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42 「この者の処刑に異議あるものは」

 快晴だった。

 暖かい太陽の光が、ブラジウス教会の尖塔を照らし出している。


 巡礼者の憧れであり、聖女への信仰の勝利であり、正義と審判の象徴が、ディンを見下ろしていた。

 かつてのそれは、いっぺんの曇りもなく、輝いて見えた。


 しかし、ブラジウスの広場から見上げたそれは、長年の風雨に晒されれ、疲れ切っているように、ディンには見えるのだった。

 ディンは、自分のために組み立てられた断頭台を仰ぎ見た。


 そして、ひとつひとつ、数を数えながら、階段を登ってゆく。十三段をのぼり、十四段目に、終着点にたどり着いた。


 ディンは、努めてしゃんと立ち、広場を見渡した。

 見物人の誰もが、ディンの些細な動きも見逃すまいと、ディンの行動を見やった。


 しかし、彼らは誰一人として、ディンのこれからに興味などなかった。

 民衆が見たいのは、血である。血がもたらす興奮である。

 哀れな死刑囚が、首を切られた瞬間にもたらす苦悶の叫びである。

 広場の誰もが、狂気に近いほどに高まった空気のなかで、ひとつ事を願っていた。


 殺せ、と。


 建屋のなかで豪勢な食卓で葡萄酒を片手に見物する富をもつ者も、あるいは、広場に押し入り処刑台のすぐ側で足を踏み鳴らしならしている貧乏人も、みな同じ感情を抱いているのだった。


 そして、処刑という祭りは、人びとを、個別の意思を持った人間ではなく、ある種の、巨大な怪物へと変貌させていた。


 ディンの顔は、険しかった。

 人びとの狂気に、改めて恐怖した。

 誰も彼も、他人に興味などないのだ。

 本来、誰もが持ち、発揮すべき思いやりが、根こそぎ奪われている。


 それは、死というものを、ひとつの喜劇に仕立て上げる者がいるからに他ならない。


 人びとを先導することの力と恐ろしさを、ディンは改めて痛感した。

 ディンの記憶によれば、ひとりの責任者が広場に詰めているはずである。

 今回の場合だと、裁判官か司祭かが刑場に立ち会っているはずである。

 彼は、ディンには見つけられないどこかに控え、処刑を見守っているはずである。


 彼は、合図の一つで、ディンに降りかかる不幸のすべてをやめさせることができるだけの権限を与えられている。

 しかし、彼らの関心は、ディンの命にないことは当然として、その場に居合わせた民衆に対してすら、興味をもってはいない。


 彼らが願うのは、人びとの幸せではなく、自らの金か、女か、立場への執着のいずれかである。

 そういう人たちのなかで仕事をしてきたのである。手に取るように理解できた。


 ひとの死を願う狂気を、幸せの一部と捉え、肯定し、推奨すらしている、この環境はおかしい。

 ひとりの人間が命を絶たれる瞬間を見物することで、人びとが狂気と歓喜に包まれ幸福の一助となるなど、あってはならないはずではないか。


 ディンは深く嘆いた。

 己の命をかけてきたものは、いったいなんであったか。

 どうしようもなく、無価値なものではなかったか。


 死を前にして、やっとディンは悟った。


 己の人生は、その場その場の綺麗なもののために、費やしてはならないのだと。


 わかりやすい、富とか名声だとか、その瞬間には優れたものであっても、それは一生の目標に掲げる値打ちはないのだと。

 真に価値のあるものとは、平生の思想や観念とはかけ離れた、死というものと向かいあったとき、初めて力を発揮する。


 それを持つか持たないかで、死の間際の感情が、なにも持たない恐怖か、あるいは、やり遂げた満足感かに分かれるのであろう。


 それが何かは、ディンには、まだ理解できずにいる。

 ただ、その鱗片を掴んではいた。


 好きという感情に、果てはないのだ。


 そして、誰かを好きになれるということは、死の恐怖に立ち向かえるだけの勇気を、その者に与えるのだ。


 他者に尽くすことではじめて、よろこびが生まれるのだ。


 不幸なことに、己には、愛を育む時間はおろか、それが相手にとっても意味あるものであるか、見極める時間すらのこされてはいないことだった。


 愛のおかげで、ディンは正しい選択をした。

 少女の罪を買い取ったことを後悔はしない。

 自分の人生に不利に働いたことは確かだったが、ディンが生まれて初めてみつけた、価値あるもののように思われた。


 ディンは愛を知った。今度はその選択を、誰からも守り通さねばならなかった。

 いま、ディンは処刑台に立っている。孤立無縁である。まもなく処刑台のつゆと消える運命にある。

 それを、アシャが見届けてさえくれれば。

 ディンは、無関心な人びとにむかって、笑みを投げかけた。


 その時、ディンは、人びとのざわめきが大きくなったことに気づいた。

 処刑執行人の入場だった。

 人びとの間をぬって、死が歩いてきた。


 血のように赤い衣を身にまとい、背丈ほどもある反りのはいった剣を背負う処刑人。赤い頭も手元も覆い隠し、目元だけが怪しく光る処刑人。


 ディンは、もう一度、微笑もうとした。

 引きつった笑みにしかならないのを自覚しながら。


 ディンを追い詰めるように、処刑台に看守が登り、ディンをひざまずかせた。

 押さえ込むように鎖を繋ぎ、ディンが身動きできないことを確認すると、彼らはディンを残して降りていく。

 代わりに処刑人が処刑台に上がり、続いて助司祭が登ってきた。


 処刑人が、流れるような動作で、鞘を抜き払った。

 陽の光を受けて、波打つ刃が怪しく光った。

 ディンは、恐怖に身体が引きつるように感じた。


 助司祭がディンの前に進み出で、手を振り上げた。

 人びとは彼の背後のブラジウスに首を垂れた。


 助司祭が、ディンを見下ろしながら、口上を述べる。 

 いかに、ディンが犯した罪が重いものであるか。

 これから行なわれる処刑は正当なものであり、囚人が罪を犯した肉体から解き放たれることが、いかに救いになるか。

 そして、最後には、お決まりの言葉で締めくくる。


「この者の処刑に異議あるものは」


 その声は、邢台の二人にしか聞こえないであろう。

 他の誰も聴こえないままに、広場の狂気は最高潮を迎える。


 はずだった。


 突如、爆音が聞こえた。皆が一斉に、振り返った。助司祭も処刑人もディンも、同じものをみた。

 ブラジウスの尖塔に、火の手が上がっていた。

 旗が揚がっていた。

 紫紺の下地に、金糸銀糸で描かれた旗だ。


「異議あり」


 旗を支えるのは、ひとりの女性。

 銀の鈴を転がすような、涼やかな響きのある声だった。

 これから行われる血の惨劇には、あまりにも場違いな声だった。



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