41 「それには及びません」
ディンは誰かが悲鳴をあげるのを聞いた。
その声の主が誰なのか気づき、なさけないやらはずかしいやらで、己が如何になさけない存在であるかを、思い知らされた。
ディンは、気丈に振る舞おうと、胸をはって立ち上がろうとしたが、足が震えてしまい、うまく立てなかった。ふらつくディンを看守のひとりが支えた。
「ありがとう」
かすれた声で、ディンが礼をいう。
声を震わせないようにするだけで精一杯だった。看守は静かに首を振るのみだった。
看守たちは、おもいがけず親切であり、己の職務に忠実でもあった。
そのやりとりのあいだに、もうひとりの看守が手際良く、ディンを後ろ手にさせて手枷をつけ、続いて足枷をつけていた。
ふたりの看守に連れられ、ディンは薄暗い地下牢を歩いていく。
得体のしれない汚物が溜まった牢獄の床を、裸足の足が、一歩いっぽ、小刻みに歩いてゆく。
両脇に並ぶ鉄格子の向こう側から、視線がディンに集まっていく。
彼らは一言も発することなく、今日は自分ではなかったと、密かに胸を撫で下ろしている。
彼らの気持ちが、ディンは痛いほどよくわかった。
なぜなら、つい先程までは、彼らと同じ、いつ刑場に引っ立てられるとも知らぬ囚人だったのだから。
鉄格子の向こう側で、不幸な死刑囚を見送っているとき、ディンは思わないでもなかった。
はやくここから出してくれ、と。
はやく、毎朝、看守が己の檻の前にたちどまらないよう祈る日々を終わらせてほしい、と。
しかし、いざ自分の番がきてみると、それがどれほど愚かな願いであったかが分かるというものである。
今や、彼我の間には、一枚の薄い布で隔てられており、その薄い布を通してみる世界は、決して、少なくとも明日を約束された者には想像しえない、灰色の情景なのだから。
いくつかの扉を、ゆっくりと潜った。
看守たちは、決してディンを乱暴に扱うことはなかったが、決して、ディンに立ち止まることを許しはしなかった。
やがて看守が立ち止まった。
足元には階段があり、目の前には鉄の重い扉があった。
その扉に、ディンは見覚えがあることに気づき、ディンはすくみあがった。
その扉の向こうがはには、もう詰所しかないのだ。
最期のときが来てしまったのだ。
その場であばれ、可能であれば逃げ出したかった。
しかし、地下牢での生活は、ディンの体力を確実にむしばんでいたし、横に控える屈強な看守ふたりの隙をつくことは、到底不可能なことだった。
だからディンは、地下牢での惨めな日々が終わりを告げるのだと、己を慰めるよりほかになかった。
はたして、地上へ続く扉は開かれた。
まばゆい光が、ディンにふりかかった。今までのすえた臭いとは異なる、さわやかな香りがした。
それは、木々のもたらす生の 香りであり、ひとが生活営むときの香りだった。
新鮮なその香りは、どんな 香水よりもかぐわしく、ディンは思い切り胸に吸い込んだ。
ディンの肌にふれる、暖かい空気。
地下での、よどんでいて、常に湿り気のある肌寒いものとは違う、癒される心地の良さだった。ディンは、世界の美しさを、まざまざと体験したのだった。
さらに廊下を進み、いくつもの角を曲がり、階段を上がり下りした。
その間に、泥と汗にまみれた汚らしい服は、清潔な白いを基調にした薄着にかわり、ざっくばらんに伸びた髪や髭は綺麗に刈りそろえられ、上着を、袖を通さずに肩からかけられていた。
なすべきことは、すっかりなされてしまっていた。
最後にディンの側に、上等な衣をまとった助司祭の青年が、聖書を片手に近寄ってきた。
「なにか、おっしゃりたいことはありますか」
その青年は、気の毒なほどに震えていた。
これから処刑されるディンの方が、同情するほどであった。受刑者の最期の懺悔を聞くのははじめてなのだろうと、ディンは察する。
昔の自分をみているようで、微笑ましく感じられる。
いつしかディンは苦笑を浮かべている自分を発見する。
「それじゃあ、俺は自分の選択に後悔はないと、伝えてくれたないかな」
「どなたにでしょう」
震えた声で、青年が尋ねた。
ディンは答えに詰まってしまった。
はたして、アシャやマキナが、最期の言葉を告げられて、喜ぶのだろうか。
むしろ、死刑囚と繋がりがあったとなると、ブラジウスでは生き辛いだろう。
死を目前に控えたひとりの男の身勝手な振る舞いが、彼女らの人生の重石になってしまうのは、ディンにとっても望まぬことである。
「シアモーション施療院にいる、女の子に」
もう十分に青かった青年の顔色が、何度も首を縦に振る。
彼の行き過ぎた緊張が、ディンの笑いを誘う。
それは、ささやかではあったが、凝り固まったディンの心を解きほぐすに足る、価値のある笑いだった。
だから、心の中で、青年に感謝の言葉をつけたした。
君のおかげで、冷静な自分を取り戻すことができた、ありがとう、と。
うら若き助司祭を見かねた看守は、助司祭から瓶を受け取ると、蓋を開け、酢に浸した布を差し出した。
「それには及びません。ありがとう」
ディンは、しゃんとした声で彼にいった。
それから一同は、馬車に乗り込んだ。
ディンは、馬に背をむけて後ろ向きに座り、となりに助司祭の青年が腰掛けた。
皆が馬車に座したその時、正午を告げる鐘の音が鳴り響いた。
両開きの重々しい扉が開かれ、外部の激しい騒音が、ディンたちを出迎えた。
ディンにとって職業柄、馴染みになりつつあった道を通り、街を一周する。
民衆が、ディンに向かって野次を飛ばしている。
憐みと蔑みと笑いと、馬車の立てる騒音が、ひとつのとどろきとなって、ディンの耳に襲い掛かった。
助司祭の青年は、何事かを呟き、ディンを力付けようとしていることはわかったが、ディンはそのどちらにも耳をかさず、ただ、過ぎゆくブラジウスの街並みを、無心で眺めていた。
やがて、馬車が広場に入場する。広場の喧騒は、波一層おおきくなった。馬車は唐突にとまり、ディンはうつむけに倒れかかった。
向かいに控えていた看守が、優しく抱きとめてくれた。
「ありがとう、アシャ」
そう礼をいってから、ディンは赤面した。アシャが側に控え得るはずがないのだ。
看守は、礼儀正しく沈黙を守っていた。
馬車の後部に梯子がかけられた。
ディンが立ち上がると、広間に武器やひとの声がないまぜになったどよめきが起こった。
ディンは看守の手を借りながら馬車を降り、足を踏みしめた。
一歩、二歩とあるき、それから覚悟をきめて振り向いた。




