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36 「わたしのような奴隷の存在を」

 少女を抱きながら帰ったディンをみても、アシャはなにも言わなかった。

 泣き疲れてぐったりとした少女をディンが座らせているあいだに、アシャ湯を沸かし、薬箱をもって帰ってくる。

 アシャは女の子に二言三言声をかけると、汚れた服を脱がせ、慣れた手つきで彼女の手当てをしていった。

 少女は痛がったが、泣き声を上げる元気もないようで、アシャが傷に触れるたびにかすかに身体をよじらせるのみであった。

 

 治療が済むと、アシャは白湯といくつかの薬草を煎じた薬湯を口に含ませてやる。

 少女がゆっくり呑み下すまで、ずっと背中をさすってやっている。

 そして、優しく抱き上げてげ、椅子をならべて簡単な寝床をつくると、少女を寝かせ、毛布をかけてやった。


 その間のディンはといえば、出来ることといえば少女のそばに居てやることくらいである。

 そんな自分が情けなかった。

 せめてもの労いにとお茶をいれてやろうと、湯を沸かしなおしていると、アシャが調理場に入ってきた。

 甲斐甲斐しく世話を焼く姿から察するに、しばらく付きっきりだと思っていたため、ディンは少なからず驚いた。


「ついてやっていなくて、大丈夫か」


「すぐに眠ってしまいましたので、しばらくは大丈夫です」


「そうか」


「彼女なら、多分大丈夫ですよ。施療院では、もっとひどい子をたくさん診てきましたから」


 アシャは、調理場からディンを追い出してしまう。

 主人さまは座っていてくださればいいのですとかなんとか。


 彼女の城を侵してしまっていたらしい。

 ディンが追い出されてまもなく、彼女はお茶と軽いお菓子を携えてやってくる。

 手際良く二人分を準備し、彼女自身も対面に腰掛ける。


 アシャとのお茶はの時間は、いつのまにかディンにとって心安らぐ時間だった。

 もう何年も前から同じように過ごしてきたようにすら感じられるのだから、不思議なものだ。


 部屋が理不尽な混沌の中にあったのも今は昔の話であり、ディンの借家はどこもかしこも、アシャのもたらした秩序ある空間に生まれ変わっていた。

 これもまた、ディンにとって喜ばしいことであった。

 アシャのもたらしてくれた新しい生活が、ディンの心を整え、柔らかく包み、また活力を与えてくれていた。

 ディンは自分が恵まれた存在であることを、深く噛み締めるのだった。

 ふと、アシャに視線をやれば、彼女は微かに首を傾げてみせる。


「なにかありましたか」


「いや」


 それだけの会話。

 ただ一度きりのやりとり。

 アシャは声にほんとん感情をのせず、表情もあまり柔らかいほうではない。

 それでも、アシャが、ディンを心配して側にいてくれているらしいことは、伝わってくる。


 なぜか、と問われれば、それは多分、ディンがアシャに関心があるからだった。


 もし仮に、ディンがいつも通りのディンであったなら、アシャは少女に付きっきりで看病したことだろう。


 少なくとも、遠巻きにひとの不幸を眺めやるだけの民衆とは違う。

 誰かが困っていたら、あるいは、助けを求めていたならば。

 自らを顧みず、危険に飛び込んでいってしまう。


 アシャは、そういう女性だ。


 しかし、アシャはディンと共に、お茶をすすっている。

 彼女は何も言わない。

 なにも聞かない。

 ただ、そばにいるだけ。

 尋ねれば答えるだろうし、なにも聞かなければ、無理に踏み込もうとはしない。

 けれど、決して無関心ではない。それが、なによりディンが嬉しかった。

 だから、ディンの空になったカップにお茶のおかわりを注いでくれた彼女に、尋ねてみたくなった。


「アシャ」


「はい」


「この街を、どう思う」


 そういって、ディンはアシャを見つめた。


「どう、とは?」


「この街は、好きかい?」


 アシャは妙なものを見るように、ディンを見つめた。

 かすかにあごをひき、こころなし、空気がかたくなる。


「答えにくい問いですね」


「思うがままの、答えが欲しい」


 そういってディンは黙り込む。

 アシャは無言でポットを置き、居心地悪そうに向かいに座る。

 彼女は小さくかぶりを振ることで、本意ではないことをしめしながら、考えを口にする。


「ゆがんでいると思います。今まで見た国のなかでも、いちだんと」


「例えばどんな」


「主人さまの世界からは見えないことが多すぎる点です」


 アシャがいった。

 それからしばし、迷うように視線をさまよわせていたが、やがてその視線は、アシャを見つめるディンの視線と交差した。


「主人さま。わたしのような者を、他でみたことがありますか」


「君のような、その、綺麗な女性ということかい」


「いえ、わたしのような奴隷の存在を、です」


 アシャが口にした奴隷という言葉が、ディンの胸元に強く響いた。

 そうなのだ。彼女の立場は、所詮奴隷であり、未だ、ディンとアシャとの間には、金銭的な契約が横たわっている。

 アシャがディンに関心を抱いているのは、ディンが彼女の主人であるがゆえの、必然なのだ。

 ディンは胸に痛みが走るのを自覚した。しかし、それを表情に出さないように、細心の注意を払いつつ、話をつづけた。


「あるよ。先生のところとかで、働いていたね」


「それはわたしが売られていた市場に十分釣り合うくらいに、でしょうか」


 アシャは問うた。ディンは答えを求めて、アシャを見つめた。


「もちろん、巧妙に街の生活に溶け込んでいる方も多くいらっしゃいます。例えば、わたしに服を買ってくださったとき、対応してくださった店員さんも、そのひとりです」


「彼女も、奴隷だったのか」


「もう少しで、自分を買い戻せるくらいのお金が貯まるそうです。そのときには、一緒に食事をしようと誘ってくれています」


「よかったね」


「はい」


 アシャは微かに頬を赤らめてみせた。


「しかし、彼女はとても幸運な例でしょう。彼女は主人の側に仕え、街の暮らしを味わうことができ、しかも彼女の働きが、うまく彼女自身に反映されているのですから」


「大半のものはそうではないと」


 アシャは首肯した。


「そうです。この街を成り立たせるために、明らかに人が足りないのです」

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