40 「皆が、主役の登場を待ってるぞ」
地下牢では、淡々と時間だけが、ディンの上を通り過ぎていった。
まず、目を覚ます。
己がどこにいるかを思いだし、すぐそれを後悔する。
朝食を受け取る。食欲を無くす。
食事を下げさせる。
すぐそれを後悔する。
いやな臭いのする水差しの水を投げつける。
看守の怒声がとぶ。
すぐ行いを後悔させられる。
薄い寝具を引き裂いてみる。
すぐにそれを後悔する。
鉄格子から、くらい廊下を眺め見る。
石畳みを数えてみる。石畳みを数える。昼食を受け取る。同じことを繰り返す。
時折、来客がある。
大抵の囚人にとって、それは次なる暴力の始まりであり、恐怖の対象でった。
しかし、ディンはといえば、医師の来訪であった。
ブラジウスで彼が勝ち取った司祭という立場こそが、皮肉にもディンを理不尽な暴力から守ることになっていたのである。
そして、これからディンの、生涯をかけた舞台において、十全に効用を発揮させるためにも、ディンの見栄えには相応の注意が払われているらしかった。
それにしても、ブラジウスの手配した医師が、シアモーション施療院のマキナ医師だというのは、なんとも皮肉なことではないか!
「あれほど勧誘に応じてはくれなかったのに、どういう風の吹き回しですか?」
ディンが皮肉をいうと、マキナは肩をすくめてみせる。
「先代からずっとさ。こんな場末の地下牢に、来たがる医者がいるわけないだろう」
ディンの額の傷を縫うための道具、鉤爪のように丸まった針や腸で編んだ糸を並べながら、マキナはい答えた。
「先代から、ねえ」
「そうさ。あんたに見せてない、クソみたいなものが、あたしの立場からはよく見えるんだよ」
「すまない」
唐突にディンはいった。
「なにが」
マキナは無骨に問い返した。貴様から謝罪をうける理由などない、という意思の表明だった。
だからディンは、代わりに問うた。
施療院の分館について。
預けてしまっていた少年の容態について。
アシャの安否について。
監視されているかもしれない地下牢で、マキナが答えられるように。
「いつも通りか」
「ああ。毎日かわりない」
マキナはぶっきらぼうに答えた。
「そうか」
ディンはもう一度いった。
「そうか」
極力、ものを考えないように過ごすことを学びつつあった。
思考を挟むことは、恐怖だったからだ。
気を許すと、ディンは狂おしいほどの恐怖にさいなまれるからった。
その恐怖は、いつもディンの側にいて、起きるときも眠るときもずっと側に控えている。
ひとたびディンが心の緊張を緩めたならば、そのわずかな隙間から忍び寄り、その冷たい両の手でディンの心をわしずかみにするのだ。
すなわち。
「おまえ、変わったな」
傷口の経過を確認に来たマキナが、帰り際にそういった。ディンは力なくいった。
「かもしれない。いろいろ見えるようになってきたから」
立ち去ろうとするマキナを、ディンは呼び止めた。なにを伝えたかったのか。
「俺を、覚えていてくれ」
ディンはすがるような口調でいったのだった。
「あたしは、ひとの死に触れる仕事だ」
マキナは、ディンの元を去った。
彼女が立ち去ったあとに残ったもの。
すなわち。
外では、どれくらいときが流れたのだろう。
石のカケラで、教会の牢獄に自分の印として小さな傷跡をつける。
いい気分だった。
衛兵たちは、薄く笑うディンをみても気にも止めなかった。
「そうだな。巨大な悪魔のようだった。人の幸福を願った少女の祈りが、歪んだ形で解釈されてしまったが故の怪物だ。ひとは怪物にとりこまれ、歯車の一部となって、不幸にされていくんだ」
抜糸に来ていたマキナに、ディンは浮ついた声でいう。
「見に覚えがない罪ではずかしめをうけ、不名誉な死を迎えるのだと。そう言いたいわけか」
マキナは興味がなさそうなそぶりを隠しもしなかった。
誰が見ているともしれないこの牢獄では、それが正解だ。
彼女には、生きるためのこれからがあるのだから。
逆にディンに、残された時間は少ない。
だからこそ、触れることも平気で口にできた。
いや、口にせざるを得なかった。ほんのわずかでも、自分の生きた証を残したいと欲するために。
「俺は、俺の志のために殉ずるんだ。
俺は、初めて、ながされるでなく、自分の意識で選択した。それがこの無様な有様だとしても、俺は自分で選んだことを誇りこそすれ、間違いだったなんて思わない」
マキナは、肩をすくめていった。
「お前は、自分しかみえていない。もちろんわたしもだが」
そう言い残して、マキナは立ち去る。
鉄格子が閉じる音の後に訪れる沈黙。
沈黙は、なによりも雄弁に、ディンに告げる。
すなわち。
怖いと思うから、怖い。
つらいと思うからつらい。
どうしようもない事実を前にして絶望にうちひしがれるのは、自分が助かる道を探しているからだった。
ひとつひとつ、感情と向き合い、別れを告げていく。
感情がなくなると、自分の体が道具のように扱えるのだと教えてくれたのは、誰だっただろうか。
それでも取り乱すことなく毅然と振る舞えたのは、きっと、それの側で仕事をしていたからだ。
それの影に怯えていた彼らを励まし、力づけ、時には肩をだきながら、断頭台へと昇らせる。
ディンはずっと、彼らに寄り添っていたつもりだった。
彼らの感情の奥深いところにまで手を伸ばし、袋小路に陥ったたましいたちを元気付けてきたつもりだった。
だが、それらの励ましの類が、当人にとって、果たして救いになったことがあるのだろうかと、ディンは自問せずにはいられない。
自分自身が彼らと同じ立場になってはじめて、他者の言葉が何の癒しにも慰めにもならないことを、痛切に感じていたからだ。
己では、全く制御できず、言葉では言い連ねても永遠に表現することのできない感情の奔流。
起きているときも眠っているときも、それは自分の側に潜んでいる。ひとたび気を張っていた心が緩んだその瞬間に、それは訪れる。
途端にディンの身体は、制御不能な震えにおそわれ、眠っていれば飛び起きて叫び声をあげ、目覚めていれば、その場に崩れ落ち、両手で自分自身を強く抱き寄せて、感情を押し殺そうともがくのだ。
事がすめば、自分の肉は腐りはて、とろけ落ちて骨だけになり、その骨もやがては風化し形を保ち続けることはない。
そして塵芥のひとつになって、風に吹かれていく定めなのだ。
この世に何ひとつとして形を保ち続けるものはなく、やがてはみな、等しく、何もない存在へと成り果てる。
建物も草木も、畜生も獣も、人間も。
それはは、いずれは誰も元にもやってくるもので、それが早いか遅いかだけである。
そして、朽ちたあと塵芥は、あらゆるところからやってきた同じような塵芥が重なり、やがては何かを形作ることになるのであろう。
万物は流転するのだ。
しかして、今この瞬間に考えている、俺という存在は、どこにゆくのだろう。
教義にあった理想郷か、はたまた業火の炎に焼かれ続けるのか、はたまた、眠りのような何もないという永遠が続くのか。
その後の世界なんてものは、ひとの作り出した幻想に過ぎず、主観として一番近しいところは、目覚めることのない眠りなのだろう。
その眠りは、長く永く続き、いつしか自分の生きていた十数年という時を超え、さらに粛々と時間を積み重ねることだろう。
十年か、二十年か、百年か。
眠るから目覚めたとき、自分が時の流れから逸脱していたと感じることがある。
だから、たとえ何百年何千年と眠り続けたところで、主観として、恐ろしいと感じることはないのではなかろうか。
そんな慰めを思いついて、横になる。
が、自分のためについた嘘は、ちっとも慰めになどなりはしない。
そんなことが、あるものか。
子を成したこともなく、女性と真に繋がったこともなく、生きた証をこの世に何を刻むでもなく、ただ朽ち果てることが、許されてなるものか。
俺はまだ健康で、前向きで、力があり、何かを成しとげるだけの心意気があるというのに。
明日にでも、この首に刃物が振り下ろされることがなければ、俺には無条件に明日が続いていくというのに。
健康な若者の未来を奪うということの、なんと罪ぶかいことか。
いやだ。
助けてくれ。
誰か。
生きるためになら、なんだって差し出せる。
地位も名誉も、富も権力も、なにもかもが無価値だった。
そうだとも、あの瞬間、少女の命を哀れみ、ブラジウスにたてつくことさえしなければ。
この行き場のない恐怖に苛まれることもなかったはずなのに。
ところ構わず、叫びだせればどれほど気持ちがよいことだろう。
狂ってしまったならば、如何に心穏やかに、死を迎え入れることができただろう。
だが、ディンにはそのどちらをも選ぶことはできなかった。
なぜなら、衝動的にはいくら否定したところで、心の奥深いところで、自分の選択した行動に誤りはないのだと、確信していたからである。
自分は、誰に恥じることもなく、自分心の命ずるままに、自分の意思を貫いたのだ。
生まれてはじめて、自らの意思で選び取ったことなのだ。
その選択に、後悔などあるはずがない。
自分の選択で、ひとりの少女が明日を得たのだという、その事実だけが、ディンの怯える心に寄り添う、唯一の安らぎだった。
ディンの心が擦りきれそうになったころ、看守がおもむろに扉を開けた。
座り込んだまま、なんの表情もなく見上げるディンに、看守は告げる。
「出番だ。皆が、主役の登場を待ってるぞ」




