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03 「まずは、元気になってほしい」

 ゆっくりと、全身から力が抜けていく。

 手足が、氷のように冷たく、彼女には自分自身の身体が人形かなにかのように感じられた。

 心臓が脈打つたびに、全身に鈍い痛みが全身を貫く。

 いっそ止まってほしいとすら、彼女は願った。

 視界の定まらない視界に、ちかちかと光が散る。


 耳鳴りがひどく、うまく音も聞こえないはずなのに、鞭が空を切る音だけははっきりと聞こえた。

 反射的に全身をこわばらせる。

 全身が揺さぶられるような衝撃。

 たった一本の鞭を振るわれただけだと理性では理解していたが、訴えかけてくる痛みは、身体全身を割かれてしまったかのようだ。


 血とも汗とも判断のつかぬ液体が、全身を濡らしていく。

 うわごとのように漏れる自分悲鳴が、どこか遠くから聞こえた。

 

 これが、己の成したことに対する罰。


 わかってはいても、痛みの前に屈服しそうになってしまう。

 私はなんと、情けない人間なのか。

 外部からの刺激ひとつで、悔いてはならぬはずの己の行動を、今にも悔いてしまいそうで。

 早く、意識を失ってしまいたい。

 この苦痛から、逃れることができるのならば。

 そう願いつつも、朦朧とした意識は、なかなか彼女を開放してはくれなかった……。




 頭の芯に重い感覚を覚えながら、少女はうっすらとまぶたをあける。

 目覚めたことをすぐに後悔した。

 深いため息をついた。

 すると、鞭打たれた背中がずきりと痛む。


 生きているということは、また一晩を乗り切ってしまったということ。

 意識があるということは、もう二度と明けて欲しくなかった夜が過ぎ去ってしまったということ。


 目覚めて、生きていることを疎ましく思うのは、いつからだろう。


 国を追われたときか。夢が破れたことがはっきりとわかったときだろうか。

 それとも、村をでる決断をしたときからだろうか。


 つんと鼻にくる軟膏の匂い。

 うつぶせに眠っていたため、胸元あたりにも、鈍い痛みがあった。

 思わず強く息を吸い、今度は背中の傷が鋭く痛み、彼女はたまらずうめき声を上げた。


 鎖手首をかばうように身体を丸め、いつもの癖で手首をなでつける。

 長く鎖に繋がれたあまり、彼女の手首は、鎖に触れる部分が赤くただれている。

 鎖のすきまに差し入れるように指をはわせ、鎖に結ばれていないことに気がついた。


 眠気は瞬く間になくなった。

 ここがどこで、何をしていたのかを把握するべく、必死に記憶をたどった。

 しかし、仄暗い部屋のなかに囚われていた時間があまりにも長すぎたためか、思いだせたのは、繰り返し聞かされた服従という言葉と、カビ臭いパンのえぐみと、空を切る鞭の音ばかりであった。


 彼女は恐る恐る首をあげる。

 ベッドの上にいることがわかった。

 すごく清潔で、柔らかい。

 彼女を縛るものは何もなく、丁寧に編まれたシーツに横たわっていた。


 ベッドの側には、窓があった。

 わずかに首をかたむけると、ひさかたぶりにみる青い空が見えた。

 赤茶けた屋根と、石造りの家が隙間なく並んでるのがみえた。


 痛みに引きつる背中をなだめすかし身体を起こすと、窓枠に手をかけた。

 不快にしびれる手のひらで鍵をあけ、窓を開け放った。

 透き通ったすがすがしい風が、室内に吹き込み、彼女の頬をくすぐった。


 鳥のさえずりがきこえた。名も知らぬ緑青色の小鳥が窓辺に降り立ち、黒く、うるんだ瞳で彼女を見つめた。


「起きたんだね」


 振り返ると、ひょろひょろの男が扉を開けて入ってくるところだった。

 男というよりは、青年。年は十七か、十八あたり。

 短く刈り上げた金髪に、ゆったりとした長衣を着流している。


 スープに黒いパンを携えている。

 彼女はだまって頭を下げた。


 返答はしない。


 彼女は奴隷で彼は主人。

 金で買われたがゆえ、彼の所有物ではあれど使用人ではないと教えられている。

 主人には、彼女が気に入らなければ罰することもうり払うこともできる。

 もちろん、死を与えることも。

 彼女は命令に粛々と従うのみである。


 果たして、そんな生き方に、意味があるのかどうか。 

 だが、暖かなスープの薫りに、腹がぐるぐるとなった。


「食事にしよう」


 そういって主人は、ベッドの横に椅子をもってくると、彼女に寄り添うようにすわると、深い木皿を差し出した。


「こぼさないように。まだ少し熱いから、火傷しないでね」


 麦の粥がつがれたお椀だった。

 少女は、主人と粥を交互に見比べた。

 少女が黙っていると、主人が困ったように笑った。


「君の食事なんだけど。いらない?」


 少女は、己の不快にしびれる手のひらを見返した。

 恐る恐る手を木皿に手をのばす。

 眼の前で落とされたりしないだろうか。

 中身をかけられたりはしないだろうか。

 疑いの念は否が応にもつきまとう。


 それから木の匙をそっと握る。

 僅かな痛みとをこらえ、粥をすくうと匙を口元に運ぶ。

 はやる気持ちを抑え、何度か息を吹きかけると、おそるおそる口にした。

 彼女にとって、久しぶりの温かい食事だった。


「ゆっくり食べるんだ。あんまり食べすぎると、吐き戻してしまうから」


 少女は、身体が温まり、力がみなぎってくるように感じた。

 でもそれは、あまりにも長い間、栄養を与えられなかったせいだと、彼女自身が知っていた。


 次に差し出されたのは、彼女の握りこぶしの半分程度の、小さなパン。

 それが彼女の取り分だった。

 なけなしのパンをちぎって味がなくなるまで噛みつづける。

 ひたすらに噛む。

 噛み続ける。

 最後にほのかに味が感じられるところまでかんで飲む。


 それを二度、三度と繰り返すと、パンはなくなってしまった。

 全く足りないと思えるくらい少ない食事だったが、不思議と空腹は治まった。

 ふうっと深い溜息をついた。

 まぶたが重くてたまらない。


「まだ、本調子じゃないだろう。急ぐ必要はない。まずは、元気になってほしい」


 夕食の席で、奴隷として買われてから、まる一日眠ってんだと、彼女は聞かされた。

 まずは身体を癒すんだ、と主人はいった。


 驚いたのは、主人が本当に、彼女の背中の傷がいえることを待っている様子だったことだ。


 彼女はいつも手持ち無沙汰で、目覚め、朝食をいただき、眠り、少しばかり外の景色をながめ、物が散乱する部屋をながめ、昼食を食べ、しばしうたた寝し、主人と夕食を共にし、柔らかい布団で眠る。


 いつ身体を求められるのかと、はじめは怯えた。

 だが、そのうちに気にするのが無駄だと感じ、考えるのをやめた。

 主人は夜になると燭台を持って部屋を後にし、日がのぼるまで部屋に戻ってくることはなかった。


 主人は、出かける前に、彼女の包帯を取り替えていく。

 包帯を解くと彼は、足と背中を手早く洗った。

 肌は青ざめ、また、あまりにも痩せて骨ばっていたので、余計なことを考えられなかったのかもしれない。あるいは、あまりに惨めで哀愁を誘ったのかもしれなかった。


 血のにじむ背中と、突き刺すような痛みをともなう軟膏と、肌を異性に晒していることへの緊張感。

 包帯を変えたあとは、いつもぐったりとしてしまう。


 おそらく主人は、彼女が思っていた以上に歳をとっていることに気がついたことだろう。

 彼女は今年で十七であったが、見た目は十四あたりががせいぜいだと言われていた。


 買ったことを後悔しているかもしれない。

 奴隷は資産であり、彼は何時でも、彼女を売り払う権利をもつ。

 叶うなら、今の境遇が終わってしまう前に、少しでも身体の傷を直しておきたかった。


 主人はいつも、意味のない会話をしたがった。

 天気だとか、食事のことだとか、ほとんど意味のない言葉でしかなかったが、とにかく彼は、いつも話しかけてきた。

 髪を洗ってくれることもあった。

 彼は、大きなタライのなかに彼女を座らせると、彼女の髪を何度も洗ってはすすぎぎ、指ですくようにして、からまりやもつれを解いていった。


 身体にこびりついた汚れは、背中の傷と同じくなかなか落ちなかった。

 それでも主人はいつも、熱心に、しかし丁寧に、拭ってくれていた。


 主人に鞭打たれたことはない。

 腕を振り上げて威嚇されたり、火かき棒なりハタキなりで、叩かれることもなかった。

 服従を強いるとき、とりわけ手に入れたばかりの奴隷には、暴力で立場をわからせることが正しい行いである。

 

 だからこそ、不思議だった。

 いつ豹変するのかと、恐ろしくて仕方がない。 

 背中に残った生々しい傷が、彼女に、気を緩めることを許さない。




 日はめぐり、月が欠け、姿を隠し、またふくらんで、持ち前の明るさと大きさを取り戻したころ。

 彼女の足が歩くことを思い出したころ。

 主人はいった。


「市へいこう。せっかくブラジウスに来たんだから」


 新しい主人は、そういって彼女の手をとった。

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