49 「お代はすでに頂いております」
師が、射抜くような鋭い視線をディンに向けた。
ディンは反射的に頭をさげたくなるのを、ぐっと堪えた。
理性を総動員させる。
いま、ディンとかの老人の立場は、対等なのだと。
枢機卿と助司祭でもなければ、師と弟子でもないのだと。
「聞こえますか、人々の悲鳴が。あれは、わたしとあなたの生涯を掛けた夢が、音を立てて崩れていく音です」
ディンは、己の尊厳をかき集めていった。声を震えないようにするのがやっとだった。
「ですが、あそこには確かに、あなたに救いを求めるひとが大勢います。
ここでわたしを追いかけて、多くの血を流す不幸より、今、まさに救いを求めてさまよう人びとに手を差し伸べた方が、よっぽど皆の幸福につながると思うのです」
生唾を飲み込み、師の目を正面から見返した。意思を込めて、はっきりと告げる。
「違いますか」
「そうか、貴様だな。貴様が、ずる賢い娼婦たちを使って、火をかけたのだな」
なるほど、そういうカラクリだったのか、と納得したのはディンの方である。
春を売る彼女らこそが最も、怪しまれることなく教会を歩き回れる。
密会を経験したディンには、ありありと理解できた。
だが、誰が宮殿を動かしたのか。
宮廷に通じ、反旗を翻すだけの度量をもった人間とは……。
「先生。ここが踏ん張りどころなんですよ。
先生もご存知だったはずです。富の偏りこそが、この矛盾を孕んだブラジウスなのだと。
その均衡が、いま、崩れかけているのですよ」
ディンは、無意識のうちに手を握りしめる。今こそが、見聞きしてきたことを咀嚼し、解釈し、ひとの心を動かすときなのだと、確信していたから。
「ブラジウスのそこかしこに溢れていた矛盾。
表参道の華やな人々と、裏路地の飢えた方々。
持つものはワインを片手にチーズを嗜み、持たざるものはその日のひとかけらのパンを求めてあえぐ現実。
それを是とするしかなかったブラジウス教会が、今まさに、崩れさったのです。
誰も彼も、等しく混乱しています。怯えています。
いまだからこそ、人々の心を掌握する英雄が必要なんです。
そして、それができるのは、この街で最も人脈を持ち、誰よりも将来を憂いていた。先生しかいないとわたしは確信しています。
先生だけが、この街の秩序を回復できるだけの力を持っています。
先生だけが、この街の新たな救世主になる資格があるんです」
ディンは言葉をきって、師を見つめる。
師は。しゃがれた声を張り上げた。
「貴様がそれを言うのか」
ディンは、重圧に耐えかねたように突然わめいた。
ずっと我慢していたものが、爆発したとでもいうように。
「わたしだから言うんです。
わたしはもう、この街に足を踏み入れることはありません。踏み入れることができません。
だからこそ、先生にお願いしたい。
どうぞ、わたしの失踪を、上手に使ってください」
ヴェルナーがかすれた声で嘆願する。
弱い犬ほどよく吠えるという表現が、いまの彼にはぴったりに見えた。
おかげで、枢機卿の中にあった、昏い暴力的な衝動が、徐々に和らいでゆく。
ディンは、さらに言葉を重ねる。
「先生。
陰口をささやかれようとも、治安維持に貢献できるだけの私兵を持ち続けたもはなんのためなんですか。
いま、この瞬間の為でしょう。
先生は、いままさに、神の意思を代行するための力を持っている。
神を信奉するもののつとめを果たすときでしょう。
我々は人びとの模範になることはあれど、復讐に手を貸すなど、あってはならないのでしょう」
「君は、わしに何を望んでいるのだね」
枢機卿が静かに尋ねた。
「持てるものの義務を果たしてください」
ディンは言い切った。
そして、心の中で付け加える。
わたしが捨てさる教義のなかで、あなたは生きたいのでしょう、と。
沈黙が場を支配する。
少なくとも、街の騒ぎと、波の音は聞こえているはずなのに、ディンの耳には届かない。
が、沈黙は枢機卿によって破られた。
彼は、喉笛をのけぞらせながら、しわがれた声で笑う。
「いまは引こう。だが、いずれのことはわからんぞ」
そういうと、彼はディンに背を向ける。
「諸君、撤収だ」
彼は、あっという間に部下を引き連れて去っていった。
「お見事です、ディンさん。いやはや、恐れいりましたよ」
トトノがディンに笑いかける。
先ほどまでの商談用の笑顔ではない、心から感心した笑顔だった。
「トトノ商会のところの。最後まで締まらなくてお恥ずかしいかぎりです。
しかし、もっと立場の低い方だとばかり思っていましたよ。船も任されていらっしゃるなんて」
ディンは深々と頭を下げる。
だが、彼はいまだ、トトノが主人だと気づいてはいないようだった。
アシャは、申し訳なさそうに目配せしている。
トトノは肩をすくめてみせた。この分だと、自分が女だと気づく日はこないだろうと、自嘲しながら。
「そろそろ出向しますが、思い残すことはありませんね」
トトノは尋ねる。
ディンはアシャをみて、それからしばし思いなやみ、意を決して告白する。
「お弟子さん。わたしたちにはお代が――」
ありません、とは言葉にならなかった。
正確には、トトノが口にさせなかった。
彼は手のひらでディンの言葉を制すると、懐から、とある書を取り出した。
「お代はすでに頂いております」
それは、以前、ディンと取引したゴシック建築の建設手法だった。




