家ライアー家の次女である。ちなみに彼女の趣味はフランツといろんな男を"カップリング"して妄想に耽ることである。最近のトレンドは俺とのカップリングなのだという。何とも言えない趣味ではあるけれどフランツはそんなリリーも可愛いと言っているので気にしないこととしよう。
俺はマグノーリエ先生と仲直りしてからは2週間に一度程のペースで怪我をし、医務室を訪れた。わざとではない。断じてわざとではないのだ。
この日、俺は左腕のちょうどプロテクターのつなぎ目あたりを負傷し医務室を訪れた。
あたりはうす暗くなっていた。冬は夜の訪れが早いというのがよくわかる。
俺はドアをノックした。
「いらっしゃーい、リット坊や」
そんな声が聞こえた。
先生はいつからエスパー人間になったのだろうか。
「こんにちは。なぜ俺だとわかったんですか?」
「ノックの仕方と女の勘ね」
先生はニッコリと微笑んだ。
「そうですか。」
「男でしょ?!とかツッコまないの?」
「いや、ほら、そういうの気にしてるのかなって思いまして」
最初の失言のこともあり、特に性別に関することには細心の注意を払っていた。
「今は全然気にしてないわ。私はどちらでもあってどちらでもないし。ふふ、中性っていう性別がほしいわ」
「あなたらしいですね」
中性、それは先生を表すのに一番適しているように思えた。男であり男ではなく、女でもない。今は、ということはきっと先生はこれまでにたくさんの困難に見舞われたはずだ。先生はどのような人生を歩んできたのだろうか。そんなことをふと考えてしまった。
先生はいつものように手際よく処置してくれた。
いつ見ても見とれてしまうほど無駄のない動きである。
先生は処置を終えると小さくため息をついた。
「そういえば、これからはリット様って呼んだほうがいいのかしら?坊や呼びしてるのが校長先生に知られてしまって軽く引かれてしまったわ。他の貴族はともかく、御三家に坊やはないだろうってね」
先生はまた困ったように笑った。
「僕は気にしてません。ちなみに他の生徒はどうやって呼んでるんですか?」
「おんなじようなもんね。坊ちゃまや坊っちゃんやお嬢様ですわ」
"そうか、俺だけではなかったんだ"
俺の心臓は細い針に刺されたかのような小さな痛みを覚えた。
俺が勝手に特別感を抱いてただけだったらしい。
「そうですか」
「あら。貴方だけ特別だと思って?」
「なわけないでしょう」
俺はなるべく平然に答えた。的中していただけに内心はドキドキしていた。
「リット坊やは、顔に出やすいんですわね。僕だけ特別扱いされてるかと思ってた、と顔に書いてありますわよ」
「ないない。そんなこと思うわけないじゃないですか」
先生はクスクスと笑った。
そんなことは初めて言われた。
俺は昔から周りの大人たちから表情が読めない子どもと言われていた。
父親にも"お前の心を読ませない表情は、貴族社会で生きていく上で大切だ"などと言われていた。
先生の瞳には俺はどのように映っているんだろうか。
「そうですか。ふふ、"坊や"とは他の生徒に言ってないわね」
その言葉に俺は先生を軽く睨んだ。
「騙したんですか?」
「ちょっとからかっただけですわ。かわいいですこと」
「いつか覚えててくださいね」
「もう忘れたわ」
先生は見た目のクールさによらず意外にもお茶目な性格をしているようだった。
"絶対いつか仕返ししてやる"
こうしてまた俺の中にまた一つ執着心が芽生えたのだった。
そんなことに当時の俺は気づいていなかった。
◇◆◇
それは12の月の半ばのある日のこと。
灰色の低い空からは今にも白いものがちらつきそうであった。
この日も俺はちょっとした切り傷(と言っても血はそこそこ出ている)で医務室を利用していた。
少し遅くなってしまったのもあり廊下はほの暗く、医務室の蝋燭には火が灯っていた。
手元が暗くても先生の処置にはあまり影響がないようだった。
その"師匠"とやらはどれだけ過酷な状況で彼に経験を積ませたのだろうか。
「遅くにもかかわらずありがとうございました。今日は冷えますね。去年の今頃より寒いかもしれません」
「仕事ですからね。そうなんですか?部屋が温かいので気が付きませんでしたわ」
先生は涼しく笑った。
俺は自分の耳を疑った。
医務室の暖炉はそこそこ大きいのだけれどそれでも室内は暖かいとは言えなかった。俺が寒がりなだけなのだろうか。
よく見れば先生は白衣の下のジャケットの中にセーターを着ていなかった。この気温にして明らかに薄着である。
「先生、そんな格好で寒くないんですか?風邪を引いてしまいますよ」
「春が来たかのような暖かさじゃないですか」
何言ってるんですの?と彼は付け加えた。どうやら彼は寒さにとても強いらしい。
「え、あなたの故郷はそんなに寒いんですか?いや、リズニアの王都自体がだいぶ北にあるから出身が限られますね。ノルデヴィーゼやノルオスディランゼですか?」
「ご想像におまかせしますわ」
先生は相変わらずニコニコしていた。
これは両方ともハズレかもしれない。そう思いながら俺はふと窓から外を見た。
「先生!雪ですよ!」
ふわふわと柔らかそうな雪が空から落ちてきていたのだ。俺は思わず大きな声を出してしまったことにに気が付き慌てて口を手で覆った。
「ふふ。可愛いんですのね。」
先生はぷっと吹き出した。
頬が熱を持っていくのがわかった。
「べ、べつに楽しみにしてるわけじゃないんですよ。降りそうな空だなって思ってたのが当たって嬉しいだけですから!」
「雪が降るというのは一日に20センチくらい積もるくらい降ってようやくですね」
先生は笑みを浮かべたままさらりとそんなことを言った。
それはもはやリズニア国内でも山沿いでしかありえない量であった。
「もしかして、イズール出身だったりします?」
俺は冗談のつもりでそう尋ねた。先生はふふっと笑うだけだった。
「なわけないですよね。よかった。先生はどう見ても人族ですもんね」
魔族は金色に近い瞳を持っているのだという。どう見ても先生はその特徴に当てはまらない。
先生は首を傾げた。
「よかった、とは?」
「だって、魔族は少し不気味じゃないですか。魔法とかそういうものは未だに受け入れがたくて」
それは多分、人族の大半が思っていることだった。
俺自身に関しては、小さい頃に魔素が大気中に存在していてそれを自分が摂取しているということを知った時、気持ち悪さで一日食事が喉を通らなかったことがあった。摂取した魔素は体内に吸収されることなく呼気などよって外に出されるということを知ってからは何とも思わなくなったけれど。
「まぁ、当然の反応ですわね。ふふ。そんなに気にしてくれるんですか?私の出身地」
先生は"やだ、嬉しいわ"と付け加えた。
「秘密にされると逆に気になるじゃないですか」
「もう少し仲良くなったらお教えしますよ。貪欲な坊や」
先生はそう言うといつものようにニコリと笑ったのだった。
貪欲なんて言葉は多分人生で初めて言われた。
俺は貪欲とは対称的な立ち位置に居るはずだ。
本当に、先生から見た俺は一体どんなやつなんだろうか。
俺は医務室を後にした。
◇
傘を持っていなかった俺は駆け足で正門を目指した。
その向かう途中、図書館からフォルカーが出てきた。
「リット!こんなところで会うなんてやっぱり運命だね」
「お前、俺のストーカーか?」
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ。今回は本当に偶然!課題用の本を借りてたんだよ。今までのは多少タイミングを見計らってたけどね!」
「やっぱりストーk」
「うるさいよ。ついでだから正門まで送るよ。相合い傘しよ?」
フォルカーは傘を持っていた。傘をさすほどの雪ではなかったけれど、フォルカーの好意をありがたく受け取ることにした。彼に聞きたいこともあったのだ。
俺たちは二人で傘に入り正門を目指した。
「なぁ、フォルカー。ノルデヴィーゼやノルオスディランゼより北にあるリズニアの領地ってないよな?」
俺は確認の意味も込めて尋ねた。
「あー、うん。ないんじゃないかな」
これは聞いて正解だったようだ。
「あるのか」
「ふへっ。なんで?!」
「フォルカーの"あー"の長さで大体わかる。今のは嘘ついてるやつだ」
長年一緒にいるからか、お互いの癖はお見通しであった。多分彼にしかわからない俺の癖もあるんだろう。
「あはは。さすがリットだね。都市伝説だけど、ラヴィーネ山脈の中に飛び地があるらしいよ」
「そんなこと初めて聞いた。なんでフォルカーがそんなこと知ってるんだ?シュヴァンからの情報、ではないよな」
彼はシュヴァンとは連絡を取っていない。帰ってもいないのだから。だとすれば彼の友人か?いや、彼の友人はだいたい俺の友人でもあるのでそんなことは聞いたことがなかった。
「ふふ。まぁ、色々あるんだよ」
「めずらしいな、お前が隠し事するの」
「僕だって知られたくないことの1つや2つあるからね。特に大好きな君には」
反射による言葉たちは今日も威力があった。周りに人がいないのは幸いだった。
「さらっと言うなよ」
「本当はここで押し倒して君を手に入れたいくらいなんだけど、じっと抑えてるんだよ。僕の理性って鋼並みだよね」
"ふふ、初雪の中で、とか結構ロマンチックだよね"とニコニコしながら付け加えた。
本当にどうしようもない男である。
「お前は本当にぶっ飛んでるよな」
「褒めてくれてありがとう。ちなみに君が相手なら僕は攻めかな」
「そんな情報いらんわ!」
俺は思わず素でつっこんでしまった。フォルカーは腹を抱えて笑っていた。
フォルカーの力を持ってすれば俺は簡単に組み敷かれるかもしれない。この華奢な友人は、その見た目からは想像もつかない程の怪力の持ち主なのだ。
"ラヴィーネ山脈の飛び地か。先生の出身地はそこなのか?"
俺はそんなことを思ったのだった。