3話 医務室のあの人
中等部にいた頃から、俺とフォルカーはちょっとした有名人だった。それは御三家の子息であるからというのはもちろんであったけれど、俺達の特技にあった。
フォルカーは体術、俺は剣術を得意としており、中等部では負けることがなかったのだ。
本当はフォルカーが剣を握れば俺より強いのだろうけれど、彼は俺と勝負することを頑なに拒んだ。多分俺のプライドを傷つけまいとしているのだろう。俺は勝敗に執着はないし、別にフォルカーに負けても何も感じないのだけれど。フォルカーは"剣術って頭使うから苦手なんだよねー"と言っていた。
ちなみに弟のフランツは今年から中等部に進学したのを機に本格的に剣術を始めるのだという。初等部にいたころから俺が時々稽古をつけていたのだけれど彼はなかなか筋がいい。贔屓目なしで。少々粗さはあるけれど磨けば確実に光るだろう。
フランツは感情豊かで努力家である。彼は世間一般に言われる"才能"には恵まれていないかもしれないけれど、俺からすれば"何かに執着して努力できる才能"を持っている彼が羨ましかった。
◇◆◇
10の月15日目のこと。
俺はいつものように学園の端にある高等部用の剣術稽古場で打ち合いに励んでいた。そして左手に軽い擦り傷を負った。大したことはなかったけれど、稽古長は心配して医務室に行くことを強く勧めてきた。御三家だからといって気を遣い過ぎである。
稽古用の鉄剣は刃引きされており切れないようになっているものの、激しい練習の中では擦り傷や打撲がよく発生する。こんな怪我で医務室に行っていたのでは稽古の時間が減ってしまう。
しかし今回は稽古長の顔を立てるためにも指示に従うことにした。
学校医が代わってから初めての医務室であった。
"どんなやつなんだろう。いや、多分女っぽい男なんだろうけど"
せめて普通に話せるタイプだとありがたかった。残り三年間で確実に世話になるのだから。俺は気を引き締めて医務室のドアをノックした。
「いらっしゃーい」
ゆるい男の声が聞こえた。あの学校医のものだった。
俺は静かにドアを開けた。
医務室は普通の教室一つ分より少し大きいくらいの部屋である。
入口からまっすぐのところに学校医の席があり、その奥に助手用の席、左側にカーテンで仕切られたベッドが6床あるのだ。白基調でありシンプルで落ち着く空間である。
学校医は自席にいた。
初日に挨拶した時と同じく長い黒髪を後ろに束ね、黒いズボンと白いワイシャツを着ておりその上から白衣を羽織っている。
細身でスラリとした人だ。
「あら、初めて見る顔ですわね。マグノーリエですわ」
学校医は優雅に挨拶した。少しだけ口角を上げ、柔らかい表情をしていた。
難なく会話ができそうな人物であるように見えた。
「初めまして。リット・メーヴェです。剣術の稽古で軽い擦り傷を負ってしまいまして。ここに来る程のものではないんですが」
俺はそう言って左手の擦り傷を見せた。
「血が出てますので消毒をさせてもらいますわ。ここに掛けてくださいな」
学校医は自身の席の近くにある椅子に座るように促してきた。
彼は近くで見るほど男とは思えない容貌であった。黒かと思っていた瞳は美しい紺色であり、長いまつげを纏った切れ長な目を少し伏せながら俺の左手に消毒を施していった。左目尻には小さなホクロがあり、それがより一層女性らしさを醸し出している。すっと通った鼻筋、手入れの届いた唇や肌などはそのへんにいる女性よりも女性らしい。
ちょっと待て。俺は一体どんな目線で彼を見ているのだろう。
俺は心のなかで首をブンブンと横に振ったのだった。
男は慣れた手付きであっという間に包帯を巻く処置まで終えた。
「手際良すぎません?」
俺はあまりの早業に思わずツッコミを入れてしまった。
「そうかしら?師匠には遅いって言われてたの。お褒めいただき光栄ですわ」
彼は少し口角を上げた。
「これで遅いなんて、あなたの師匠は化け物ですか?」
「あぁ、、、そうね、多分」
彼はふふっと笑みをこぼした。俺もそれにつられ自然と笑ってしまっていた。
「変な人だ。いや、失礼。深い意味はないのですが」
俺はとっさに出てしまった言葉をすぐにフォローした。本当に深い意味などなかったのだ。それでも彼の表情が少しばかり固くなってしまったのが気になった。
「よく言われるので平気です。さぁ、練習に戻りなさいな。大した怪我でもないでしょう」
少し冷たくあしらわれた感じがした。やはり気に障る言い方をしてしまったのかもしれない。俺は無意識に自然と会話を繋げようとしていた。
「すみません。機嫌を損ねてしまいましたか?」
「いいえ、まったく」
それは怒っているというより、困っているような顔だった。
「もう稽古には戻らず帰ろうかと思っていて。良ければもう少し」
「そうですの。他の生徒も来ますのでご退室願いますわ」
「でも」
俺が食い下がったことに彼はしびれを切らしたようだった。穏やかだった彼の様子が一変した。
少し、空気がピリッと引き締まった気がした。
「あなた、私に興味がお有りで?私、男の人に興味はありますがお子様にはなくてよ。リット坊や」
その目線は氷のように冷え切っているように感じた。
俺は頭の中が沸々と煮える感覚を覚えた。これは生きてきた中で数度しか経験をしたことがなかった。
「べ、べつにそんなんじゃ!自意識過剰なんじゃないですか?!」
俺のその様子に彼は一瞬目を見開いたけれど、すぐにまた冷めた目線を送ってきた。
「そうかもしれませんね。さぁ、お帰りくださいませ」
「言われなくてもそうしますとも。では、失礼します」
俺は医務室を後にした。
"気に入らない"
初対面の人間にこんな感情を持ったのは生まれて初めてだった。
なぜこんなにも苛立つのか、このときの俺にはわからなかった。
稽古に戻る気にもなれず、俺は馬車の待つ正門へ向かった。学園と屋敷の行き来には安全のため自家用馬車を利用していた。
メーヴェは王都の貴族居住区に別邸をいくつか持っており、その中で一番広い屋敷で俺とフランツは十数名の使用人や従者とともに生活していた。この時期は王国議会の会期中なので父であるランベルト(ズュートメニア侯爵)も一緒に生活していた。
突然後ろから声をかけられた。
「リット、帰るの?」
それはフォルカーだった。彼も体術の稽古終わりらしく、額に薄っすらと汗を浮かべ、肩からタオルを下げていた。
「あぁ」
「正門まで送るよ」
「いいよ、逆方向だろ」
フォルカーは長らく学園の寮で暮らしていた。彼の実家シュヴァンも王都に別邸を持っているが、彼と実家との特殊な事情により初等部の途中からずっと学園寮生活なのだ。
その事情はフォルカーが言いたくないらしいので無理に聞くことはなかった。昔、自分の従者にそれとなく聞いてみたことがあったが彼は言葉を濁すだけだった。
「僕がしたいんだよ。今のリット、すごい顔してて心配。何かあったの?」
フォルカーにはお見通しらしい。いや、俺が本当にひどい顔をしているのかもしれない。
「別に」
「君がそんな感情的になるのはめずらしいね」
「感情的になんか」
俺はここではっとした。
確かに感情的になっていたことにここで初めて気がついたのだ。
嫌だなと思うやつはいないわけではない。でもそいつらに向ける感情は"無"であった。"どうでもいい"、"勝手にしていろ"だったのだ。
それなのにも関わらず俺は"苛立ち"を覚えている。
一体俺に何が起こったのだろうか。
「なってるよ。いつも君を見てる僕だもの。わかるに決まってるじゃん」
「お前な。そんな恥ずかしいことをさらっと言うなよ」
「えへへ。言葉が勝手に出てくるんだもん。困っちゃうよね」
そう言って彼は笑った。
フォルカーは自他共に認める"脳筋人間"であった。"脳みそまで筋肉でできてる"というのは本当にいい例えだと思えるほど、彼は反射的に言葉を発することが多い。
俺はフォルカーに打ち明けることにした。
「あの学校医なんなんだ。すごくムカつく」
俺は学校医とのやり取りの一部始終を話した。
フォルカーは真面目な顔をしてふーん、と言った後にこう続けた。
「へぇ、リット、やっぱりああいうのが好みなの。そりゃ僕に振り向いてくれないわけだよね」
後半の部分は普段の彼の調子でヘラヘラとした様子で言っていた。
「は?なんで今の話からそうなるんだよ?」
俺にはフォルカーの思考が全くわからなかった。
「自分で気づいてないの?まぁいいや、そのほうが好都合だし」
フォルカーはふふっと笑った。こいつに相談したのが間違いだったらしい。
「誰があんなやつ好きなものか。二度と医務室なんか使わない」
「いや、僕たちは無理でしょ。絶対利用することになるじゃん」
「ふん。あんな自意識過剰男の世話になんてならない」
「へぇー」
フォルカーは無理だと思うなーと付け加えた。
そんなことは俺もわかっていた。
それでもどんな怪我を負ってもあいつには会いたくないという気持ちが俺の中を埋め尽くしていた。
このときの俺は気づいていなかった。
この感情こそがある意味で"執着"であることに。