26 「私がここに呼ばれた訳をお尋ねしても?」
アシャの足は、『宮殿』へと向かっていた。
港にほど近いところにあるそこは、長い陸路の終着点に、あるいは長い航海の果てにたどり着いた男たちの、桃源郷であった。
そして、日々の生活で心をすり減らす人びとにおっても鬱積のはけ口となる場所だった。
夜になれば、濃い闇とかすかに漂う甘酸っぱい香りが漂い、各店からはかすかに嬌声が聞こえるのという。
しかし昼夜の逆転した場所であるため、朝方は客足も途絶え閑散とするばかりで、軒先には回収を待ついろいろなゴミが詰まれている。
そこは巨大な生き物ではないかと、ディンは常に思っている。
ひとの日常を改変し、常識を破棄させ、聖と俗の背反を成立させる、巨大な欲望というなの怪物の、生温い腹わたなのではないかと。
実際、ディンの知るお偉方のなかにも、熱心に通うものがいるとの噂がある。
清貧を尊ぶべき立場の人間ですらも、欲望には抗えない。
ブラジウスのお膝元に、そういう店々が集まってきていることは、きっと無関係ではないのだろう。
自分だって、抗えなかったのだから。
アシャは、とある店を選んで扉をくぐった。甘すっぱい香りが、こころなし強くなった。
店の奥から、すぐさま丁稚が掛けてくる。
肩で髪を切りそろえた、顔立ちのいい、愛らしい女の子だ。
上衣は背を隠し、スカートの裾はくるぶしまであって、濃紺と白色の対比が女の子の愛らしさを引き出している。
何事かという表情をしていたが、アシャとは顔見知りらしく、二言三言交わすと、二人を奥へと案内していく。
二人が往き来できる広さの廊下と、壁画と彫刻と、氷細工ようなシャンデリア。
ディンの想像の予想をはるかにうわまわる絢爛さは、巷の評判通りの宮殿を思わせた。
それなり以上に金払いのよい上客を相手にしているのだろう。
そしてなにより、部屋の女主人の美貌に驚きいた。
「あら、アシャ。よく来てくれました」
書類に目を通していたその女性は、ディンを認めて立ち上がり、執務机の横に立つと深くお辞儀をした。
腰まである漆黒の髪が、さらりと崩れ落ちる。
大窓から差し込んだ光をふくみ、紫水晶のような妖艶な色をたたえていた。
身につけた黒衣の長衣と、布地に浮かび上がる胸回りの稜線と、かすかに持ちあがった紅い唇と、およそ陽の光を浴びたことはないのではないかと思われるほどの、白い肌。
「よく足をお運びくださいました。あなたが、アシャのご主人さまでしたか」
彼女が前に踏み出す。
一挙動のたびに、ふわりと広がったり布地が広がり、引き締まった腰の曲線が浮かんでは消えた。
上体は芯が通っているかのように微動打にせず、まるで宙空を滑っているかのようだ。
その整った容姿の中でも特に印象的なのが、優しげでありながら、一瞬で鋭利な刃物と成り代わってしまいそうな凄みをもった双方の瞳だった。
長い睫毛の隙間から垣間見える黒い瞳が潤いをもって、蠱惑的な魅力をはなっていた。
「どこかでお会いになりましたか?」
ディンは尋ねた。既視感のある問いだった。
女性は、にっこりと笑みを浮かべながら首を横にふった。
「いいえ。以前、夜会でお見かけした程度で、ご挨拶をいたしたことはありません。
そのときは可愛らしい英雄さんだと思いましたが、アシャちゃんのご主人さまでしたか」
女主人はひと好きのする笑みを浮かべていった。
「なにかをお飲みになる?」
「いいえ」
部屋の女主人は手元の鈴を鳴らした。
ほどなくして先ほどの女の子が顔をのぞかせた少女は手際よく白磁のカップをならべ、西洋島の紅茶をいれると、一礼して部屋をでていった。
「かわいいでしょう。わたしの自慢の『妹』ですの。
花上げの折は、精一杯祝わせてやる予定ですわ。きっとよい祭りになると思います。
旦那さまもぜひ、見に来てやってくださいね」
初見えといえば、娼婦の春に値段をつけることである。
筆下ろしとも呼ばれるそれは、ここブラジウスでは女性の最も価値のあるものとして、男に尊ばれる。
故に、相場は二倍から三倍になることもあるという。
だが、彼が思い出したのは、奴隷市場でみたような、固く目を閉じ、うつむいたまま、これまでと、そしてこれから、己の上に降りかかる嵐について耐えているようすだった。
それよりはいくぶんましだとはいえ、春を売るというのが、彼には祝い事として扱うことが、どうしてもできないでいるのだった。
もちろん、対面している女性は、奴隷市のように悲観と絶望にくれた生活とは、隔絶した、それなり以上の生活を送ってきたことだろう。しかし、いずれにしても本質は同じものに思われて、ディンはおいそれと返事をすることはためらわれた。
ディンの悩みを察したのか、側で控えていたアシャが代わりに答えた。
「悪ふざけがすぎますよ」
「確かに、意地の悪い問いではありましたね。なにせ、想いびとのいる側で、他の女の噂なんて出来ませんもの」
「それこそ、悪ふざけがすぎます」
すかさず、アシャが答えた。
それは、普段通りの感情の籠らない声音だったけれど、アシャは答える刹那、はっと息を飲むような間があったことをディンは聞き逃さなかった。
その気づきは、ディンの心を震わせ、鼓動を迷わせた。決して不快ではないが、居ても立っても居られないような焦燥感が、ディンの胸元をかけめぐった。
後ろに控えているアシャの顔をのぞいてみたい頬を少しでもあからめていてくれたなら。それが……どうなるというのだろう。
ディンは、咳払いをして思考を打ち消していった。
「そろそろ、私がここに呼ばれた訳をお尋ねしても?」
「ある男の子を買っていただきたいのです」




