38 「元気で」
「それで、聖女さま」
「はい」
「君は、海の向こうの世界を覚えているか?」
「もちろん」
「それじゃあ、外の世界のことを、教えて欲しい」
アシャは首肯した。
そして、懐かしそうに目を細めながら、ゆっくりと語る。
彼女らしく、はじめは固い話から始まった。
ブラジウスのような宗教や貴族が幅をきかせる国だけではない、ということ。
議会で政策を決めたり、商人が力を持つ連邦があったり、名誉と独立のために命をかけた、独立の国を旅してきたとか。
そういった教訓じみた話は、やがてアシャの出会ったありとあらゆる国に住う、興味深い人びとへと移り変わっていった。
その物語の主役は、英雄でもなく、救世主でもなく、もちろん聖女でもなかった。
議会に翻弄されながらも、ただ愛だけの為に草原を翔けた少女だとか。
行き倒れの自称大賢者を拾った、土地も家も家族も失った自称貴族のお嬢さんだとか。
三度続けてみた夢だけを根拠に、七つの海への旅を決意した、靴磨きの少年だとか。
周りといろいろと抱えているものがあり、様々なことに苦悶しながらも、人生を謳歌しようともがく、普通の人びとの話だった。
もちろん中には、創作だとしか思えない話もいくらかあったのだけれど。
例えば、殺しを家業に生きるしかなかった侍に、情けぶかさだけで拾われてやる東方の小鬼だとか。
今はなき主人を待ち続ける、不思議な鉱石で動く機械巨人だとか。
冴えない行商人が辛うじて買い付けた少女が実は、人間が好きで好きでたまらない伝説のドラゴンだったとか。
アシャの語る彼らは、どんな人たちよりも生き生きと輝いて聞こえた。
その根底にあるのは、どんな境遇であれ、己の信ずることをしろ、ということ。
そのためにやるべきことは、前を向いて、自分の足であるくことなのだと。
たくさん失敗して、たくさん落ち込んで、それでも無意味でも無価値でも無駄でもなく、失敗にすら意味があるんだと、彼女は雄弁に語っていたのだ。
「君の人生は、旅の連続だったんだね」
「いいえ。冒険の連続でした」
「冒険、か。いいね。わるくない。ドラゴンにも会えるものなら、会ってみたいな」
ディンが笑うと、アシャはなぜだか得意そうにいうのだった。
「現実は小説よりも奇々怪界です」
「それはどこの国のいいまわしだい」
「冒険をすればわかるかもしれませんね」
「君のべらぼうな知識も、はてなき冒険の果てに学んだのかい」
彼女の成した事に想いを馳せながら、ディンは尋ねる。
アシャは、少しだけ首を傾けていう。
「数字遊びは単なる趣味です」
彼女の口調はいつになく優しく柔らかく、弾んでいた。
生き生きと、まではいかなくとも、彼女の心は、かつてない喜びに満ちている。
ディンは思う。どういう理由であれ、彼女はひとつのところに留めるのは間違っていたのだと。
「君は、自由になったら、また冒険にでるのだろうね」
「そうですね。
主人さまも、もうすこし、自分の手で世界に触れたほうが良いと思います。
肌で感じて、心を震わせ、感動を記憶に刻ませんか。
この街の向こう側は、書のなかでする旅の何倍も、面白いことに満ち満ちていますから」
「そうだな。俺はこの街の外を、見たことがない。君と冒険ができたら、きっと退屈なんてしないだろうね」
「それだけは、保証しますよ」
「ええ。是非にとも」
アシャは、あからんだ頬で、ちょっと笑った。
「でも、俺は旅には行けない」
「なぜですか」
アシャはいつになく、強い口調でいった。
それが重大な欠点であるかのように、ディンを眺めた。
なぜ、行動なさらないのですか。
そんな強い意志のこもった視線に晒されたことのなかったディンは、少なからずたじろいだ。
しかし、ディンにも意地があった。
それは、彼が半生を掛けて望んだ立場がもたらした、責任にも似た、意地のような感情だった。
「俺にはまだ、ブラジウスに対するけじめが残っているんだから」
「どうしてあなたは」
アシャが言いつのろうとするのをさえぎり、ディンはいう。
「身にまとう華やかな衣装。
長衣に縫い込まれた金糸、銀糸のずっしりした重み。
それらを纏うことを許されていた意味。
皆が忘れても、誰がなんといって馬鹿にしても、俺だけは、決して忘れるつもりはない」
たとえうまく機能していないとしても、ブラジウスが社会に与える影響は、決して少なくないのだ。
街の産業、街を護を守ために揃えられた軍隊、街を維持するための法律に、運用するための制度づくり。
近隣への交友、あるいは支配。
社会を維持する役人に支払う給金。
民の生活を壊さない範囲の税制と、それを回収する術。
ブラジウスの根幹を支える、次世代の子どもたちへの教育制度と、それらを維持するための資金繰りの手段。
それだけのものを、ディンは見て来てしまっていた。
ブラジウスの庇護のなかにいる人びとは、ブラジウスの願った通り、それなりに幸せだったように思われてた。
今の人びとの生活を壊してまでも、それらの不正を正すこともまた、ディンにはできなかった。
それがより多くのひとの幸せを願うという、矛盾をはらんだ呪いだとしても。
ディンはお茶をを手に取ると、沈んだ声と共に飲み下した。
カップを置くのと戸が叩かれたのは、ほとんど同時だった。
いつしか日は傾き、まもなく夜になる頃合いだった。
今ならば、裏口か、あるいは屋根伝いに逃げられるかもしれない。
だが、このブラジウスの名を冠したこの街の、どこへ逃げるというのか。
「アシャ。これから起こることは、全て俺の望んだことなんだ。手はださないでほしい。いいね」
先ほどまでの空気とはうってかわった強い口調で、ディンはいった。
「それは命令ですか」
アシャはやはり、静かな口調で問う。
ディンは重々しくうなずいてみせた。
「そうだ。アシャ。これが多分、俺の最初で最後の命令だ。それから」
それから、といいつつも、ディンは、二の句を告げないでいた。
なにを言おうというのか。
口にしたところで、なにがかわるというのか。
今、もっとも考えるべきは、彼女をどうやって救い出すかという、その一点にのみ、意識を捧げるべきだった。
アシャには、これまでとかわらない、心穏やかな日々が続いていてもらいたいではないか。
ディンは拳を握りしめた。
「元気で」
蹴破られる扉。
大勢の乱暴な足音。
なにかが転がるガラガラという音。
騒然とした状況で、なー、という猫の鳴き声が聞こえた気がした。




