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08 「奴隷は、いついかなるときでも、金に換金可能な資産として扱わねばならん」

「わたしはブラジウスを信じています」


 もう中年に差しかかろうという男性が、厳かともいえる真剣な口調で語り出した。


「この街の人たちは、どの街よりも珍しいもの好きの集まりでした。

 わたしの船が港に到着したときから、皆の視線はわたしのような外国人に釘付けです。

 荷を下ろし、市に並べようものなら、この街の人々は露店の周りに輪を作り、わたしの運んできた商品を興味深く、熱心に、そして楽しそうに見物してくれたものです。

 作り手の願いがこめられた絨毯。

 金や銀や細やかな装飾で飾られた短剣。

 東方の占星師の知恵が盛り込まれた天球儀。

 

 特に人気だったのは、香辛料と、クリスタルの器でした。

 はるか東の砂漠の地で、灼熱の炎で生み出されたクリスタルを自由自在にあやつれる匠の業物は、やはり人を惹きつけるものがあったのでしょう。


 わたしは、ひとが喜んでくれるのが嬉しかった。

 ただ、それだけだったのです。何度も何度も、足を運びました。

 この街の皆さんに喜んでもらうのが、只々、嬉しかった。

 あまりにこの街の居心地がいいので、いつしか、家を探し始めました。

 気がついたときには、わたしはその家を買い取っており、妻と、三人もの可愛い子宝にも恵まれていました。

 暮らしに頼られた行商で得た蓄えも、わたしの手元にはあった。


 わたしは幸せでした。

 だから、この幸せを皆にわけてあげたいと、常々思っていましたし、行動もしていたつもりです。

 わたしのお布施の額を知っていますか。

 年間の稼ぎの、六割にも及ぶのです。

 わたしの稼いだお金で、この街の道が良くなり、聖堂が立派になり、誰もが、より良い環境のなかで生活する。

 これほど素晴らしいことが、他にあるでしょうか。

 皆で喜びを分かち合うことが、どれほどの幸福を生み出すでしょうか。


 わたしは、この街を愛しました。

 この街の人びとと、血を分けた兄弟のように接していました。

 それなのに」


 それまで熱に浮かされたように語っていた男は、つかのま言葉に惑い、目元を抑えた。

 彼の動きに合わせて、長机に飾られえた燭台の明かりが震え、部屋の影たちがざわめいた。

 男に向かい合う形で座っていた初老の男性が、黙って手を挙げた。

 すかさず、脇に控えていた若人が、男にハンカチを差し出した。


「奴らは悪魔です。

 神と誠実な人びとの集まりだと信じて疑わなかったわたしの心を、容赦なく引き裂いたのです。

 わたしが行商から帰ってきたときには、嵐はとうに過ぎ去っていた。

 

 わたしのささやかな幸せは、なにもかもが持ち去られたあとでした。

 やつらは、ノマドは、わたしに何の恨みがあったのでしょう。

 家に住んでいたからですか?

 家族をもっていたからですか?

 それもと、ただ、お金を持っていたからですか?

 

 ただ斬り殺されただけであれば、まだ救いもあったかもしれません。

 ですが、朽ち果てた遺体には、明らかに乱暴された跡が見てとれました。


 ラキュア。クレア。マーニー。

 

 痛かったろうに。

 苦しかったろうに。

 なにも。

 なにもしてやれなかった」


 男はついに感情を押し殺すことができなくなり、おいおいと声を上げて泣き始めた。

 老人の手元であやされていた子猫が、場の重々しい空気を読まずになーごと鳴いた。

 老人は手で子猫をなでつけながら、もう一方の手の人差し指を軽く動かした。

 むせび泣く男と老人の前に、ショットグラスと、蒸留酒が置かれる。

 老人は、黙ってグラスに酒を注ぐ。

 男は震える手でグラスを口に運び、感情を共に飲み込むかのように、一息に飲み干した。


 男が、涙を飲み込んでいう。

「今こそ、神は、わたしの信仰に報いをくださる時ではありませんか。

 奴らに、神罰を。裁きの鉄槌を。

 どうか、わたしに力をかしてください」


「ひとつ断っておかねばならん。

 我々は、暴力機関ではない。

 治安維持に貢献できるだけの私兵は、確かに準備している。

 しかしそれは、神の意思を代行するためのものであって、私欲のために動かせるものではないのだよ。

 我々は神を信奉するものの代表だ。

 我々は人びとの模範になることはあれど、復讐に手を貸すなど、あってはならんことだ。

 その上で聞きたいのだがね、君は、わしに何を望んでいるのだね」


 男はおもむろに立ち上がると、老人のそばに膝をつき、彼の耳元で二言、三言ささやいた。

 老人は深いため息をついた。自らを慰めるように、手元で子猫を優しい手つきで背中をなで、喉元をさすってやる。

 男が座りなおすのを待って、老人は、間違いを犯した子どもに言い聞かせるような優しい口調でいった。


「神の教えにあるように、わしらは隣人を愛さねばならん」


 老人からは、強固な信仰を持つところからくる高貴さが、匂い立っているようだった。

 男が間を入れず答えた。

 敬虔なる信徒が、神に見放されたと悟ったときの深い悲しみが、彼の言葉に一層の重みを与えていた。


「お金なら、いくらでも払います」


「金の問題ではない」


「わたしは全てを失ったのです」


 男は叫ぶようにいった。どうしてわかってくれないのか。魂からの叫びだった。

 しかし老人は、静かに首を横にふった。

 老人の手の中で、子猫は気持ち良さそうに喉をごろごろと鳴らした。

 その声を最後に、薄暗い部屋のなかに、沈黙が訪れた。

 男は目元を抑えながら、肩を震わせて涙を流し、側に控える若人たちは、微動だにしない。

 やがて、男が失意の沼に沈みきり、頬の涙が乾いた頃合いを見計らって、老人は口を開いた。


「少しは落ち着いたようだね。

 いま一度、素直な心持ちで、己の行動を見直しなさい。我らが救い主は、いつもあなたを見ておられます」


 男は老人を見つめた。老いた皺と濁った灰色の瞳の中から、彼の真意を必死に読み取ろうとした。

 老人のまとう、人を安心させるような雰囲気の中からは、男の望むようなほの暗い感情を感じることはできなかった。


 子猫が、にゃーごと鳴いた。


 突然の訪問と、時間をとっていただいた旨の感謝の言葉を老人につげ、彼は立ち上がる。

 せめて、未練や後悔を悟られぬよう努める事が、男の最期の矜持だった。

 彼の足元に、子猫がじゃれついた。

 いつのまにか子猫は老人の手を飛び出し、男こそが新しい遊び相手だと言わんばかりの勢いで男の足元をぐるぐるとまわった。

 男はしゃがみこみ、手の甲を近づける。子猫は興味津津に鼻を近づけ、味見でもするかのように舌でちろりと舐める。

 悲痛な感情しか浮かんでいなかった男の表情に、微かな笑みが浮かぶ。

 男は少しだけ、笑うことを思い出した。


 そうかもしれない。

 復讐を願うのは間違っているのだ。

 愛娘たちを失った激情に駆られて、身を持ち崩すか、それでも他者への友愛を受け入れるかを。

 

 自分は、他人に恥ずかしくない行いをしなければならぬ。

 自分自身のこれからのためにも、一足はやく楽園へ旅立ってしまった娘たちのためにも。

 自分は、誇りある人生を全うせねばならない。

 今すぐには難しい。

 今も、憎しみというどす黒い炎は、自分の胸の内にくすぶっている。

 炎は、生きている限り、消えることはないだろう。けれど、決して燃え上がらせてはならないのだ……。


 そんな彼の心情を察するように、老人は静かな声で問いかけた。


「ところで、悪魔がいる、という告発は大変に興味深いものです。

 もう少しばかり、詳しいことを話してはもらえませんかな」


 老人は、男の決意をあざ笑うかのごとく、彼の黒い炎に火を注いだのだった。




「勉強させていただきました」


 歓談の後に、部屋の端に控えていた若人、ディンが老人に話しかけた。


「何を学んだのかね」


「人の心の脆さと儚さをを」


 老人は、厚い眉を片方だけ動かしてみせた。


「物騒なもの言いはよしなさい。いったいわたしが何をしたと?」


「取り立ててなにも。

 ですが、気がついたときには、あの男性は、自分では引き返せないところまで話を進めてしまっていました」


「あの者には、家族を失った悲しみを癒す助けが必要だ。そのために必要であろうことを、彼自身が気づけるよう手を貸したにすぎんよ」


「彼の苦痛が癒されることで、幸福が最大化されるのであれば、それはとても大切なことだと思います」


 ディンの言葉に、老人は嬉しそうにうなづいた。


「そうだとも。ブラジウスの掲げる最大多数の最大幸福の実現に、わずかではあるかもしれんが確実に近くことができた。ありがたいことに」


「ひとの心に、とても敏感でいらっしゃる。だからこそ、皆、あなたを求めるのです。はやく先生のようになりたいものです」


「ここまでくるのに二十年かかった。せいぜい励め、若人よ」


「はい」


 ディンは素直にうなづいた。


「ひとつ、ご報告があります。私もついに、奴隷を買うことができました」


「ブラジウスの自由民たるもの、人の扱いを学ぶことこそが、権利であり義務でもある。お前も、やっと自由人としての第一歩を踏み出したか」


 老人はしみじみといった。


「なかなかに、生活が快適になりました。金で時間を買う、ということを学んでいるところです」


 ディンは、先日からあったことを手短に伝えた。

 朝食をつくる手間がなくなったこと。

 その時間で、読書に勤しむことができるようになったこと。

 部屋が片付き、想像以上に快適な生活が送れるようになったこと。

 それから、言葉を交わしているうちに、思考が整理されていくこと。それらの未知の体験が、今なお絶えることなく続いていること。


「他者といることは、自分に刺激を与えることになるようです。今は、毎日が気づきの連続です」


「夜の生活もかね」


「いやですよ、先生」


「男たるもの、女を喜ばせる術のひとつやふたつは知らんとな」


 そういって老人はくつくつと笑う。ディンも曖昧な笑みを浮かべた。


「ですが、家に帰ってとき、明かりがついているのはいいですね。

 暗い部屋に変えるときとはまるで違う。

 皆が妻をめとり身を固める理由が、やっとわかりました」


 そうであろうとも、と老人は首肯する。


「だがな、奴隷に惚れた腫れたはやめておけ。

 奴隷は、いついかなるときでも、金に換金可能な資産として扱わねばならん。

 この点を重々承知して、彼らと接せねばならん。

 そこに私情はいらんのだ。

 信頼などというたわごとも。

 豊かさには、奪われるという危険がつきまとう。

 奴隷を持つということは、豊かさを手にすることと同義だ。

 その事実を十分に自覚し、守るための備えが不可欠だ。

 それをおこたったとき、手痛い対価を支払うことになろう」


「はい、先生」


 ディンは、先ほどの男を思い出しながら頷いた。彼のようにならないためにも、自分はもっと学ばねばならない。


「では、持てる者の義務を果たしに行くとしよう。今日は三番地区だ」


 そういって、老人は立ち上がった。

 彼の足元に、どこかで戯れていた子猫が舞い戻ってきた。

 老人は身をかがめ、子猫を抱き上げた。

 老人のその体躯は、およそ灰色がかった髪の色や、顔に刻まれた深いしわからは想像できないほど、そびえ立つようにがっしりしていた。

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