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39 「人助けが罪だというのですか」

「先生。どうされましたか?」


 そう尋ねたディンは突如、みぞおちに強烈な一撃をみまわれ、身体をくの字に折り曲げられた。

 立っていられず、膝から崩れ落ちると、激痛に腹を抱えた。

 息をしようと口をふるわせたところで、こめかみに一撃をもらう。


 筋肉が萎縮し、満足に呼吸ができないディンは、陸の上で溺れるという貴重な体験をさせられていた。

 痛みのせいで、身体が暴れた。

 視界がぐるぐると周り、机と椅子の足と、踏み込んできた教会の衛兵たちと、首謀者をとらえ、それから、刹那の間、アシャの姿を捉えた。


 女は恐怖に襲われたのか、大きく目を見開いたまま、ディンをみつめていた。

 ディンは、彼女の苦痛を自分自身の体で感じ取れるような気がした。


 途端に、痛みとは全く異なる別種の痛みが、ディンの身体の奥深いところから湧き上がった。

 それは、ディンはいまだかつて感じたことのない、身を切られるような苦痛だった。

 それは、自分ではない誰かが、大切な誰かが、いわれのない暴力の前に晒されていることへの恐怖だった。

 その大切な者のために、自分はなすすべもなく、指をくわえて眺めているだけの情けない人間になってしまうのではないかという事態への恐怖だった。

 一人前と自負する男が、彼女に失望されてしまうのではないかという恐怖だった。それらが意味するところは。


 ディンは考える。


 自分の中から、自分でも気付いていなかった不思議な力が湧き上がってきた。

 その力は、痛みを克服し、いわれない暴力に立ち向かい、耐えるだけの活力を、ディンに与えたのだった。

 ディンは、片膝を立てた。

 そして、震える足に鞭打ち立ち上がると、ディンは師に むきなおると、精一杯の虚勢をかき集めてにらみつけた。


 衛兵のひとりが、さらなる暴力を振るおうとディンに近づいた。


 師が咳払いをする。

 すると、衛兵たちの態度は一気に姿勢をただし、ディンに対してとはうってかわった控えめな態度で、後ろに控える。


 ディンは身体をかがめた。痛みに引きつる身体でできる精一杯の一礼だった。


「こちら、シアモーション施療院分館を任された、アシャだそうです」


 アシャは、なんの感情も浮かべないままに頭を下げた。

 師はしばし、あごもとに手をやり考える様子をみせていたが、やがてゆっくりといった。


「ディンよ。

 わたしはどうやら、少しばかり認識を正さねばならんらしい。

 わたしたちは、道を違えてしまった弟子の家に踏み込んだつもりだった。

 だが、ここは人びとに寄り添う施療院であり、わたしたちは、無遠慮に押し入る真似をしてしまっていた不届きものである。そういうことだな?」


「その通りです、先生」


 ディンは主張する。

 側にたたずむ女性は、己と利害関係を持たない人間だ、と。

 彼女は、施療院を任されるだけの技術を持ち、施療院から立場を裏づけされた人間である、と。

 言外に言わんとしていることは。

 

 彼女には手を出すな、である。


 師は、その部分だけは彼の意思を汲み取っていた。


「それでは、場所を変えねばならんな。皆のもの、彼を馬車へおつれしろ」


 ディンは、間近に控えてい二人の男に両脇を固められ、外へ連れ出される。

 背筋をぴんと張っていたのは、ディンのささやかな意地である。



 

 ディンを乗せた馬車の窓の外は、もうとっぷりと暮れていた。

 馬車にはディンのほか、両脇を固めるように座る男と、対面に師が乗り合わせている。

 師は、頬杖をついて暗闇しか見えない車窓を眺めたまま、わざとらしい口調でいう。


「悲しいことだ。わが弟子の中から道を踏み外した者が出てしまうだなんて」


 先生は、さも悲痛にくれた様子で語る。


「民衆が求める知識、経験、技術。

 それらを獲得するために費やされた資金、時間がこれまでの君を守ってきた。なにが不満だったというのだろう。

 だというのに、わたしのもとに届けられた言葉は、教会の庇護を離れたが者がいるという告発だった。なんとそれは、わたしの弟子だというではないか」


「あなたの弟子は、なんでそのような恐れ多いことを」


 ディンの精一杯の皮肉に、師は真面目に かえしてくる。


「わからん。だから、本人に聞いてみようと思うのだよ。だがまあ、そのものに同情しないでもないのだよ。夢みる若者は、時として道をあやまってしまうものだ。

 無知故に。

 誤ってしまった者には、道を示してやらねばならん。そうだろう?」


「道、ですか」


「ブラジウスの示す正義こそが、正しいみちだ。そして、我が弟子には、その果実も偉大さも、体験させてきたと思っていたのだが」


「先生。ブラジウスは間違っています。誰かの犠牲の上に成り立っている社会など、あってはならないのです」


「人間は、どこまで行っても、誰かを犠牲にせねばならん生き物なのだ。

 故に、ブラジウスは、誰が犠牲になるかを選別し、社会にとっての損失を最小限にする責任を担うに至ったのだ。

 そして、ブラジウスが選択した不幸なものを、あえて助けようとするだなどと。

 それでは、ブラジウスの創り出した安定を壊してしまう」


「人助けが罪だというのですか」


「それをこれから、ゆっくり話し合って行こうじゃないか。

 わたしとしては、君には早く、誤ちに気付いて欲しい。

 でないと……わかるね?」


 そういうと師は、意味ありげに、ディンの背後を見つめてみせた。

 ディンは憤りを感じた。

 でも、それは静かな感情だった。


 殺意という感情。

 それは、想像していていたよりもずっと、あっさありした感情だった。

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