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25 「わたし、ああいうのはちょっと」

 夜の舞踏会で見たもの、経験したことを、ディンはまだ、なにも飲み込めていなかった。

 気づきを得たところで、なにが変わるわけでもない。

 行動に移せるだけでもない。

 

 ただ、アシャと過ごせる日常を、大事にしたいと思ったし、それこそが、いまのディンの悩みでもあった。

 だから、いつものように眠り、代わり映えのない日常を過ごしていってしまうのは、仕方のないことだと自分で自分を慰めている。


 が、舞踏会から数日が経ったその日は、すこし事情が違った。

 

「アシャ。君が書籍の管理についてとびきり優秀なことは理解している」


 ディン顔をしかめながら苦言を呈していた。

 その日は、いつもの生活のなかでも、気持ちの良い目覚めだった。


 いつもより、疲れがとれているような気がしたし、ちょうど良い具合にお腹もすいていた。

 つまり、文句のつけようのないほどの、気持ちの晴れやかな目覚めだった。


「俺は君に感謝している。

 今まで出会ったひとのなかで、一二を争うくらいに大切だと言っても過言じゃない。

 君は、よくできた子だ。

 身の回りの整理ができるし、きっと、俺の同僚の誰よりも、抽象的な会話に長けている。

 それはとても喜ばしいことだし、俺も誇らしく思う。

 だが、こればっかりはいただけない」


 食膳を並べていたアシャが手を止め、二階から降りてきたディンを認めると、首をかしげていった。


「どうされましたか」


 そのあっさりしたアシャの様子は、ディンが何に不満を感じているのか本当にわかっていないようだった。

 窓から差し込む陽光が、食卓の上で優しく踊っているようで、空気には心地よいパンの香りがただよっていた。

 先程まで軒先きに遊びに来ていた小鳥たちと戯れていたアシャは、めずらしくかすかな微笑を浮かべていた。


 つまり、ディンの苦言はアシャにとってもひとしずくだけ落とされた、黒い染みのような苦言だった。

 気持ちを落ち着けるように深く息を吸い、アシャに向き直る。

 重大な秘密を告白するかのような、重々しい口調でディンは告げる。


「アシャ。君は、ひとつ、重大な間違いをした。この家の重大な秘密に触れてしまっているんだよ。これだけけは、僕は我慢できないんだ」


 ディンのその一言は、アシャを傷つけるのに十分だったらしい。

 彼女の愛らしい柔らかな空気は霧散し、軽やかだった表情は、出会ったころの、無気力とも無関心ともとれてしまいそうな無表情にとってかわられた。


「申し訳ございません」


 そして、その感情のこもらぬ視線でじっと見つめれると、ディンには自分がとても惨めな者のように思えてくるのだった。

 空気を壊したのが自分自身だという自覚があるのだからなおさらだ。

 しかし、ここで引くわけにはいかない事情が、ディンにはあった。

 気圧されたディンは、気を取り直すべく咳払いをしていった。


「俺の枕元においてあった本はどこへ片付けたかな。

 部屋が綺麗になることは誠に結構なことだが、仕事を持ち帰る立場であるゆえ、触れられたくない書類もある。

 俺の部屋の片付けは、もう十分だ。これ以上は触らないでもらいたい」


「処罰はいかようにもお受けいたします」

 

 そういって、彼女は深々と頭を避ける。ディンは重々しげにうなづいた。だが、彼の上辺だけの威厳は、彼女の次の言葉によって吹き飛んだ。


「それでは、探してまいりますので、背表紙の題名か内容を教えてはいただけませんか」


「え、いや。場所だけ教えてくれれば、後で取りにいくよ」


「大切な書籍なのでしょう。一刻の猶予もございません。

 どんな内容でしたか。大抵のものであれば、思い出せますので」


「中を見てしまったのか?」


 ディンは情けない声でいった。

 自分でも驚くほど、動揺していた。


 その様子をじっと見つめたいたアシャは、やや眉を潜め、記憶をたどるように、視線を宙にさまよわせる。

 そして、ぽんと手を叩いた。

 それから、少しばかり遠慮するように、声を潜めていった。


「わたし、ああいうのはちょっと」


 彼女の顔は、わずかに赤みを帯びている。

 彼女が、ディンの重大な秘密の中身について、正確にとらえていることは明らかだった。


 その書の中身は、ディンという存在の根幹にかかわる重大な秘密で、ディンはそれを他人に打ち明けたことはない。

 女性であればなおのこと。

 それが、身の回りの世話をしてくれる、憎からず思っている女性に知られてしまうだなんて。

 ディンの声はほとんど悲鳴だった。


「俺は君に求めたことはないだろう」


「外で買うのも悪くはないですが、あまり羽目をはずしすぎないよう」


 あっさりとアシャはいった。


「なんでそうなるんだ。俺は、寝る前にほんのちょっと、空想を楽しんでいるだけだ。

 現実の女性に、求めたりなんてするもんか」


「主人さま。あなたが卓越した想像力の持ち主だという事は、認めるにやぶさかではありません。

 しかし、知識はやはり体験を通して身につけるものではないかと。

 もちろん実際に手は動かしているのでしょうが、わたしがここでいう経験とは他者との交わりであるわけですが、それは一人演舞とでもいうべきもので」


 妙に真面目くさった調子で、アシャは矢継ぎばやに言葉をつむいだ。

 心なし、彼女が楽しんでいるように見えるのは、ディンの思い込みだけではあるまい。

 

 さっきの悲壮感も、からかわれていただけらしい、とディンは察して、すこしだけ嬉しくなった。

 アシャが、少しずつ心を開いてくれた証に思えたから。

 そのきっかけが、エロ本だという点については、いろいろ困ったことがあるのだけれど。


 ディンは、自分でも情けないくらいの声で、弱々しく反論する。


「君は本当に、遠慮がないというか、容赦がないというか」


 泣きごとを口にするディンに、アシャは淡々と告げる。


「奥手の男の子と生活するには、このくらいがいいんですよ」


「聖女さまが、聞いて呆れるよ」


「売り飛ばされる経験をすれば、崇高な志は消し飛びますよ」


 アシャは、くすりと笑った。その笑みに、苦痛や憂いの色はない。

 心地よい空気が、陽光と共に戻ってきたのを感じて、ディンも知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

 性癖を知られたことは唾棄すべき事実だが、それを代償に、彼女の心が癒えつつあるとわかったことは、歓迎すべき事実だろう。


「相手がいないのでしたら、わたしが貰ってあげましょうか」


 ひょっとしたら、大きすぎる代償だったかもしれない。

 いたずらっぽく笑うアシャに、ディンは降参の意を示すべく、両手の掌を上にむけたのだった。


「ところで主人さま、本日はお休みだとおうかがいしております」


「そうだね。ここのところ、嫌なことが続いていたから、少しは羽を伸ばしたいな。今度こそ、わた雪を食べにいこうか」


「いえ」


 見つめる彼女の、その瞳の奥に、かすかな不安とためらいの色をみてとった。

 彼女に影は似合わないというのに。どういうわけだか、胸が締め付けられるような気持ちになる。


「さっきまでの威勢の良さは、どこにいったんだい?」


 ディンは苦笑まじりにいった。

 彼女は、意を決したようにディンを見つめて、口を開いた。


「私の食事の代わりに、少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

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