21話 明晰夢
俺は夕陽が差し込む自室に立っていた。しかしいつもと様子が違っていた。俺の目の前には小さな少年がいたのだ。
ハニーブラウンの癖の少ない髪をした少年であった。机に顔を突っ伏して泣いているので顔は見えなかった。
それでも俺は直感した。
彼は小さいときの俺であると。
多分初等部1年生の頃だろう。
少し思い出してきた。俺は昔、嫌なことがあるとこうやって机に突っ伏してシクシクと泣いていた。
俺は目の前にいる少年の頭を撫でようとしたが、手がすり抜けてしまった。
まるで透明人間になったかのような感覚だ。
どうやら俺は夢か何かを見ているらしい。
頭の中は至って冷静だった。
そこでドアがノックされた。
このノックの仕方はブルーノだ。
俺はさっと身構えた。
幼い俺はノックに気づいていないのか泣き続けていた。
入ってきたのは案の定ブルーノだった。
茶色の髪をオールバックにし黒フチのメガネをかけているのはずっと変わっていない。ただ、やはりとても若かった。
ブルーノは俺の存在に気づかないようで、幼い俺の元に行き、そっと頭をなでた。
その表情はとても柔らかいものだった。
俺は久しぶりに見る彼のその表情に心がざわついた。
「坊っちゃん、また喧嘩したのですか?」
「だって!あいつが悪いんだ!フォルカーのことを女々しいなんて言うんだ!」
幼い俺は顔を上げ、ブルーノをキッと睨みつけた。
ブルーノは俺の頭を撫でながら小さくため息をついた。
「またシュヴァンの次男坊のことですか。お友達思いなのは悪いことではありませんが、女々しい彼にも問題がありますでしょうに」
「さわるな!ブルーノの人でなし!れいてつにんげん!」
幼い俺はブルーノの手を払ってそう言った。
ブルーノは少しだけ悲しそうな顔をしたが、すぐに取り繕った。
「いくらでもどうぞ。あぁ、なんと嘆かわしい。こんなにキャンキャンと喚くのでしたら坊ちゃまよりも人形のほうがまだマシですね」
「人形のほうが、まし?」
俺は目を見開いたままブルーノを見つめた。
そうだ、思い出した。
その一言にすごく傷ついたんだ。
「ええ。メーヴェ本家の子息たる方がこんなに感情を顕にして。みっともないことでございます」
「みっともないことなの?」
「そうでございます。いいですか、リット坊ちゃん。貴方はいずれメーヴェを、ズュートメニアを背負って立つ人間となるお方なのです。ですから、こんなことで腹を立ててはいけないのですよ。感情を隠して、相手に悟られないようにするんです」
ブルーノの言葉には力があった。
それでも幼い俺は動じることなく言い返した。
「ねぇ、ブルーノ。僕は兄さんのほさをするんだよ。父さんからもそう教わったよ」
「このままでしたらそうでしょう。でも、いつどうなるかわからないのです。リット様、貴方は人形よりも価値があるのでしょう?」
ブルーノはニヤッと笑った。
幼い俺はブルーノを睨みつけた。
「そうだ!僕は人形よりもずっと優秀なんだ!」
「だったら感情を出してはいけません。いいですね?」
「わかったよ、ブルーノ」
「坊っちゃんは素直で可愛いですね」
ブルーノは目を細めながら俺の頭をなでた。
幼い俺もまた目を細め嬉しそうに微笑んだ。
忙しい父さんや母さんの代わりにそばにいてくれたのは彼だった。
ブルーノは厳しいことを言うけれど、上手くできたときはそれ以上に褒めてくれた。
俺はブルーノに褒められたくて、彼の言うとおりに生きてきたんだ。
すると突然ビジョンが変わった。
それはまた自室であったが、外は雪景色に変わっており、幼い俺もブルーノも冬の装いになっていた。
先程よりも少しだけ大きくなった俺はまた机に突っ伏して泣いていた。
その隣に腰掛けたブルーノはまたも俺の頭を優しく撫でていた。
「一生懸命にやったのに、テストの点数が伸びなかったんだ」
「リット様は頑張りすぎると空回りしてしまいますからね」
俺はそっと机の上にある解答用紙を覗いた。
思い出した。
俺は算術のテストで初問でミスをしてしまい、それに関連する問題をすべて間違えてしまったのだ。算術の中でもその分野は本当に好きだったので間違えてしまったことが本当にショックだったのだ。
「リット様。ご傷心のところ申し上げにくいのですが、なぜこんなところで間違えてしまわれたのですか?」
「それは」
俺は口ごもった。
「メーヴェ本家の恥でございますよ。情けない、こんな問題で失敗なさるなんて」
「ブルーノ、僕は」
ブルーノの冷たい声と言葉は幼い俺だけでなく、今の俺をも串刺しにしていった。俺は気づかないうちに小さく震えていた。
「力が入りすぎて失敗するくらいなら、興味など捨ててしまいなさい。貴方は完璧でなければならない存在なんです」
「それは、好きなことをするなってこと?」
ブルーノはメガネをぐっと上げた。彼は俺が質問したことにイライラしているようだった。
「ほどほどになさってくださいということです。最近感情的になることが減ったと思ったらこれですからね。貴方は本当に不器用だ」
「ごめんなさい」
幼い俺はしょんぼりと頭を下げた。
「リット様は私の希望なのです。どうか落胆させないでくださいませ」
「わかったよ。ちゃんとできたらまた褒めてくれる?」
「もちろんでございます」
「えへへ。僕がんばるね!あ、ほどほどに」
「可愛い坊っちゃん。期待しております」
ブルーノは目を細めた。
俺はその笑顔にゾッとした。
キモチワルイ
キモチワルイ
キモチワルイ
俺は思わず後ずさりした。
その瞬間、ブルーノが俺を見た。
幼い俺ではなく、この俺を。
そしてニタァと先程よりも気持ち悪い笑みを浮かべた。
そして徐ろに口を開いた。
「ねぇ、リット坊っちゃん。貴方は私の操り人形でいればよかったんですよ。あいつに出会ったから、あいつらに関わってしまったから変わってしまわれたのですね」
そう言いながらブルーノは一歩ずつゆっくりとこちらに近寄ってきた。
「やめろ、来るな!!」
「あの学校医も、シュヴァンの次男坊も許さない。リット様は私だけのものなのに」
そのブルーノの目は焦点が定まっておらず、気持ち悪い笑みをずっと浮かべたままであった。
俺は窓を開けて外に出ようとした。二階からなら簡単に飛び降りられるはずだった。
が、そこにはいつの間にか暗闇が広がっており、どこまでも深く今にも飲まれしまいそうであった。
「っ!!」
俺は左手首を何かに掴まれた。それはブルーノの青白い手だった。
それは氷のように冷たく、体の芯まで凍りつきそうなほどであった。
"だめだ、もう、、"
諦めて目を瞑った時だった。
"逆戻りしてほしくないの"
その言葉が、その声が頭に響いた。
懐かしくて温かいその声は何度も何度も頭の中をこだました。
俺は後ろを振り向き、ブルーノを見つめた。
「俺は、お前の操り人形じゃない!!」
その瞬間、ブルーノの体が吹き飛ばされた。
そして温かい陽の光と、春の陽だまりを駆けるような爽やかな風が部屋を満たしたのだ。
"よく言ったわね"
次はその声が外から聞こえた気がした。
窓の外を見ると、屋敷から見える春の風景に戻っており、下には尊敬するその人が両手を広げて待っていてくれた。
俺は迷わずに窓から飛び降りた。




