07 「宝の山、ですか」
「宝の山、ですか」
アシャは、淡々とした口調で尋ねた。
彼女は尋ねている、というより自分に言い聞かせているようだった。
「そうだ。俺の財産だ」
強い口調で、ディンはうなずいた。
「タカラのヤマ、ですか」
アシャはうず高く積まれたそれらに目を丸くしながら、自分を納得させるように繰り返した。
二人が居るのは、ディンの執務室とも呼ぶべき小さな部屋だった。
真っ先に目につくのは、本の山である。
床にところ狭しと積み上げられた山がいくつもあり、まっすぐに歩くことができない状態だった。
部屋の中央を占拠している木製のテーブルの上にも、書類が散乱している。
短長異なる使いかけのロウソクも、いくつも転がっているありさまで、なかには、ロウソクの炎を近づけすぎてしまったために黒く焦げてしまった書類もあった。
「活版印刷は偉大だ。
俺たちは、いくつもの情報に触れることができるようになった。
もはや、無知は罪とも言っても過言ではないね」
ディンは、少しばかり誇らしげにいった。
書籍が溢れかえって足の踏み場もない部屋が、どうやら彼にとって誇るべきことらしい。
ひとの叡智を振り絞って書かれたもので、値段がつけられないほどだとか、売ればひと財産になるとか。
アシャは、相槌をうつべきかどうか迷い、それから、勉強熱心なんですね、というに留めた。
そして、自分の主人に合わせて常識を書き換えようとして、理性が拒否していることに気がついて、あることを決意した。
それから数日。
開け放たれた窓から流れ込んでくる風が、ディンの頬をなでた。
風の心地よさとくすぐったさとを感じながら、ディンはゆっくりと目を覚ました。
初々しい木々の薫りがするのは、気のせいだろうか。
鮮やかな深い青い空の色が、目に染みた。
窓から見下ろした歩道の脇の、木樽に植えられた花々は常春を謳歌せんとばかりに咲き誇っている。
生きとし生けるもの芳しさは、まるで高級な香水のようにかぐわしい。
ディンは胸いっぱいに新鮮な空気をすいこみ、気持ちよく伸びをした。
窓からは、陽の光がさんさんと差し込んでいる。
部屋全体が、喜びに満ちている。
もう何年も陽の光にあたっていなかった椅子や机やロウソク台や、その他あらゆるものが、朝を歓迎していた。その喜びはディン自身も例外ではなく、常にじっとりしと湿った部屋とは違い、癒やされるような心地よさだった。
ベッドから足をおろし、立ち上がろうとして、ふと思い至る。
俺の部屋にあつらえた寝床から、素直に足をおろせることなんてあっただだろうか、と。
「おはようございます」
「ああ、おはよう、アシャ。ちょっとお願いしたいことがあって」
ディンはもう一度、かぐわしい薫りのする空気を味わうように深呼吸し、気持ちを落ち着けていった。
普段感じたことのない快適さが、己の夢でしかなかったことを投げきながら。
「起きるのを手伝ってくれないだろうか」
アシャは、目をしばたたかせ、愛らしく首を傾げてみせる。
主人は何をいっているのだろうか、と。
つかの間ディンの顔を見やり、少しばかり対応を考え、それからいつものように変わらぬ表情で、はあ、と答えた。
「そうだよな、俺の何をいっているのやら」
ディンは、照れるように頭をかいた。どうやら、答えられないのが正解のようだ、と察したアシャは、疑問をそっと思考の隅に追いやり、本来の業務に立ち戻る。
「朝食をお持ちしました」
アシャはそういいながら、いろいろと並べ始める。
先ほど焼き上がったような、温かく柔らかいパン。
芳醇な薫りをたたえたハチミツに、ゆでた卵。
ディンは舌鼓をうちつつ、せっせと食事を口に運ぶ。
ひとしきり食べ終えたところに、側で控えていたアシャが、程よい苦味の紅茶を注ぐ。
なんという、至れり尽くせりの空間であろうか。
満足したディンは、ふと、思う。
「俺はいつまで夢をみているんだろうか」
素朴な疑問であった。
今日のという日の目覚めは、この家に越してきて、はじめて体験した心地よさである。
それは、締めきった窓と、足の踏み場のないほどに積まれた本の山と、万年床のディンの寝室兼書斎では、決して体感し得ない快適さなのだ。
故に、今は夢の続きなのだと、ディンは断じる。というより、そうであって欲しかった。
アシャはいった。
「あまりにも散らかっていましたので、勝手ながら、整理させていただきました」
感情のこもらない声音で、無情な現実を、ディンに突きつけた。
アシャの言葉に、ディンの夢見心地な浮ついた感覚は、四散した。
「捨てたのか」
「いいえ。ただ、整理をしただけです」
「整理だって!」
ディン叫んだ。怒りと悲しみとがないまぜになった、心からの叫びだった。
「あれは管理された混沌なんだ。
俺はどこに何が積まれているか、全て把握している。利便性と煩雑さの均衡を見極めた、管理された混沌とでも形容すべき本の山々なんだ。
元来、破壊的革新とでも言うべき躍進は無秩序の中から忽然と姿をあらわすもので、整然とした環境から湧き上がるものではなくカオス的煩雑さのなかから、突如として浮かびあがる類のものなんだ。
その環境を作り上げるべく、日々苦心していた俺の芸術的環境を、君、整理した、だって?」
「申し訳ございません」
静かに頭を下げるアシャ。淡々とした口調には、謝罪の意志も申し訳無さも、一切がこもっていないようにディンには感じられた。
自分が苦心して作り上げた世界を尊重されず、淡々と処理されるたという事実。
あるいは、自分の大切にしていたものをないがしろにされたという怒り。
ディンは思わず腕を振り上げた。
反射的に、アシャは身を固くした。髪がさらりとこぼれ、白いうなじとがあらわになり、同時に痛々しい首輪の跡がむき出しになった。
腫れは幾分引いたものの、まだくっきりと残る調教の後を目にした途端、ディンは自分のなかで荒れ狂っていた怒りの感情が、みるみるしぼんていくのを感じた。
代わりに湧き上がってくるのは、後悔の念。
確かに、本を好き勝手に扱われたことは悔しいし、不快だ。今まで誰も足を踏み入れたことのない、自分だけの聖域なのだから、なおさらだ。
でもそれは、彼女に手をあげるほどのことなのだろうか。
本がどのようにより分けられたかはともかく、彼女なりの善意で動いてくれたであろうことは事実なのだ。
まだ、体力も満足に戻ってはいないというのに。
単純なことで怒りを爆発させる自分をみて、彼女はどう思っただろうか。
情けない主人だと、がっかりしたのではないだろうか。
実のところ、ディンは、自分自身の後悔の念は、見当違いであることには気づいていた。
彼女はディンにとって、金をだして買っただけのものに過ぎない。
ディンは主人で、彼女は奴隷である。
主人には、奴隷の感情はもとより、生殺与奪の権利すら、教会から認めら得ている。
だというのに、ディンには、利害関係で割り切ることに、言い表せない戸惑いがあった。
「いや、謝罪より、俺の本はどこへいったんだい?」
迷いを振りはらうように、ディンはいった。
こちらへ、と彼女は言うと、部屋を出ていく。
彼女の顔からは、ディンはどんな表情も読み取ることはできなかった。
三階へと続く階段を登り、彼女の部屋を過ぎて更に、上へ。
ディンの住まう借家は縦に長く、一階から五階までが、彼の自由になる空間である。
一階は居間、二階で書斎兼寝室とし、三階をアシャに貸し与えていた。
話だけをきくと大した物件に住んでいるように思われるが、廊下も階段も人がやっと一人通れるくらいの広さしかない。
アリの巣とまで揶揄される、建物の隙と隙を埋めるように建てられた、ブラジウスではありふれた安普請である。
アシャは杖を突きつつも、迷いなく四階への階段を登っていく。
その足取りと裏腹に、ディンの心には、再び後悔の念が広がりつつあった。
今度は、彼女にではなく、愛読していた本たちにである。
三階より上に、彼は足を踏み入れたことはない。
それは単に、三階より先は、乱雑に押し込められた家具の山が邪魔をして、上に進めなかったからに他ならない。
数日まえから、少しずつアシャが片付けてくれていたのは知っている。
病み上がりの彼女には必要な運動だと考えていたディンは、別段気にもとめていなかった。
しかし、そうはいっても、瓦礫のの奥にあった、長らく人が足を踏み入れなかった部屋である。
埃は積もりにつもり、あちこちにクモの巣がかかり、ネズミが我が物顔で走り回っているような部屋であろう。
そんな場所に、価値ある知識の山を放り込むだなんて。
そして、はたと気づく。今までの俺の書斎と、何か変わるところはあっただろうか、と。
すると、またしても、後悔の念は見当違いの感情であったことがするりと理解できた。
彼を先導するアシャは、肩で息をしている。
今の彼女の体力では、急な階段を登るのはつらかろう。それも、一夜にしてディンの部屋を片付けてくれたのだ。
きっと、いや、ほぼ間違いなく、彼女はて休んではいまい。
彼女が来てから、ずっと振り回されっぱなしであることに気づき、ディンは苦笑した。
他者との生活は、一晩やそこらでは、うまくいかないもののようだ。
それにしても、己の眠りのなんと深いことか……。
扉をあけ、入室をうがながす彼女の目元には、確かな疲労の影が読み取れた。
ディンは、思わず彼女の頭をなでたくなる衝動に駆られた。
すんでのところで押し殺し、扉をくぐった。
そして、目前に広がる部屋の様相に、圧倒された。
ディンが半生をかけて収集した本たちが、一冊一冊、その背表紙を誇らしげに輝かせながらずらりと並んでいた。
それらは部屋に合うようにあつらえられた、調度品のようで、図書館の持つ厳粛かつ荘厳な雰囲気をたたえている。
「君は、家事の天才か」
ディンは、熱にうかされたような口調でいった。
「経験の為せる技です」
アシャは恐縮です、とばかりに頭を下げる。
ディンは並べれた本を順番にながめ、それらの本が明らかな秩序を持っていることに気がついた。
「アシャ、君は字がよめるんだな」
「少しですが」
「古語もか?」
アシャが首肯する。
ディンは舌を巻いた。
彼の所蔵する書の中には、かつて、ブラジウスの地で栄華を極めたアテイナ人の言葉で綴られたものも存在した。ブラジウスが協商の中心として成功しているのは、巡礼の地であることの他に、教会がアテイナ人が発見した航海術や建築を秘蔵、独占していることも理由のひとつになっていた。
「なぜ言わなかったんだ? 文字が読めて古語がわかるなら、君の扱いは格段に良いものになったはずだ」
「そうかもしれませんね」
アシャは淡々と答えた。感情のこもらないその声音は、自分の扱いに、さらには自分の生き死に、まるで興味がないかのようだ。
どんな経験をしたのだろう?
なにをすれば、そんなに自分に無関心になれるのだろう?
しかしディンにはまだ、彼女の身の上を尋ねるだけの勇気がなかった。
「これはなんと書いてあるか、わかるかい?」
ディンは、何気なく尋ねてみた。
「神学的宇宙観に関する諸原理、でしょうか」
「これは」
「星界の使者、ではないかと」
「これはどうだ」
「渦動力宇宙論と、労働資本の本質、と」
「わかるのか」
「読めることと、理解することは違いますよ」
アシャはわずかに首をかしげていう。
「そう、だな」
ディンは曖昧にうなずいた。
そもそもの話、古語ですら、習得に半生をかけたといっても過言ではない知識である。
そんな古語の、下手をすれば自分ですらうまく発音できない文字を、すらすらと読み上げる。
明らかに、彼女はわかっていた。
少なくとも、題名から類推できる範囲までは。
自分の常識が崩れていく感覚、自分の常識では測れない何かが、目の前に存在しているような感覚。
それは恐怖か、歓喜の感情か。
いずれにせよ、ディンは震えを抑えられない。
「ずいぶんと、神に関する書籍が多いようですね」
今度はアシャが尋ねてきた。
「同じ神について書いていても、ひとによって重きを置くところが違うからね。異なる視点は、数多の気づきを与えてくれる」
「なるほど」
「より多くの書に触れ、より多くの解釈を得て、知見を深めるのさ。
本を読み先人の思考に触れるたびに、俺ひとりの発見など大したことはないと思い知らされる。
だから、いつか、誰もが感動するような知識を探し出し、我が物としてみせるのさ」
「あなた自身の考えをつくるのではなく?」
「個人の経験など、しれているさ。時間の試練に打ち勝った知識こそが、本当の武器になる」
鐘の音がなった。
街全体が、目覚める時間だ。
ディンは慌てて上着を羽織り、帽子をかぶる。
それから一呼吸おいて、裏戸をあけて駆け出そうとして、驚かされた。
本の如く積まれてた瓦礫の山に。
女手一つでよく運べたと関心するほどの。
「片付けご苦労。アシャ。今日はちゃんと寝ておきなね。ひどい顔だよ」
「早く手入れしてあげたかったのです」
何を、と問う彼をみて、アシャは付け加えるようにいった。
「宝物だ、とお聞きしましたので」