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06 「君、名前は?」

 ディンたちは、市場を通り抜けて、丘を登った。

 細い一本道の行き止まりには、岬に建てられた朽ち果てた東屋の名残だった。

 大理石で作られていたそれは、屋根が崩れ、柱も倒れ、備え付けてあった丸卓もそのまわりの椅子も、風化してまるくなっている。


 ディンはざっと砂埃をはらうと、彼女を座らせた。

 岬からは、街全体が見渡せた。

 ブラジウスは、海と山の街だ。

 見事なまでに丸く縁取られた海と、港と、それらを囲むようにそびえ立つ山々がみえた。


 港では、子どものおもちゃのように小さく見える船舶がいくつも立ち並び、浅黒い肌をした奴隷や水夫たちが、荷の積み下ろしをしている。

 積み木を敷き詰めたような、赤い屋根をもつ家々がずらりとならび、港から伸びた無数の道の脇を固めている。


 港から伸びる、長く白い道が、街の中に一本の線を引いていた。


 その道は、ほとんど曲がることなく内陸への伸びており、先端は、山の中腹あたりにそびえ立つ巨大な大聖堂の前まで引かれていた。


 教会が誇る、ブラジウス大聖堂である。


 当代一といわれた職人が手がけたステンドグラスが陽の光を受けて、巡礼の使徒を歓迎するかのように照らしていた。


「この景色がすきなんだ」


 ディンは、ぽつりといった。


「信仰を具現化する、神の子の叡智の結晶。

 これまでに二百年。これから百年かけて完成される。

 天に向かってそびえ立つ尖塔の数々。 我が都市ブラジウスの繁栄は、神への信仰の勝利だ」


 それは、街の者が好んで使う、決まり文句だった。

 旅人であれ、教会の者であれ、商人であれ、ブラジウスに来たものは誰もが耳にする。

 そして、彼らは各地で同じ言葉でもって語られ、ブラジウスはやがて神と繁栄の街とみなされ、人が集まってくる。人が集まれば富があつまり、その富を使って、さらに街は栄えていく。


 ディンたちが目にする街の光景は、言葉のもたらした富の循環が、ゆうに四百年は積み重なった姿だった。


「この街をみて、どう思った」


 彼女がが、ディンをちらりと見た。ディンの真意はどこにあるのか、はかりかねているようだった。


「正直にいっていいよ」


 ディンは再度尋ねた。

 彼の目は、海を向いていた。

 声音は静かだった。

 彼女は目を伏せ、しばらく宙に視線をさまよわせ、やがて視線をあげていった。


「神は死んだ、と」


「うまい表現をつかうね、そうか、神は死んだのか」


 ディンは微かに笑った。


「この街はね、人と富が集まったからこそ繁栄できた。

 でも、栄えるために集まったお金は、お金を上手に扱える人のところに集まってしまうんだ。

 すると、お金の扱いが上手なひとのもとに、たくさんの人が集まり、徐々にひとを従えるようになる。

 お金持ちはいつしか、他人の力を使って、さらにお金持ちになっていく。


 このブラジウスは、たくさんの人が稼いだお金に支えられて、大きくなってきた。

 でもそれは、お金を持つものと持たないものの格差を生むことにもなってしまったんだ」


 ディンの語る口調は、心なし震えていた。

 彼女は、ただじっと耳をすませていた。


「この街は、どうしようもない矛盾をはらんでいる。

 富が足りない。

 富がもたらす幸福の量が足りない。

 決定的に。

 これが諸悪の根源だ。

 貧困にあえぐ人を救えないでいる。

 これが、どうしようもない現実だ。

 だけど、これだけはわかってほしい。このままでは行けないと思う人間が、確かにいるということを。


 教会は、変わらなければならない。

 過去の成功体験を断ち切り、人びとの幸福を目指さなければ、社会を牛耳る怪物に成り果ててしまう。

 

 ブラジウス教会は、ひとりの乙女の純粋な祈りから生まれたんだ。

 誰もが幸せであることを願い、誰もが夢を語れる、太平の世の中でありますように。甘くて子どもじみた、されど純粋な願い。

 できるかどうかじゃない。

 やるんだ。俺は、この国を変える。

 教会の階段を駆け上って、教会の獲得した力で持って、誰よりもうまく人を導いて見せる」


 ディンは彼女を見つめた。

 少しだけ、強張った彼女の顔をみて、早まったことをしたかもしれないと、不安になった。

 まだ、出会って間もないなかで、社会の仕組みを変えたいと豪語したところで、なんの実績も持たぬ若造なのだ。


 ましてや、彼女と自分との縁は、金だけでつながったものであるのだから。

 独りよがりの、そんな想いが届くわけでもなかろうに。

 ディンは、自嘲気味に笑った。

 それでも、他に生き方を変えられるわけでもない。

 結局、思ったとおりの言葉を口にした。


「万能にも等しい権力を持つブラジウスでのし上がっていくのは、並大抵のことじゃない。

 俺ひとりの視点じゃ、独りよがりになる。

 全く異なる文化で生まれ、異なる価値観の中で生き、培われてきた、意見を述べてくれる仲間が欲しいんだ。

 君は今日、俺に新しい視点をくれた。


 そうか、施すだけじゃ、駄目なんだ、と。


 この気づきは、君が恵まれない子どもたちに手を差し伸べようとしたから、見つけられたことだ。

 非常に細な行いで、一時的な飢えを諌めることで精一杯で、だから、俺は全く無意味だと思っていた。

 けれど、意味がないことなんて、ないんだな」


 海からの風が、岬に吹きふきつけた。

 その風は、ディンの見たことのない、海の向こうの世界から吹いてきたものだ。

 潮の薫りに混じって、微かに砂の薫りがした。

 海の向こうに、何があるんだろう。この海を意に沿わずとも、渡ってきた、目の前の女性は、いったい何をみてきたのだろう。


 ディンは、彼女を見つめた。

 つかの間、視線が交差する。

 深い憂いをたたえた、紫がかった瞳。奴隷市で垣間見えた、生来の彼女の命の煌めきを宿すことのできる、瞳。


 いつのまにか、ディンの胸が高鳴っている。

 夢を語ってしまったことに対する緊張からかだと、ディンは考えることにした。


「俺ひとりの手じゃ、この街は変えられない。

 力と経験も、知識も仲間も、圧倒的に足りない。なにより、俺ひとりの視点で、誰もが求める幸福を見つけ出すのは不可能だ。

 だから」


 彼女に手の手のひらを差し出しながらいった。


「君にも手伝って欲しいんだ」


 彼女は、ディンの手のひらを見て、それからディンの瞳をみた。

 ずっと、言葉もなく、眺めていた。


「子どもっぽいかな。

 でも、君は俺に買われたんだから、少しくらい俺の力になってくれたっていいじゃないか」


 沈黙にいたたまれなくなって、ディンはこぼした。

 手を引っ込めてしまいたくなったが、それはそれで恥ずかしい。

 もう一方の手で、困ったように頭をかいた。


「君が何者だって、何ができるかなんて、俺は求めていない。

 ただ、ここ以外の場所を旅してきた君であれば、きっと俺が想像だにしたことのないものを見聞きしてきたはずなんだ。

 それを教えてくれれば、とても助かるんだけど……」


 ディンは、いよいよ消え入りそうな声になっていた。

 もうすこしで震えだしてしまいそうなそのとき、彼女の手がおずおずと彼の手に触れた。


 はっと弾かれたように、ディンは顔をあげる。

 無表情だった彼女の瞳が、かすかに揺らいでいた。

 それは、いたずらが成功したときの子どものように、少しいたずらっぽく、すこしだけ誇らしげだった。

 微かに口元をほころばせてもいた。

 彼女が表情をみせてくれたことが、ディンにはたまらなく嬉しかった。


「やっと笑った。やっぱり、笑えるんじゃないか。君、名前は?」


「アシャ、と」


 アシャそういうと、おずおずと手を差し出した。

 ディンは、アシャの手を強く握りしめた。


「ディン。ディン・ベヘディン。俺の名前だ。よろしく、アシャ」

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