23 ―― ディンが真に欲しかったもの
二つ折れの階段と、床に敷き詰められた絨毯と、装飾の施された手すり。
貴賓の来客を意識したであろう華やかな作り。
清貧を掲げるブラジウス教会の総本山にふさわしいものであるかという点について、普段のディンであれば葛藤することになったであろう。
階段の先の回廊では見事な透彫の額縁に飾られた、ブラジウス教会の歴史的瞬間を描いた絵画が並べられ、正面奥の壁には、旗を掲げ、人々を先導する聖女の姿が、精緻な筆づかいで描かれていた。
しかしながら、彼が関心を払う対象は、青年の手を優しくにぎってくれる軽やかで弾力に富んだ手のひらと、大胆に布をとりはらい、むき出しになった白く小さな背中だった。
彼女はなにものなのだろう、とディンは霞む頭で考えた。
上流になればなるほど、令嬢はそう簡単にダンスをしないものときいている。
どこかのお説教の折に、小耳に挟んだ与太話であるが、確かに貴婦人がたは、微笑み誘惑してくるばかりで、互いにどこか牽制している様子が感じ取られた。
毛皮であしらわれ、宝石で飾り付けた、この世の贅を謳歌しているように見える貴族たちにも、我ら庶民には見えていない、暗黙の駆け引きや決まりに満ち溢れた、わずらわしい世界があるのかもしれなかった。
しかし、彼女は迷うことなく、自分のもとに踏み込んできたように思われた。
少しばかり名前は売れたらしいが、自分は一介の司祭にすぎないというのに。
彼女はいったい、何者であろう。
どういう立場の人間なのだろうか。
その問いは残念ながら、ディンの思考にのることはなかった。
思考よりはるかに影響力をもつ現実が、ディンに囁きかけたからである。
二人は、とある扉の前で立ち止まった。これまでの装飾に負けず劣らずの透かし彫りの入った扉に彼女が手をかけた。
来客を歓迎するかのように、扉は音もなく開いた。
彼女が一歩踏み入り、誘うようにディンの手を引いた。
ディンはふと、立ち止まった。
胸が締め付けられるようにいたんだからだった。
それはディンのなかに残った微かな良心からの忠告だった。
このまま、流れに身を任せることで、取り返しのつかない何か起こり、その出来事を境に、それまでの自分とこれからの自分が、決定的に変わってしまうという確信めいた予感。
果たしてそれは、ディンの望みうる変化であるかを、ディン自身に見極めるべきだ、という問題の提起だったのかもしれない。
しなやかな指が、再びディンを引いた。
胸の痛みは霧散し、これから起こるであろう出来事に否応無く胸を高鳴らせながら、ディンは、未踏の地へと踏み込んでいく。
ディンがすっかりなかに入ると、扉は音もなく閉じられた。
外界からの音は完全に遮断され、沈黙だけがその場を支配する。
人肌に温められた空気と、脳裏を揺さぶるような甘く狂わしい香が焚かれている。
明かりとりの窓は一切なく、あらかじめ灯されれていた燭台のいくつかが、部屋で唯一といってもよい寝台を照らし出している。
その微かな明かりを受けて、女性の艶やかさが際立ってみえる。まるで、聖と俗をそっくり入れ替えてしまう空間であった。
そしてその空間では、ディンこそが主役だった。
天蓋付きの寝台にディンを腰掛けさせると、女性は長い赤髪をひらめかせて背を背けた。
長い赤髪を肩から前にながし背中へ手を回して紐を解いていく。
燭台の明かりが、きめ細かい白肌が外気に触れる瞬間を扇情的に照らし出している。
ドレスのスカートが、静かに床に崩れ落ちて、輪を描いた。
背中から臀部、大腿までつらなるひと繋がりの曲線があらわになる。
彼女は肩にかけていた髪を、背中にもどした。真っ白な背中にさらさらとこぼれ落ちる赤髪が、秘ごとを垣間見た紳士をとがめるように、覆い隠していく。
そして、彼女は、ゆっくりとディンへむきなおった。
あらわになるのは、歓喜と憂いと恥じらいとを混濁した曖昧な表情だ。
柔らかい頬に、形のよい顎。その下の、鎖骨からなだらかにはじまり、急に立ち上がる胸元。
柔らかく張りのあるそれは、彼女の動きにあわせて、かすかに震えている。
その下には、絹の肌触りを思わせる柔肌と、申し訳程度のへその凹くぼみと、下腹部にある、恥ずかしい『それ』を覆い隠すように密に生い茂る、乙女の飾り毛。
彼女の生まれたままの姿は、花開く前のつぼみのそれで、彼女の持ち前の、清らかで、かぐわしく、誠実さと純真さが伝わってくるようだった。
彼女が、ディンの両方にふれ、ディンを押し倒した。
そのまま、上乗りになり、ディンの唇に、触れるだけの口づけを与えた。
それから、耳元でかすかにささやくのだ。
「さあ、いよいよです」
その聖域に踏み入る権利を与えられているのだ。
ディンの目はもはや、彼女以外のなにものも、捕らえてはいない。
彼にとって、世界は彼女の存在以外のなにものも、ありはしなかった。
ディンは、これから死ぬのかと思うくらい、必死な顔で、彼女の茂みの先を凝視した。
そこから先になにがあったのか、ディンははっきりと知覚することはなかった。
ただ、下腹部から伝わってくる快楽に押し流されるのみであった。
彼女の唇から押し殺した声が漏れ聞こえ、その声のなかに潜む艶やかなものを感じると、ディンの欲望は切ないほどにかき立てられた。
そして、快楽がつのるたびに、ディンの身体はいまかいまかと身震いする。
少しでも今という時間を楽しむべく、ディンは快楽が脈打つたびに歯を食いしばった。
そして、ありとあらゆる高まりが限界をこえたその瞬間、ディンは本能の命ずるままえに、己の欲望を爆発させる。
そのとき、彼の脳裏に浮かんだのは、深い深い後悔の念。
この尊い感覚を共有する相手が、目の前の赤髪の女性ではないという事実が、暗い感情を呼び起こしている。
―― ディンが真に欲しかったもの。
それは、家で自分の帰りを待っている、少しやせ気味の女性だった。




