31 「あれはいい女だ。よく気がつくし、品がある」
「当事者同士の合意が全てで、ひと様の城だろうとお構いなし、だ。
双子は不吉な兆候だという愚かな迷信を盲目に信じる老婆と、社会の弱者を手玉にとる官僚との間で成立した、どちらも得をする理想的な商売で、損を押し付けられるのは、商品として使われる赤子という塩梅だ」
そうかもしれない、施療院の前ですれちがった老婆の様子を思い出しながら、ディンは思った。
挙動からして、何かを隠している素振りがあった。
後ろめたいことがあったからだと、今ならば理解できる。
ひとを不幸にする片棒を担いでいたのだ。
信ずる神や聖女に顔むけできない行いをしているのだから、教会を連想させるディンを直視できなかったのは、ある意味で自然ななりゆきであろう。
次に思い出されたの宮殿でのやり取りだった。
宮殿の女将のいうことは、何も間違ってはいなかった。
この世には、奴隷になることより不幸なことがある。自分の足で立つことを放棄し、誰かの所有物になりさがるとしても、その誰かを選ぶことができるのであれば、それは幸せなことなのかもしれない。
主人の元で知識と金を蓄え、自分の足で立つことを学んだあとで、自分を自分で買い取れば構わないのだから。
気がつけば、先程までの、身を焦がすような怒りは、どこかに消えてしまっていた。残っているのは、ひとのほの暗い部分を目撃したにも関わらず、それを改善する手立てを思いつけない己に対する無力感だけだった。
「これが、いまこの街が抱える矛盾だ。垣間見える最先端だ。現場に行けば、もっと酷い事になっているかもしれん。
わたしが恵まれていることがあるとすれば、そうしてノマドをやらされている者たちの壮絶な現場を、直に見たことがないのだろうからな。
その点では、お前んとこの連れが、ええと、アシャだったか?
あの娘のいうことは正しい。
完璧に、的を射ている。まるで見てきたような口ぶりじゃないか。あの歳で、どんな経験をしてきたんだ?」
皮肉な言葉だった。
まともな人間ではないのではないかと、暗に示唆しているようにも取れる言葉である。
ディンはマキナを見つめて、唇のはしだけで曖昧に笑い、肩をすくめてみせる。
本人がいうには聖女なのだと、と答えてみるのも手だとは思ったが、その答えはアシャにとってもマキナに対しても、誠実さに欠けているように思われた。
では何者かと問われれば、今のディンはわからないと首をふることしかできなかった。
何者であれば、夜空を眺めているだけで、ものが落ちてくる理屈を思いつくことになるのであろうか。どんな経験を詰めば、一度見ただけの、しかも建造中の教会の構造について理解し、崩落事故の原因を特定することができるようになるのだろう。
まるで、答えをあらかじめ知っているのではないかと勘ぐりたくなるような、鮮やかな説明までしてのけるのだ。もちろん、数学的教養に乏しいディンには、彼女の語る言葉の二割も理解できてはいないだろうが。
語学に通じ、物事をつぶさに観察し、現象の本質を簡略化し、分析し、分類し、客観的な数学的言語で表現できる能力。
世界を前へ推し進められるだけのことを思いつける彼女の思考は、学問の世界に振り切っている。
ではアシャが天才的な学者かといえば、違うと首をふることになるだろう。
ディンの出会ったことのある当代一と噂される学者といえば、およそ人間的な最低限度の生活すら放棄し、己の時間の全てを書物と討論と暝想とに費やしてしまっているような、常人からは遠く離れた存在だった。
だが、アシャはといえば、およそ家事とよべることに通じており、魔窟と思われた本の山を片付けてみせ、鮮やかな手並で食欲のそそる料理をつくることができ、夜空の星を眺めて涙することのできる少女だった。付け加えるなら、人間離れした瞬発力で少年を救いだすこともしていたような。
もちろん、彼女のことを知りたいとは思う。
だが、今以上の詮索をすることは、どうにもはばかられた。
なにせ、まだ二、三度しか、食事に誘っていないのである。
しかも、食事に連れ出す度に、何かしらの事件に巻き込まれてしまい、一日の最後まで、穏やかに楽しめた経験がないのである。
仮に踏み込んでしまい、もしも彼女に見限られるようなことが起こってしまったとしたら。
ディンは、いまだ少年期を脱したか否かという年頃にすぎず、人並みには夢みがちだった。
その夢の延長には、アシャのような、おおきく澄んだ瞳の、優美な顔をもった女性がいた。
そしてディンは、彼女に対して働きかける度に、例えば食事に誘うことを決意する度に、いいようのない高揚感と、全身がかゆくなるような不安とにおそわれるのだった。
理屈ではなく、万が一にでも、アシャの深いところに踏み込み彼女の不敬を買ってしまったならば、アシャはその類稀なる頭脳でもって情け容赦なく、ディンを言い負かしてしまうでろうし、生涯軽蔑されるに違いなかった。
他の女性であれば、深く感じないような些細な出来事であっても、それがアシャであるとしたら、なによりも辛いことのように思われたのだった。
つまるところ、ディンは自分ではほとんど無意識の領域で、アシャの信頼を勝ち得たいと願っていたのである。
マキナは、曖昧な笑みを浮かべ話をにごすディンに、格別答えを求めていたわけではなかった。
ブラジウスに入り浸るようになったころから、己の夢を語らず、地位だなんだと口にするようになったディンに、さして興味をもっていたわけでもない。
単に、面白い奴隷を買ったのだなあ、と思うくらいだった。
ただ、隠し事をしている際のディンの癖、すなわち、ぶっきらぼうな仕草で頭を掻くという、酔った頭でも反応できるほどのわかりやすい仕草には、久しぶりに悪戯心をくすぐられたのだった。荒んだ気分を転換するにも、ちょうど良い話題のようにも思えた。
「あれはいい女だ。よく気がつくし、品がある」
ディンの耳が、かすかに赤く染まったのを、マキナの目は見逃さなかった。彼が何かを言い返す前に、畳み掛けるようにいう。
マキナは酒びんを脇に追いやり、ディンに向き直った。身を乗り出し、ディンを試すようにいった。
「だが、あれは、お前の野心の妨げになる。そうだろう?」




