24 「うそ。ぜったい、うそ」
ディンは余韻に浸りながら、己の幸運を噛み締めてる。
一点の誤謬が、あるいはささやかな後悔があったことは否定しない。
女性と情事に及んでいる最中に、他の女性を思い浮かべるのであるから、先ほどの行為がディンにとって完璧な体験であったとみなすことは、大変に困難なことである。
それでもディンにとってはじめての経験は、彼に空前になく絶後にもないであろう一度きりの、申し分のない時間を過ごしたことも確かだった。
その時間は、少しだけディンを、感傷的な気持ちにさせるのであった。
いつから、俺は幸せになったのだろう、とディンは思う。
ディンの人生は、今よりも十年はくだらないであろう、うんと幼いときに変わったのである。
十年前のある雪降る夜、ディンの母は、若くして亡くなった。
父はなく、母は女手ひとつで、ディンを養っていた。
あまり裕福とは言い難い暮らしぶりであり、空腹で目が覚めてしまうことも珍しくはなかったが、幸いなことに、貧しい家庭では珍しくない暴力や、愛情の欠如にさらされることなく、ディンは満ち足りた幼少期を過ごしていた。
幼いディンには、ひとつだけ悩みがあった。それは、母親が何をして働いているのかを、母が一切話してくれなかったことであった。
時々遊んでいた同い年くらいの子どもたちは、皆、両親が何をしているか知っていた。
パン屋を構えている家はわかりやすかったけれど、それ以外にも、トトノ商会で使われてるとか、石切工とだと言っていた。
幼いディンには石切工がどんな仕事か想像もつかなかったけれど、その友だちが誇らしげに語っていた様子からすると、とても大事な仕事なんだと思った。
母にそれとなく尋ねてみたことがあったけれど、曖昧にはぐらかされて終わってしまう。
母は昼間は寝てすごし、夕暮れになるとディンに食事の準備を整えてから出勤していた。
朝が早い仕事だったならば、多くの睡眠を必要とする子どもが、こっそり起き出して後をつけるなんてことはできなかったに違いない。
だから、ディンはこっそり、母の後を追いかけていくことになったのは、不幸な出来事だったのだろう。
そしてその日は、ディンにとって何もかもが不運だった。
良識ある大人に見咎められることなく、母の仕事場に忍び込みこめてしまった。そして、働いていることを目撃してしまった。
母は、見ず知らずの男の前に膝を折り、頭を床に擦り付けていた。
そしてあろうことが、男は母親の頭を踏みつけ、その身体に鞭を振るったのだった。
ディンは目を見開き、その場に凍りついた。
そして、何度も鞭打たれ、母が堪えきれず悲鳴を漏らしたその瞬間、弾かれたようにディンは駆け出した。
男に立ち向かったのではなく、その場から逃げ出したのである。
ディンは、胸のうちに刻まれた悩みを口にできないでいる間に、母は流行り病にかかり、あっさりと亡くなってしまった。
嘆くよりまえに、放り出されたのは現実だった。
葬儀こそ、母の勤め先の人びとが携わってくれたものの、ただの子どもだったディンには、身よりもなく、遺産もなく、社会に対して貢献できるものを持ち合わせてはいなかった。
住む場所をおわれ、腹を空かせ、道端でひざを抱えてうずくまり、途方にくれていたとき声をかけてきたのが、先生だった。
曰く、母を訪ねてきたのだが、残念なことに亡くなっていた。
忘形見がいるとのことで探し回っていたのだが、君のことかね。
ディンは、迷わずに答えた。はい、と。
実のところ、子どものディンにとって、先生の求める少年が自分のことであるかどうかは、自分ではわかっていなかったし、実際に違うことのように思われる。
ただ、幼いディンにとって、母が亡くなってからはじめて、自分に関心を示してくれた大人であった。
またとない、願ってもない機会だった。
先生は、当時からすでに人生の成功者だった。
先生はどこへ行くにも招待される側の人間であり、先生が頭を下げるところを、ディンはついぞ、見たことがなかった。
幼いながらに興味深かったのは、行く先々で、先生の鞄もちだったディン自身にも、人々が頭を下げたことである。何ももたず、腹を空かせて道端で途方にくれていたディンと、先生の鞄もちをしているディンは、本質的にはなにも変わらない。
多少は小綺麗にし、それなりの服を着てはいたが、変化といえばそれだけのこと。だが、行く先々で、ディンは頭を下げられる側だった。
ディンは悟る。
ディンという小さい少年を通して垣間見える、先生の姿に、人々は魅入られているのだと。
まもなく少年ディンは、先生でさえも、ブラジウスの重鎮であるという立場をもってして、人びと頭を下げさせているのだと発見する。
ディンは八つにして、その身を持ってして学んだのだ。
人間の価値は、自分ではどうしようもないところで決まるのだ、と。
誰もディン自身をみることはなく、ディンを通して、ディンの背後に立つなにものかを見ているのだ、と。
そしてそのしがらみから、逃れる術はないのだ、と。
ならば、自分は、頭を下げさせる側に回らねばならない。
母と同じ轍をを踏むことはしてはならないのだ。
さもなくば、自分が息子か娘かをもったときに、いまの自分と同じ苦しみを味わうことになってしまう。それだけは、避けなければならない。
だから、ディンは地方豪族の屋敷から帰る道すがら、先生告げた。あなたのようになりたい、と。
「この道は辛いぞ。常に他者と競争をしいられ、負ければ全てをうしなうことすらありうる道だ。それでもかまわないというのかね」
先生は、穏やかな口調でいう。
やめておけ、と彼はそう言いたいように感じられたが、ディンは意に介さなかった。
「もちろんです」
強い意志をこめて、ディンは言い切った。
先生はディンをじっと見据えた。
穏やかな表情の奥で、冷徹な眼差しがディンを試しているように、子ども心にひしひしと感じられた。やがて決意が変わらないのを見てとると、静かにいった。
「よかろう。では我々は、お前が常に、清貧に努め、教会の意思に従う限り、お前を支える守人となろう」
その瞬間から、二人の間柄は師弟の関係になった。
ディンには組織に尽くすという意味で、それなりに才があったようで、磨けば磨くほど伸びていった。
皆が己を通してブラジウスをみるのであるならば、ブラジウスに求める賢者の姿を思い描けばよい。
それを実現したのが、自らの師であるのだから、師の言葉に疑念を挟む余地はない。
それがディンの哲学で、それに従って、棒大な数の書を読み込み、書に費やした費用を除いて、稼ぎのほどんどを教会へ寄贈し、誰よりも早く教会に出向き聖女ために祈るのだった。
そしてディンはそれなりの稼ぎを得るようになり、先生の勧めに従い、奴隷を買い、さらに充実した生活を得るに至った。
自他共に認める、優秀で前途有望な、未来ある若者の出来上がりだ。
なんて自分は幸運なのだろう。
ディンは寝台の横にいる女性の温もりに、満足のいく充実感を得られないまま、もうその言葉を一度噛み締める。
ブラジウスの用意した高価な一室で、贅沢に女性を抱くに至ったのだから、自分はなんと、有能な人間なのだろう。
そう信ずることで、心のどこかで常に感じている、一抹の不安と寂しさとを紛らわすのだった。
今の自分が、少年ディンに華やかな衣装を着飾っただけの、何も持たぬ少年のままなのではないか、という微かな不安。
しかも、立場をいくら固めても、女を抱いたのだとしても、消えさることはないという、確信めいた予感があった。
「ねえ。だんなさま」
隣の女が、耳元でささやく声で、ディンは現実に引きもどされた。
「だんなさまと初めてであったとき、まさかだんなさまに抱かれることになるなんて、思いもしなかったわ」
「そうだね。でも俺は出会った瞬間から、君と触れ合いたいと思っていたよ」
「ほんとうに」
そういうと、彼女は声を上げてわらった。
「ほんとうだとも」
「うそ。ぜったい、うそ」
「嘘じゃないさ」
「そんなこと、ありえないわ」
「どうして」
「だってだんなさま。あたしと出会ったのは、今日がはじめてだと思っているでしょう」
ディンは束の間黙り込み、辿れるだけの記憶をざっと眺め回してみるも、該当するものはないように思われた。
「どこかでお会いしましたっけ。一応、思い出そうとはしているのですが。申し訳ない。お名前をお伺いしても」
「だめよ。夢は夢であるからこそ、尊いものなのよ。
夢が現実と繋がらないのであれば、わたしとだんなさまとの関係は、夢のなかに留めるのが美しいことなのでしょう。
でも、先に規則を破ったのはあたしのほうなのですものね。
あなたのおかげで、妹を育てていけているの。そのお礼がいいたかっただけなの」
そういって彼女は、おかしそうにからからとわらった。
「あたしはあのとき、すごい啖呵を切ってしまいましたもの。
妹をノマドにしないでくれって。
だんなさまがお得意さまのお偉方だとわかっていたら、ぜったいにいわないはずですもの。
きっとあたし、きっとなにも見えていなかったのね。
ねえ、だんなさまはお優しいから、きっと、わたしの過去のささやかな誤ちなんて、簡単に許してくださるわよね」
そういって、女性はディンの胸元に手をおき顔をもたれかからせた。
しかしディンは、今や上の空だった。
その啖呵には覚えがある、アシャと出会ったばかりのころの、貧民街で投げつけられた、予想だにしない言葉だったのだから。
あの少年が、いや、しかし。
問題はそこではなく。
清貧を尊ぶブラジウスが、売春にも手をだしている……?
ディンは顔を手で覆い、深く深く息を吐き出した。
師匠のいう学びという言葉の意味に、遅ばせながら気がついたのだ。
先生の言葉は、てっきり男になれ、といっているのだと解釈していた。
しかし、事実はこうだ。ブラジウスの行なっている富の再分配について、気づけといいたかったのだ。
すみやかに、音もなく、ディンの住う世界にかかっていた薄布は突然に、剥ぎ取られていく。
なにも見えていなかったのは、ディンの方だった。




