22 「良い物を知るということは、人生を豊かにする」
「先生。これなら誰も文句は言いませんよね?
親方さんの知識には、自分の命以上の価値があります。
これで、親方さんの命を買い取りたいと思います」
「素晴らしい。君を推薦したわたしの目に、狂いはなかったようだ」
ディンの獲得した知識。
ブラジウスの事故原因と、その対策。
そして、その知識を体系化し、共有するために数式かするという一連の流れ。
それを成し遂げたことへの喜びと、師からの称賛にディンは、震える。
先生は、目を細めながらディンを見つめていたが、やがて静かな口調でいった。
「そう肩肘を張るでない。ブラジウスは結果をこそ尊ぶ。
君は、ブラジウスの期待に応えた。それだけのことだろう?」
「はい、先生」
「まだ硬いぞ、ディン」
師はくつくつと笑うと、いった。
「君は、そろそろ息抜きを覚えてもいい頃かもしれん。息抜きの仕方を、教えてやろう」
「息抜き、ですか?」
「年齢も、立場も、申し分ない。今晩は、密会にも参加してもらおうか」
壮麗な蒼天を描いた天井画。
無数の燭台に照らされた大広間は、夜の仄暗さと混じり合いながら上品な雰囲気を醸し出している。
美味佳肴をそろえた、立食形式の会場では、人々が皿や葡萄酒を片手に、談笑に花を咲かせている。
豪勢を極めたような場所は戦勝会に引き続き二度目だが、ディンはどうにも、いつもの調子がでない。
幾度となく女性に声をかけられたが、結い上げた純金や漆黒の髪だとか、女性の肌を際立たたせる絹繻子の衣裳だとか、強調された豊満で形のよい胸だとかを前にすると、どうにも気後れしてしまうのだ。
自分の容姿をそれほど気にかけたことはない。
ただ、ブラジウス教会に捧げる熱意と大量の本を読み込んだ自信と、人並み以上の頭の回転があることについては自負があった。
しかし彼が人生を捧げて会得したそれらのことは、知己に飛んだ会話をする女性相手には、まるで役に立たなかた。
彼の心境はいまや、群のなかで母親を見失った子羊さながらであった。
そんな憂い顔をうかべる青年というのは、貴婦人方の興味をそそるものらしい。
次から次に話しかけられては、相槌を打ち、かろうじて偽りのない微笑をうかべるのだった。
「先生」
見慣れた師匠の姿を目にし、ディンは心からほっとした表情をうかべた。
「おお、きたな、ディン」
すでに出来上がりつある師匠は、真っ赤な顔に笑みをうかべながらディンに近づいてきた。
「ああ、師匠」
軽く杯をならして、酒を口にする。
会場の空気だけでも酔いそうなのだ。
この上酒まで飲んでしまっては、正気を保っていられる自信がなかった。
「あいかわらずの賑わいですね。密会がこれほどだとは思いませんでした」
「この世に不要なものは、ひとつだってないぞ、ディン。
わしらは、我々がブラジウスを担う尖兵である。
この場は、お互いが、同じ目標を掲げた同志であることを確かめあうためにあるのだ」
「しかし、ここまで華やかである必要があるのでしょうか」
「形は何よりも大切なものだ。
ここにいる誰もが、今か未来に大任を担い、時間に追われる生活をしているのだ。
そのなかで、貴重な時間を捻出して、ここに集まってくださっている。
ならば、お互いに良い時間を過ごすために誠意を尽くすことは、なにも不思議なことではないだろう」
「ですが、この豪華な食事は」
「しっかりと味わいなさい。良い物を知るということは、人生を豊かにする」
そいうと、手を上げて給餌を呼び止めた。
食欲をそそる品々が盛られた皿をうけとり、ディンに進める。
軽く礼をのべ、皿を受け取ったが、一口食べただけで、手が止まってしまった。
どうにも、高価な味付けというものは、ディンの口には合わないらしい。
喉の奥に引っかかるような飲み込みにくさがあり、食が進まない。
帰ったら、アシャに何か作ってもらおう。
良い覚ましに優しく染みる、暖かいスープがいい。ディンはその思いつきを気に入り、少しだけ気分を上向かせながら、葡萄種で喉の引っ掛かりを流し込んだ。
「わたしのような駆け出しが、この味をわかる日がくるんでしょうか」
師匠はおおらかな笑みをうかべながら、大きく頷いてみせた。
「大丈夫だ。すぐにここの料理の価値がわかるようになる。
それでは、心から楽しみたまえ、若人よ。
堅物のお前にとって、この場はまたとない学びの場になるだろう。
そろそろ刻限だ。君も存分に楽しむがいい」
先生が立ち去ってまもなく、会場にならべられた円机が片付けられ、ややもすると、手に手をとった男女の二人組が、会場の中央に集まってきた。
そして、緩やかな三拍子を奏で弦楽弾が流れ始め、会場の空気が変わっていく。
はなやかな衣装の布ずれと、妙に響く自分の鼓動に耳を傾けながら、ディン自らの中に沸き起こる不自然な感覚に心をかきみだされていた。
少しばかり、飲み過ぎたようだった。
会場の端で壁にもたれかかり、一様な笑みを浮かべる貴族や貴婦人方を眺めやるだけで精一杯である。
貴婦人たちの淑やかな身のこなし。
優美で、隙がなく、はなやかな裾が身体のまわりでかろやかに舞っている。
ディンの視線に気付いたひとりの貴婦人が、柔らかい笑みを浮かべて首を傾げてみせた。
赤い髪を豊富に蓄えた、愛らしいえくぼの女性だった。
そのかが笑顔は軽やかで、彼女の赤い髪の色によく似合っていた。
赤髪の彼女はガウンに縫い付けた宝石や毛皮は一切ない。無地で装飾もない淡紅色のドレスはほとんど無地で、耳に下げた小ぶりの宝石だけが、彼女の身につけた装飾だった。
だが、ディンにとっては、会場の高価で華やかな品々で着飾った女性のなかで、一際輝いてみえた。
気がつけば、その女性を、ディンは目で追っている。
軽やかに踊る姿に、不思議と心を打たれた。
右に左に回るたびに、彼女のドレスの裾がふわりと宙を舞う。鮮やかな赤い髪が、音もなくひろがる。
何もかもが、彼女の美しさを際立たせるための演出のようだった。
曲が終わってしまったとき、ディンは心底がっかりした。彼女の舞がおわると共に、大袈裟ではなく、世界が終わりを迎えたように感じられたのだった。
ディンは意気消沈し、視線は足元に落ちていった。世界がぐらぐらと揺れ、何もかもが崩れ落ちそうな錯覚に、ディンは襲われた。
だからディンは、曲の終わりに、まっすぐに彼のもとに歩み寄った彼女声をかけられた時には、文字通り飛び上がった。
その女性は、礼儀正しく、軽く膝をおってから、ディンに尋ねた。
「一曲、踊っていただけるかしら」
そうして差し出された手を、ディンはたっぷり三拍分はみつめただろう。それからやっと彼は、もやのかかった思考のなかから、彼女の求めていた答えを探し出した。
男性は女性を導くための存在しているのだということを。
ディンは彼女の手を引き、広間の中央付近でかかとを返し、彼女に向き直った。
ディンに馴染のない、爽やかな香りがした彼の鼻腔を存分にくすぐった。
その、おそらくは香水と思われるその微かな甘酸っぱさに、あわれディンは、顔の表情も手足も、舌先さえも麻痺してしまったように感じられた。
「なぜわたしのところへ」
ディンがかろうじて絞り出せたのは、そんな当たり障りのない一言だけであった。
赤髪の女性は、おかしそう笑うと、わずかに首を傾げてみせる。
「あなたさまが、わたしを見つめていましたでしょう。あんなに熱心に見つめられたのなら」
ディンはじわじわと赤くなっていく顔をとめられなかたった。
「あなたのような可憐な方と、一曲踊ってみたかった」
普段のディンであれば到底口にしないような言葉が、すっと口をついてでた。
彼女は、恥じらいながら頬を染めると、まんざらでもない様子で笑みをうかべてみせた。
それだけでディンは、天にも登るような気持ちだった。
ああ、叶うなら、彼女も可愛らしく微笑んでくれたなら。
彼女とは誰のことだろう?
目の前の女性ではない。
ディンのなかに、曖昧な何かが引っ掛かった。
しかし、夢見ごち彼のなかでは、それはあまりにも些細なことだった。
調べが始まった。一回転、二回転と景色がかわるうちに、その些細な疑問は忘れ去られてしまった。
ダンスが、相手の技量ひとつで、どれほど踊りやすくなるものか、不覚にもディンは、今この瞬間まで知らなかた。
身体が軽く、ひとつひとつの動作が、ディンの心の機微を表現しているようだった。
楽しい。
そう思うことが意外ですらあった。
ディンが微笑むと、彼女も微笑みを返してくる。
まるで、二人だけの秘密を約束したようで、ぞくぞくとした喜びが胸のうちを支配する。
曲がおわり、ディンと彼女は、向き合う形で立ち止まる。
膝を曲げてお辞儀をする
名残惜しくも、次の方々に場所を譲るべく、部屋の隅へ。
そのささやかな道すがら、彼女はディンにだけ届く小さなこえで、ささやくのだった。
「ねえ、ふたりで抜け出しましょうよ」




