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33 「幸せって何なんだろうな」

「私に、施療院で学んでこいと」


 帰宅してすぐ、ディンはアシャに告げた。

 マキナが人手を欲しがっていると。もちろん、少年の処遇に対する条件だという部分は、黙ったままである。

 世の中には、知らなくてもいいこともあり、それを分別するのが大人だとしたら、己もついに純粋な青年ではなくなった、というとらしい。


「ああ。自分の食い扶持くらいは稼いでほしい。医者として独り立ちできるくらい、学んで来い。そうできたなら、自分を買い戻してくれても構わない」


「わたしは今の境遇に満足していますよ。そもそも、おひとりで生活できるのですか? また、本の山に埋もれる生活に逆戻りするおつもりですか?」

 

 そうは言いつつも、ディンの提案を、彼女は明らかに喜んでいた。

 なにせ、いつも無表情にほど近い彼女が、冗談を口にしているのだから。

 

「ですが、せっかくですから、マキナ医師からは学べるだけ学んでこようと思います」


 そんな塩梅で、アシャはマキナの施療院に通うことになり、ディンは日常へと帰っていく。




 気がつけば三週間が経っており、その間に二人が徒刑場に送られ、二人を見送ることになった。

 説法の方は、はじめの二、三度こそとまどったものの、繰り返すうちに口が回るようになり、自分では、それなりに観れるものになったように思われた。

 立場がひとをつくるという言葉の意味を、深く噛み締めることになるディンだった。

 つまるところ、誰にでも勤まる仕事であり、自分がいなくなったとしたら、誰かが代わりを立派にやり遂げるだろうと思われた。

 ディンの強みと言えば、誰よりも若いというだけである。

 ブラジウスという看板を降ろして街中でひとり説法をしてみたところで、誰も足を止めてくれるものはあるまい。

 往来の人びとにとってみれば、ただの若造が賢しらに語っているようにしか見えないのだから。

 つまるところ、説法を一週間の間に説法を聴かせる習慣を確立したブラジウスこそが、権威なのだ。

 その組織で立場を固めることが、自分の獲得しうる最高の人生なのであろうと、ディンはしみじみと思う。

 自分のために準備された朝食を食べ、アシャに挨拶して仕事に出向き、徒刑囚か死刑囚か無垢な民衆に『挨拶』をし、あかりの灯った家に帰る。

 その日の出来事を共有し、雑談の中から得た気づきが、明日の説法に使えそうなものがあれば、その文句を書きつけておく。

 眠る前に、枕元で神に祈り、寝台の上に横になったと思えば、翌日の朝陽が、優しく朝の来訪を告げる。

 どこかの詩人の言葉を借りるならば『世はすべてこともなし』だ。


 ディンには、説法のたびにそれなりの給金が支払われ、出世が約束された立場にある。

 社会的な地位も申し分ない仕事をが約束されており、将来に対する不安はほとんどないといっていい。


 なにを不満に思うことがあろうか?


 だが、ディンは確かな不安を、胸のうちに抱えていることを自覚していた。それは、順風満帆な人生を送っている若者についてまわる麻疹のようなもで、歳をかさね家庭をもち、守るものができたならば、自然と忘れてしまう類の悩みだと思われた。

 少なくとも、歳を重ねた大人たちにとってみれば、馬鹿な悩みと一蹴する類のものであると。


 だが、ディンは、確かに悩んでいて、それは当人にとって、判断を誤れば今まで積み上げてきたものが吹き飛んでしまうように思われる、破壊衝動にも似た感覚だった。


 即ち、俺はこのままで良いのだろうか、という問いである。


 悩みのきっかけは、いつぞやの何気ない、マキナの質問だった。

 お前はなにをしたいのか、という意味合いの問い。

 その時は気にも止めることなく簡単に相槌をうつだけだったが、その夜なってひとりで思い返してみると、彼女の言葉にはとても重みがあるように思われた。


 出世ではなく、食事を。


 付け加えるなら、食事の相手はアシャがいい、と思っていた。

 そして、マキナは、きっと別の答えを予想していたのだと思う。

 だから、あの人は笑ったのだ。

 お前はまだ、染まりきっていないのだな、という意味を込めて。

 

 近頃のディンの望むこと。

 そのためには、お金も、経験も、大した知識も必要ないらしい。

 必要なものはせいぜい、機知に富んだ会話くらい。

 楽しませる相手は、不特定多数に対してではなく、目の前の、たったひとりの女性を楽しませれば、それで十分なのである。

 そのことに、気づいてしまった。

 で、あるならば、自分の追い求めてきたものは、果たしてなんであったのだろうか。

 そう考えると、いてもたってもいられなくなり、ある夕食の席で、ディンはついにその問いを口にした。


「幸せって何なんだろうな」


 アシャは、ちぎったパンをオニオンのスープに浸していたところだった。いぶかしげに、ディンをみやりながら、淡々とパンのかけらを口に運び、ゆっくりと咀嚼し、呑み込んだ。


「どうされました?」


「最近、よく思うんだ。俺の仕事にどんな意味があるのか、と。俺の目指していることは、本当の幸せにつながるのか、と」


「主人さまの夢は、この街をよくするために出世すること、でしたか」


「そうだ。そうだったはずなんだが」


「主人さまの知っていた、改善したい部分は大したことはなく、実際に街の抱える矛盾が見えてきて、怖気付いたと」


 淡々と分析を始めようとするアシャ。


「怖気付いたわけじゃない。ただ、真に価値があるものか、最近わからなくなりつつあるんだ」


「それを確かめるためにも、遮二無二取り組んでみられてはいかがですか?」


「誰でも代わりが勤まる仕事にか?」


「誰でも勤まると、本気でお考えですか?」


 アシャはディンの瞳をのぞき込んで、淡々といった。


「主人さまの仕事、今は司祭ですか。その本質は、ひとの心を変えることにあると思われます。

 偉業を成したひとの言葉からでも、子どもに聞かせる寝物語からでも、恥ずかしい失敗談からでも構いませんが、誰かのためになる教訓をみつけ、それをどうすれば、一人でも多くのひとの心に届かせるのかを、常に自らに問い続けるという仕事。


 細心の注意をはらって言葉に順序をつくり、聴衆がどのように心を動かされていくか具に観察する機敏さをもちあわせ、ひとを惹きつける声の強弱と仕草を身につける。


 それらのひとつひとつは、確かに特筆すべきことではないかもしれません。しかし、それらのことを、無意識のうちに成し遂げ、日々の日常として繰り返すことが、はたして誰にでも勤まる仕事であると?


 本当に迷っているのであれば、屋上にいらしてください。そして、振り返ってみてください。かき集められた本の山を。その書物に記された事柄を自らに刻み、自らの血肉とするために、どれほどの時間を費やしてこられたのか、思い出してみてください。決して誰にでも勤まるものだとは考えなくなるはずです」


「そう、だろうか」


「付け加えるなら、あなたの仕事は、ただひとに語っているだけではないと言うことを、はっきりと自覚すべきです。

 そもそも仕事とは、目に映るものだけが、全てではないのですよ。

 商人は物を売るだけの仕事でしょうか。

 物珍しいものを運んでくるだけが、彼らの仕事ではないでしょう。

 商品の買い付けにはじまり、輸送する船を選別し、出店の許可を市政から買い付け、教会の教義に反しないことを証明し、それからひとを雇って軒先きに並べる。

 かつそれらが素晴らしいものであると、人びとに知ってもらわなければ始まりません。

 その過程で資本が足りなくなれば破綻するわけですから、命がけですよ。

 彼らの仕事は、決して街でぼんやりと過ごし、商品と金銭を交換するだけではないのです。

 ただ、買い手にとっては、手に取った商品が評価の全てですから、評価も商品に対してのみなされるのです。

 主人さまの仕事も、それと同じことではありませんか」


「そう、かもしれない。いや、そうだろう。君の言っていることは正しい。

 でも、ときどき、ほんのちょっとではあるけれど、俺のやっていることは、誰の救いにもならないんじゃないかと思うことがあるんだ。それが贅沢な悩みであるということは、重々承知していることなんだけれど」


「ひとはそう簡単には変わりませんからね。説法を聞いた人びとのうち、ひとりでも心を動かされ、これからの行動の指針となったならば、やった意味があったと、そう気楽に考えるのがいいでしょうね」


「そうだね。そうなんだけど」


「まだ何か迷うのですか。そもそも、こんなことさえも、ひとに言われなければ気づきませんか。

 それとも、司祭という立場が、思っていたものと違うとでもおっしゃるのですか。あまりにも想像とかけ離れていて、やる気がみいだせないとでも。だから、他の道があるのではないか、と。仕事を辞めたいから、わたしに養ってほしいと。

 そうであるなら、端的におっしゃってください。そういう話であれば、施療院通いを辞めて、宮廷に通うことにいたします。そうすれば、わたしの稼ぎで生活できなくはないでしょう」


「アシャ。ひょっとして、君は怒っているのかい」


 アシャは、深々と息を吐き切ると、あっさりとした口調でいった。


「ええ」


「君を怒らせるつもりはなかったんだ」


 それきり、会話が途絶えた。どうにも、居心地の悪い沈黙だった。

 ディンは素早く食事を終えることにし、パンを詰め込んだ。せっかくの朝の時間がもったいなくて残念ではあったが、針のむしろよりは幾分かいいには違いない。

 ただ、朝食の時間が沈黙で終えるのは惜しいとアシャも考えていたらしい。めずらしく彼女の方から話しかけてきた。


「なぜ、そんなことを考えるのですか」


「君が来てから、今まで考えてもみなかった、変わった出来事に触れる機会が多くてね。宮殿なんて、その最たるものだ」


「お邪魔でしたか」


「まさか。悪くないと思っているよ。ただ、それらの経験を踏まえると、組織に身を埋めることが、本当に己のためになるのかどうか、すこしばかり考えてみたくなることもあるのさ」


「主人さまが迷われているのは、ある意味で当然でしょう。

 主人さまの夢のなかに、主人さまの幸せが入っていない。そもそも、それは、ご自身の夢ではないのですから。己のことを差し置いて、どうして他人に夢を見せられましょう」


「どういう」


「他者に魅せられた夢は、いつかは覚めるということですよ。

 しかし、なにはともあれ、ひとつ事に集中する経験は、主人さまの人生を豊かにすることになりましょう。この世に、無駄なことはないのですから」


 そういって、アシャは食卓を立った。

 非常に意味深げで、ディンとしては是非とも議論を深めたいところではあったが、仕事を抱える二人に議論を深めるだけの時間は残されてはいなかった。

 手早く身支度を整え、戸に手をかけたところで、ディンは立ち止まった。心のなかにあるもやもやを、思い切って尋ねてみる。


「最後に、ひとつだけ聞いていいかい。いつも冷静な君が、なぜ怒ったのか」


「主人さまが否定したことは、わたしの否定に繋がるからです」


「それは、君の過去に繋がる話かい?」


 ディンは、恐る恐る、その言葉を口にした。


「そう、ですね」


「君が以前から言っていた、その……」


「聖女というやつですね」


 それはディンの望む答えではなく、未だアシャが心を開いてくれないことに、胸のうちが微かに痛むのだった。

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