32 「そうか、お前は、食事で構わないのか」
アシャは奴隷なのだ。
ブラジウスでは、立場が絶対的なものをいう。
ブラジウスで出世をしたいのならば、自分の奴隷なんぞで遊んでいる暇があれば、どこかの有力者の娘でも口説き落としたほうが、よっぽど建設的なのだから。
「うるさいな。あれはひとの使い方を学んでいるだけさ」
「『彼女の言葉は、俺の言葉だ』とさっきは言っていたように聞こえたぞ」
「彼女が無碍に扱われるのが、嫌だったんだ」
「なぜ」
「俺の身内だからに決まっているだろう」
「彼女が好きなんじゃないのか」
「そんなこと、あるわけないだろう」
ディンは叫ぶようにいった。その言葉は、マキナに対する反論だったが、もっぱら自分自身にいいきかせているように、マキナには聴こえてならなかった。
「お前にいってやりたいことは星の数ほどもあるが、どうせお前は忘れてしまうだろうから、真に伝えたいひとつのことだけを、お前に問うてやる。
お前のやりたいことは、なんだ?」
「突然、どうしたんだ?」
「言お前が、明日死ぬことになるとして、あくまでも死ぬと仮定して、あるいは明日がこないなんてことが起こりうるとして、お前は、何をする? 何をしたい?
明日死ぬとわかっていても、ブラジウスの地位を望むのか?」
「さあ。時間がないなら。組織を代える力なんていらないかな。美味しいものでも食べに行くと思う」
「それが本当にしたいことか」
「たぶん……そうだ。俺は彼女と食事をしたい。そうすれば、もうすこしくらい、昔話をしてくれるようになるかもしれない」
ディンはどこまでも真面目な口調で言った。
マキナは顔をおおってうつむいた。
やがて、くつくつといううめき声が聞こえ、徐々に大きくなり、まもなく腹を抱えた大きな笑いになった。
なんだ、こいつは本気で、自分の感情に気づいていないんじゃないか。そこまで口にしておいて、なぜその先のことが思い浮かばないのか。
そう思うと、マキナはディンのことが、心から気の毒になってきた。
「そうだな。お前は訳のわからないところで、初心なんだったな。そうか、お前は、食事で構わないのか」
ディンはよくわかっていない表情だったが、馬鹿にされていることだけは、よく理解できた。
ふてくされるディンに、わるいと思いつつも、なお笑う。
ディンはまた、ぶっきらぼうな仕草で頭をかいた。今度のはきっと、怒りに身を任せてというやつだ。
流石に悪いと思ったマキナは、ひとしきり笑い終えると、努めてゆっくりした口調で忠告した。
「ここではないどこかに行くことができたならば、お前の望みは叶うかもしれんな。お前が半生を掛けて追い求めた地位と名誉とを捨て去ることができたならば、あるいは」
「あんまり笑うんなら、帰るぞ」
「いやいや。そう拗ねるな。それで、場末のなんの御用でしょうか? 司祭どの」
医師としての物言いに、ディンも表情を改めた。
「少年を引き取ってほしい。ダランベールとかいう奴に渡すのはまっぴらだ。でもって、彼は生きるための手段を持ち合わせていない。あんたのところで、修行させてはもらえないだろうか。もちろん本人が望むなら、だが」
「お前もあたしに売り込みか」
「違う。頼まれたんだ」
パレスでの会話をかいつまんで説明した。アシャとの問答のくだりで、マキナはため息をついた。
「おまえ、あの娘が望むならなんだってするのか?」
「まあ、彼女には借りがあるからな」
「どんな?」
問い返すと、聞いてくれるなと言わんばかりに、ディンは顔をしかめた。
「だが、うちは手が足りてるから、あの少年の労働力は、ここではないどこかに提供してくれたまえ。正直な話、人間をひとり養うのは、楽なことじゃないんでね」
マキナの言葉は紛れもない事実だった。
マキナひとりで施療院が回っており、これ以上規模を大きくすれば、ブラジウス教会か市政から、目をつけられる恐れがあった。
だだ、教会の関係者がに貸しをつくれるという打算と、いまだにディンが頼ってくるというかすかな優越感は、マキナに検討の余地を与えていた。
あとなにか、ひと押しがあれば、と思っていたところで、アシャが二階から降りてくるのが目についた。彼女を指差しながら、マキナはディンに告げた。
「そうだな。アシャも合わせていただこうか」
「な……」
そのときのディンの、不意打ちを食らった表情は、なかなかに楽しめるものだったと、マキナはのちに語っている。
ディンに面白い顔をさせるようになったアシャという少女に、マキナは本当の意味で興味をもった。
だから、真顔でディンにいった。
「別に買い取るつもりで言ったんじゃない。しばらくここで使わせてもらおうと思っただけだ。
あれは、相当に聡いようだからな。ちょうど、弟子のひとりでも欲しいところだったんでね」




