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35 「この子の罪を、買わせてもらおう」

 より多くの幸福を、より多くの人々へ。


 最大多数の、最大幸福。


 ブラジウスの掲げる最高の世界であり、自分の人生の導き手である先生の信ずる道であり、己が人生の全てを懸けてでも、実現すべき世界。


 清貧をもって、人類に奉仕する。


 これこそが、真に人の生きる道であるというブラジウスの教えを、ディンは心から信じてる。


 ディンの周りの同期たち。

 あるいは、ディンのあとに、門戸を叩いた者たち。

 皆が、この理想に共感していた。

 いろいろと思うところはあるし、馬が合わないものも中にはいたが、根底に横たわる理想は同じだった。

 

 けれど、その日、ディンは大きな決断を強いられた。

 何を迷うのか、と決意した直後に。




「衰弱した子どもではないですか」


 ディンはかすれた声で、衛兵に告げる。

 帰路につき、市場の片隅で、とある騒ぎを目撃した。


「しかし司祭さま。法は正しく運用されねばなりません」


 髭を蓄えた衛兵が、日頃の訓練の賜物であろう張りのある声で答えた。


「誰に対しても公正でなければならない、と。しかし、君」


「盗みに対する罪は、初犯で罰金、再犯で焼印、三度目で利き腕の切断です。ディン司祭」


「そうだね」


 ディンは同意した。

 ブラジウスの定めた法典には、まさにその通りのことが書いてある。

 おそらくは、目の前の衛兵よりも。


 そして、ディンにすがりつき、歯を鳴らして震えている少女も、そのことをよくよく理解しているのだろう。

 だからこそ、ディンにすがりつき、その腕を痛いほど強く握りしめている。

 ディンは少女の手を、優しく包み込んでいった。


「しかし今この子の腕を切り落としてみなさい。この子は死んでしまいます。

 見なさい、この腕を。

 気の毒なくらいに細いじゃないか。

 腕に怪我もしてている。

 膿んでいる。

 熱もある。

 はやく治療しないと」


「その傷も、おおかた、焼印を自分で消そうとしたのでしょう。

 よくあることなのです、ディン司祭。

 申し上げにくいことですが、あなたさまは、若すぎるが故に、現場をご存知ないのです。現場では、ある程度のことは割り切る必要があるのです」


「だからといって」


「ディン司祭。我々はブラジウスです」


 衛兵は太い声でいった。


「ブラジウスは公正でなければなりません。

 今、ここでその子どもの罪を助けたとしたら。盗まれた側はどうなりますか? どんな慰めの言葉をかければ、彼らは救われるのでしょう?」


 衛兵の男は、自らの言葉を疑うことなく、恥じることなく、堂々と主張する。

 彼の声に、ちらほらと、足を止めるものたちが現れはじめた。


「真に憐れむべき存在を、間違えないでください。

 あなたの憐みは、ブラジウスの名のもと、誠実に日々を積み重ねたものであるべきではないでしょうか。

 わたしは、あなたさまの説法を、何度か拝聴したことがあります。

 お若い方なのに、なかなかためになることをおっしゃると、関心していたものです。

 そのなかで、あなたさまは、おっしゃいました。

 富は有限なのだと。

 私はその言葉に感銘を受けました。衛兵という、時には力を振るわねばならぬ仕事にこそ、相応しく価値のある言葉です」


「そう、ですね」


「であるならば、ディン司祭。

 私にも、責任があるのです。同じブラジウスに属しているからこそ、私は任務に忠実であれねばならないのです」


 立ち止まった野次馬の中からも、衛兵に同調するような声が聞こえはじめた。

 ディンは、突きつけられた現実に、どうしようもなく打ちのめされた。


「ディン司祭。わたしもひとの子です。この少女のことを、かわいそうだとは思います。

 ですが、あなたはたくさんの人を見送ってきたはずです。

 それに、こんなことは、この街では、別に珍しいことではないのですよ?」


 衛兵の言葉こそが、民意だった。

 かわいそうだな、と思う。

 けれど、彼らは、想いこそすれ、それを行動に示すことはないのだ。

 せいぜい、寝る前に昼間の騒ぎを思い出して、かわいそうなことになった、と思って終わり。


 少女は、粗末で、ひっぱればちぎれてしまいそうな、ひどく傷んだ黄色い服をきて、健気に胸を上下させている。

 頬は痩せこけ、手も足も、触れれば手折れてしまいそう。全身をまだらにおおう赤い発疹は、偏った食事しかできていないことを示している。


 教会の庇護の範疇外にいる少女。

 春を売っていたかもしれない少女。

 ひとびとの無関心の渦中でたちすくんでいた少女。

 理不尽な法律に鉈を振り下ろされかけている少女。


 ディンは迷う。

 彼女の利き腕に鋭い刃物が振り下ろされたならば、彼女はどうなることだろう。

 きっと、止血のために熱く赤くなった鉄板に押し付けられ、全身を震わせるように悲鳴をあげ、気を失う。

 高熱に浮かされ、生死の境をさまようことになるだろう。

 運良く生き残ったその先にあるのは、市政に買われ、頭を地面に擦り付けてひとの情けを乞うノマドに身を落とすかもしれない。

 そして、最後には、彼女の稼いだ金額のうちのほとんどを吸い上げられるのだ。

 そのお金は、ブラジウスの誰かの懐に転がり込み、その誰かを富ませることになる。

 ひょっとしたら、金の一部は、その不幸を招いだ衛兵のポケットに入ることになるかもしれない。

 あるいは、自分自身のポケットに。


 それが、ブラジウスが持つ、仕組みなのだ。

 ブラジウスで出世をすることは、それを肯定することなのだ。 


 それに気がついた途端、胸が苦しくて悲しくて、下腹がねじ切れそうに痛んだ。

 世の中を恨んで、ではない。

 なにも出来なかった自分自身が、情けなくて。


 再び、少女の手を柔らかく握った。

 答えるように、少女が握り返してくる。

 涙に濡れた少女のひとみが、少女の恐怖をなによりも雄弁に物語っている。

 彼女が熱に浮かされながら、苦しそうな掠れた声で訴えかけてくる言葉は、ディンには理解できない異国の言葉だった。


 言葉にすら不自由している、哀れな少女。

 ディンは、少女をだきしめた。

 そして、少女にだけ聞こえる声で、できるだけ優しくささやいた。

 少女に意味が通じていないことは承知しつつも、言わずにはいられなかった。


「取引をしよう。君が元気になったら、君の国の言葉を教えて欲しい。

 歌がいいな。君が元気になる歌だ。

 君の見てきたものを聞いてみたい。

 なにが楽しかった? なにが嬉しかった? どんなとき、嬉しいと思った?」


 ディンは湧き上がってくる衝動を抑えることができなかった。

 衝動は、嗚咽となり、涙となって彼の頬をつたう。


「一時間で銅貨十枚じゃ、安すぎるかな」


 君の見て聞いて学んだことには、それだけの価値がある。

 君は、俺の知らない言葉を話し、知らない歌を歌い、知らない生き方で生き抜いてきたんだろう。

 右も左もわからぬ異国の地で、頼るべき寄る辺もなく。

 言葉にも不自由するなかで、言葉を学び、金の稼ぎ方を思いつき、その小さな身体ひとつで、生き抜いてきたんじゃないか。

 俺には決してできない、命を燃やしてでも生きるという執念。

 その結果として、今の君がいるんじゃないか。

 君が体験してきた辛い出来事のもすべからく、意味のあることだったと、笑い飛ばせるようになって欲しい。

 君には、価値がある。

 君を気にかけているひとは、少ないかもしれないが、ちゃんとここにいる。

 以前は見えなかった。でも、でも、今はちゃんと、見えているんだ。遅すぎたかも知れないけれど、俺にも、君がいきることを手伝わせて欲しい。


 だから。


 ディンは、少女をしっかりと抱きかかえた。

 そして、衛兵にはっきりと告げる。


「この子の罪を、買わせてもらおう」


 ディンはその日、はじめて、ブラジウスがおかしいと確信できたのだった。

ここまで読んでくれてありがとう!

楽しんでくださっていたら、すっごく嬉しいです。


感想欄に更新があると、餓死寸前のピラニアみたいに飛びついて喜びます。

なにとぞ!


他の作品も書いています。

僕はV2を作った。世界初のミサイルを、たくさんの人が死んだらしい。

でも、僕には、それがミサイルには見えなかった。

それは、宇宙へ行くための船。

彼女と約束を叶えるための。曰く。

『わたしと宇宙を目指してみない?』

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