28 「彼女の言葉は、私の言葉です」
馬車がシアモーション施療院の前で停車する。
舟を漕ぎつつあったディンはつんのめり、アシャに抱きとめられる。
彼女から感じた、ほのかに甘い香りにどぎまぎしつつ馬車を降りたちょうどそのとき、施療院から老婆ができた。余分の肉はかけらも持ち合わせていないというような、やせ細った老婆である。鋭そうな顔つきで、鋭い目をした彼女は、その神経質そうな外見に違わぬやかましさは近隣住民の悩みの種であったが、外観とは裏腹に、熱心に教会に通っていたので、ディンはその老婆のことをよく覚えていた。
ディンと目があうと、向こうも覚えていたらしく、バツが悪そうに目をそらしながらそそくさ立ち去っていく。
あいもかわらずの繁盛ぶりらしいと、内心苦笑をうかべながら、扉に手をかけた。
さっそく目についたのは、踏ん反り返って腰掛けるマキナ医師と、身なりの良い初老の老人テーブルに腰掛けている。
マキナ医師が、戸口のディンを認めていった。
「ディンか。お前にも客だ。あのガキを引き取りたいんだと」
あのガキ。
アシャが崩壊する事故現場から助け出した少年。
つい先ほど、高級娼婦が買い取って欲しいと差し出された少年。
そして今度は、売って欲しいという、見ず知らずの客人。
迎えをやる手間が省けたといいながら、マキナ医師は昼間だというのに、ひらきなおった様子で治療用の蒸留酒を瓶ごとあおっている。
客人は、立ち上がると、軽く頭をさげて名乗った。
「ダランベールです。ディン司祭だね。お噂はかねがね。本当に、お若い方のようですな」
「はじめまして、ダランベールさん」
ダランベールは、およそ老いとは対極に位置する人物だった。
薄く日焼けをして、髪は短く揃えている。首も胸板もがっしりと引き締まっており、あごの下や腹まわりの贅肉に苦しむ上流階級の人びととは一線を画した体つきをしている。
自身に満ち溢れたその面構えは、目元に細かい皺が寄っているものの、並み居る敵に打ち勝ち、欲しいもの全てを掴み取ってきた、と語っている。
ディンは、仕事柄、何度かみかけたことがある。確か、ブラジウスの市政の方で、何かしらの役職に名を連ねていたはずだ。
「自宅を訪ねてみると、いらっしゃらなかったもので。君の奴隷がここに通っていると聞いたので、ダメもとできてみたんだがね。やはり行動するものだな」
大聖堂の事後処理に当たっているディンに、話を聞きにきたのだという。
市政の側も、唐突に大聖堂工事の需要がなくなり、働き口の斡旋に奔走しているのだろう。どこにでも、苦労はあるものだ。
ディンは、事件発生からの経緯について、手短に説明した。
責任の所在が工匠にあり、少年自身は不幸にも事故に巻き込まれたこと。すべてを話し終えた上で、ディンは胸の内を語った。
「彼も生きるためにお金が必要だったのでしょう。
ただ、彼の向こう見ずな行動で、彼自身も我々も、高い代償を支払うことになってしまいましたが」
ディンは何気なく感じていたことを口にした。
穏やかに相づちをうつだけだったダランベールが、初めて口をひらいた。
「失礼だが、ディン司祭。その少年の身にふりかかった不幸な出来事と、あなた達の失敗を比較するような発言は、あまりに傲慢ではなかね」
「おかしいですか」
ディンは、ダランベールの指摘がうまく飲み込めなかった。
「もちろんだとも。
我々が、あなた方と懇意にお付き合いしているのは、あなた方の理想が、人びとへの献身と、公平な幸福の管理者足らんとしているからだ。
教会という組織は、神にすがらねばならぬ弱者になりかわり、階級社会を築くことで支配者たらんとしているではないか。
恵まれないものをあえて生み出すことで、自らの立ち位置を確立しているブラジウスが、大勢の不幸を背負いながら、それを一個人の不幸をおなじように扱う。それが、あなた方なのかと問いたい」
ディンは答えにつまった。ダランベールが問うているのは、ブラジウスのあり方についてだった。
彼は、市政の人間で、同時にブラジウスの存在を内心面白く思っていないのだろう。
大聖堂の事故を皮ぎりに、ブラジウスからいくばくかの譲歩を求めているに違いなかった。
そうした輩については、ディンは司祭になってから、随分と目に着くようになった。
立場が人を作るとはよく言ったもので、先生は、そのような輩が現れることを確信しつつ、ディンを司祭に推薦したに違いなかった。
司祭という称号。
ブラジウスのあり方について、説明を求められる存在であり、答える義務がある。称号を得ることで行使できるようになる権力の代償だった。
ディンは、新しい口癖になりつつある文言を口にする。
「あなたはあまりにも、ブラジウスを斜めに捉えすぎている。
皆さんからいただいた時間とお布施を、うまく使うことができなかった。この点は、大いに反省するところです。
ですが、富は有限なんです。私たちの手は、無限にあるわけではないんですよ」
「それが、腹を空かせた子どもに対する言い訳かね」
ダランベールは鋭い声で問うた。
「私たちは以前から、週に一度の施しをおこなっています」
「君がほどこしというのはあれか。そこらの広場で時々開催している、受け取る順番が決まった八百長のことか」
ディンは答えに詰まった。
理由はふたつ。
彼のいう施しが、真に助けを欲しているひとへ届いているかどうかを、ディン自身が疑っていた、ということがひとつ。
もうひとつは、曲りなりにもブラジウスからそれなりの権力を保証されているディンに対し、明確な敵意でもってブラジウスを批判する人間に、出会ったことが無かったからだった。
ダランベールはいらだたしげに鼻をならした。
「仮に、そのささやかすぎる食事を手にしたところで、人知れず息を引き取る子どもたちが最後に望むものを理解しているとは、到底思えない。
暖かさを知らない、ぬかるんだ道の端で、末期の少年の瞳に映るものは。
白いパンか。暖かいスープか。市場で買ってもらったお菓子か。
違う、そうじゃない。
母の手だ。
息を引き取るその瞬間、しっかりと手を握りしめてくれる、柔らかい手ひらだ。
一人ではない、孤独ではない、誰かが自分の側で、たしかに自分のために時間を割き、わずかな時間でも自分のために心を傾けてくれているということだ。
なにもかもをはぎ取られ、大切なものを全て取りこぼしてしまった人間が最後に欲しものは、金も時間もほとんどかからない、ささいな愛情に過ぎないのだ。
だが、足元に目を向けてみろ。
この街は、誰も彼もが自分が生きることに精一杯で、死にゆく子どもには見向きもしないではないか。
それが、この街の現実だ。
お前たちが幸福だなんだと騒いでいるあいだに、どれだけの子どもが孤独に死を迎えていることか。
あんな、権威と集客以外の何ものでもない存在を建設するだけの余裕があるならば、市政に金を回すのが正しい使い道ではないか。そうだろう?」
そういうと、老人は椅子にすわりこみ、深いため息をついた。
「失礼、取り乱した。君のような、世間を知らぬ若者を前にすると、古い傷が疼いていかん。
お見苦しいところをお見せしてしまった。
だが、私はなにか、間違ったことを口にしただろうか」
ディンは立ちすくんだまま、叩きつけられる言葉の鋭さに、唖然とするのみだった。
もしも、ディンが司祭として豊かな経験を積んでいたならば、ダランベールの主張に一矢報いることもできただろう。
せめて、あと三年でも実務に従事していたならば、理論の弱点を的確に見出し、反論することさえできたかもしれない。
「ですが……」
かろうじて声でるが、それきりだ。
なにかを言い募ろうともがくも、言葉としてまとまらないまま、迷宮に迷い込んでしまった思考が、出口を見出せずに駆け回るだけだった。
「君たちがやらないから、私が代わりに、手を動かしている。
私がお前たちに言いたいことは、単純かつ明快だ。
『文句があるなら、手を動かせ』
それだけだ。
あの少年は、我々が引き取り、面倒をみさせてもらう。
もちろん、これまで世話になったあなた方への報酬は弾ませてもらおう。銀貨三枚でで構わないな」
ディンは、一言も言い返せない自分を恥じた。なんとも、情けない話ではないか。自分の信じていたもの、人生を費やしていたものが、無価値だと断じられ、嘲笑されているのだというのに、何一つ言い返すことができないでいるというのは。
己の学んできたことは、なんだったのか。自分が夢見ていたことに、どんな価値があったのだろうか。
だが、ディンは一人ではなかった。
「ダランベールさま。いくつか質問させていただいても」
ダランベールは、側の付き人が、アシャが口を開いたことに、怪訝そうに眉をひそめると、興味深そうにディンを見つめた。
はたしてこの青年は、どのようにこの無礼な女性を叱り付けるのか、というように。
そんな感情が垣間見えた気がして、ディンは思わず口を滑らせてしまった。
「彼女の言葉は、私の言葉です」




