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05 「……お花はいりませんか」

 なんという好天気だろう。


 広場のひとびとの往来をぼんやりと眺めた後、眼を空にむけ、ディンは今という時間を噛み締めていた。 

 空は雲ひとつなく澄みわたり、青さが目に突き刺さってくるようだった。


 今夜はきっと、満月だ。

 晴天だし、夜でもきっと明るく、星明りが綺麗がさぞきれいなことだろう。


 ブラジウスは、誰に対しても自由である。

 見知らぬひと同士が、唯一神の神の元へ集い、同じ屋根の下で祈りを捧げる。

 だから、ディンの連れた少女が少々痩せ過ぎていたとしても、誰も白い目を向けはしない。


 服を買い、二人でそこそこ美味しいものを食べ、いまは見るともなく広場をながめ、買い物客や通行人を物色している。


 隣に座る彼女に視線をむけた。

 心なしか、頬に赤みが戻ってきた彼女。

 飢餓状態があまりにも長く続いていたせいか、あるいは単に病み上がりのせいか、まだまだ食が細いようで、食べ残したパンを包んでもらったくらいだけれど。


 ディンは、自分の買い物に満足していた。

 これまで、一度だって、女性を連れ立って街に繰り出したことはない。

 そんなとき、恋仲と思しき若い男女とすれ違おうものなら、所構わず当たり散らしたくなったものだ。


 しかし、今は、これまでにないほど寛大になれそうな気がした。

 むしろ、誰かれ構わず、祝福したいくらいである。

 心をすり減らす日常の業務にだって、喜んで貢献できそうだ。

 いつもの変わらないはずの街が、不思議と輝いてみえた。


 そんな浮かれた様子だったディンも、傍らの少女がほとんど固まったまま、何かを食い入るように見つめているとすれば、違和感に気づかないわけがない。


 ディンもつられて視線をたどる。 

 彼女の視線は、軒先の、階段の影になったところに向けられていた。

 そこには、四つか五つくらいの男の子と、ふくらんだ帽子をかぶった十くらいの女の子が座りこんでいた。

 髪はぼさぼさで、全身は垢にまみれ、衣服もみすぼらしい。

 女の子は放心したような眼で行き交う人々を眺めており、ぼんやりした男の子の代わりに女の子が、険しい眼つきであたりを警戒していた。


 ディンが、傍らの少女に視線を戻す。

 彼女は、いつのまにかディンを熱心に見つめていた。

 何事かわからず固まっていると、彼女はおもむろに立ち上がる。

 そして、彼らの前まで歩いていくと、杖に寄りかかりながら、懐から包みをとりだした。

 片方の手と口で器用に包みを開く。

 まだ温かなパンが顔をのぞかせた。

 彼女はそのパンの包みを、そっと彼らの前に差し出した。


「これを」


 二人の子どもは、しばし視線をさまよわせた。

 食料を差し出す、やせ細った奇妙な女性と、暖かなパンと、歩みを止めず関心も払わず行き交う人々をみた。


 腹がなる音がした。

 男の子のほうが、恐るおそる手を差し伸ばす。

 さあ、と彼女はうながした。

 もう少しで、というところで、女の子が動いた。

 少年の手はぱっと掴むと、自分より一回りは大きい彼女を睨みつけていった。


「いこう」


 女の子の手を引き、店の裏手の、仄暗い通りへと駆けていく。

 彼女は、パンの包みを大事そうに懐にしまうと、子どもたちの後を追った。




 ナキアミ地区と呼ばれるその通りは、内部の路地は暗くて、細い。

 高く、さらに高くと積み上げられた建物が、所狭しと立ち並び、お互いがお互いを支えるようにもたれかかっている。

 先ほどの市場からは、開放的に見えた建屋の裏側は、街の実生活を表しているようだった。


 ここでも彼女は、杖をつき、ゆっくりと歩いていく。


 市場と違うのは、彼女にぶつかるような者は、誰もいなかったということ。


 代わりに、通りの視線という視線が、ディンや彼女にに集まっているようだった。

 誰も、彼らに視線を合わせることはない。しかし、通りのものは誰もが、視界の端に彼らを捉えているようである。


 値踏みするのは、路地に溢れた浮浪者たちだ。

 歯が一本もない老人。

 右腕の肘から先がない少年。

 裸で土下座する女。

 泥とも見紛う濁った水たまりの中で、絶えず手を洗う奇妙な少年……。


 唐突に服を引かれて、ディンは振り返った。

 目だけが異常に大きな女の子だった。

 ディンより、頭ひとつ低い。場違いに小奇麗な手でディンを捕まえて、ためらいがちに言った。


「……お花はいりませんか」


 細く、妙に長く感じられる両の手足。

 振り払えば、簡単に手折れてしまいそうだった。

 ぶかぶかで、擦り切れた長衣をまとい、腰のあたりを紐で軽く結っていた。


 彼女は、ディンの視線を認めると、ぎこちない笑みを浮かべた。

 上も下も、前歯が抜けている。

 生え変わっている途中なのだろう。

 

 彼女は、手になにも持ってはいない。

 売りものらしき花も、花を愛らしく見せる小籠も、持ってはいなかった。

 ディンがいぶかしげに見返すと、女の子はもう一度いった。


「お花は、いりませんか」


 そういって女の子が腰のあたりに手をやった。紐の先端をまさぐっている。引いてしまえば、簡単に服は脱げてしまえそうな……。


「十」

 少女は両手を広げていう。

 おそらくは、銅貨十枚。

 それが九になり八になり、しまいには二になった。

 

 昼食のパンケーキの半分の値段だった。

 唐突に、ディンは彼女が売っているものを理解した。


「ありがとう、また今度ね」


 それだけいうと、裾をひったくるように引っ張った。

 声が裏返っていたかもしれない。

 かまうものか。

 だまって連れの後を追う。

 彼女は、早くはないが、さりとてためらうこともなく、黙々と歩みを進めていた。

 彼が追いついたちょうどそのとき、彼女が立ち止まった。

 先ほどの姉弟たちが、座り込んでいるのを見つけたからだった。


 彼女は改めて、懐から包みを取り出した。

 小さな女の子に渡そうとすると、再び、男の子に手とパンを払われた。


「私たちに施しは結構よ。わたしたちはノマドじゃないんだから」


 いきり立った声でそういうと、出て行けと言わんばかりに表通りを指し示した。

 泥の上に転がったパンのかけらに、道端の物乞いたちが群がっていた。




 ディンたちは、黙って、人々の波に戻っていく。

 帰路の途中、通りに面した工事現場で、式典のようなものが行われているのをみつけて、二人は歩みをとめた。


 起工式だよ、とディンは少女に耳打ちする。

 より多くの信者を迎え入れるために、聖堂を拡張するんだ。

 工事の安全を祈願する祈る厳かな声。かと思えば、華やかな音楽が奏でられる。


 式典が終わり、参加者全員に薄いワインとパンが配られた。

 ディンの姿を認め、気のいい若い技師がパンを持ってこようとする。

 

 ディンは彼の好意に感謝を示しつつ、丁寧に断った。

 先ほどお昼を食べたばかりだから、と。

 

 その様子を、式典に参加した十数人の工事人夫たちが、じっとうらめしそうにみつめていた。

 まだ十分にパンは余っているのに、実際の工事の担い手たちに、パンのひとかけらも配られることはない。

 彼らの肌は、身なりの良いものたちより、少しだけ、浅黒かった。

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