20 「あの塔が崩れた原因について」
ディンの切り札は、アシャの知識だった。
本来ならば、教会の然るべき機関に提出し、その書の価値と意義について、そして工匠が無実であると訴えるべき知識。
それをまとめたのが、ディンの手にした髪の束である。
教会に、正統な手続きを踏み、裁判をしてもらうための、客観的な証拠である。
だが、そんな悠長なことをしていては、本当に大切なものを取りこぼしてしまう。
ひと一人の命を、取りこぼしてしまう。
だから、今この瞬間こそが、切り札を切る瞬間なのだと、ディンは直感した。
どんな知識であれ、ひとの命には変えられないのだから。
ディンは、懐から書類を取り出し、机に置いた。
「それは」
もちろん、少年の視線は、彼の取り出した紙束に注がれている。
そこにある情報の価値について、彼は逡巡するに足る価値があるのかと、問う。
拷問を好んでいるとしか言いようのない少年に対して、感情に訴えたところで、心に響くとは思えない。
ならば、少年が心酔する法則に従って、言葉を紡がねばならない。
ディンは、答えるのに随分と時間がかかったような気がした。
相対する少年に、一つの言葉ですらも、間違いであるかのように思えてくる。
「あの塔が崩れた原因について分析したものです」
少年は座ったまま少し身体をうごかして、ディンと面と向かい合う。
それから彼は、瞬きを繰り返した。
それからディンの方へ手を差し出した。
「拝見しましょう」
少年は、手にした紙束をぺらぺらとめくる。
実のところ、ディンに理解できるものではなかった。
何かを考えている様子で、書類に目を落としたまま、机をこつこつと叩いていた。
ディンと目があった。
「話になりませんね」
それまでよりは、幾分か感情のこもった声でいった。
「あなた、これ、私に説明できます?
それとも、わたしみたいな素人には、理解できない高尚なものだとかいって、煙に巻きます?」
少年はため息をついた。
彼の言うことは正しい。
そこに記されている記号の意味が、ディンにもさっぱりわからない。
理解できないのでは、なく、読めない。
情報が集積するはずのブラジウスでさえ、見たことのない文字で記述されている。
「情報は、お互いにとって解読できる形で共有できてはじめて、価値をもつものなんですよね。
そしてそれは、知る人が少なければ少ないほど価値が高く、誰よりも先に知ることでお金に代わるのです。
あなたの目の付けどころは悪くありません。
さすが、ブラジウスのエリートさんです。
地頭は悪くない。
ですが、商人としては、まだまだですね。
この書類は、この時間に対する対価として、もちかえらせていただいても構いませんよね?
一応、持ち帰って検討はさせていただきますよ。
ひょっとしたら、わたしどもの関係者のなかに、この蛇が紙の上でのたくったような文字の意味を理解できる者がいるかもしれませんので。
まあ、仮にいたとしたら、なんでうちみたいな商会に使われてるんだって話になりますけど」
試すでなく、対等に扱うでもなく。
大人が分別のない子どもをさとす時のような口調で少年はいった。
ディンは拳を握りしめた。
どれほど熱くなっても、真剣になっても、ひたむきに取り組み続ける純粋さを持ってしても、叶えられないもの。
それは、今この瞬間に持ち合わせることのできなかった知識である。
過去に学び損ねた、あるいは、とりこぼしてしまった知識たち。
自分が、アシャの観る世界を理解していたならば。
わずかな時間ではあれど、己にはその機会が与えられていた。彼女がそれを記してから、寝る間も惜しんで学んでいたならば、あるいは。
ディンは心から、悲しみの声を上げた。
すると心が、厳かな声をあげた。
もっと、過去に忠実であれ。
かきあつめた知見に忠実であれ。
ディンには、これ以上、少年を押しとどめる手段はなさそうだった。
ディンの知りうる方法といえば、聖女の教えを日常に置き換えるような、感情と道徳に訴えるものでしかない。
これ以上、少年に何を告げろというのだ?
考えあぐねているディンを前に、少年は立ち上がり、一礼する。
交渉はおしまいだ、というように。
そして、ディンに背を向ける。
彼は、また仮面をつけて、拷問に向かうだろう。
商人と拷問人を両立する少年。
彼は、先天的な特性が後天的な訓練かはともかく、その両者を両立している。
天才的な俳優のように、仮面を使い分けている。
はた、とディンの心に閃くものがあった。
それは何も、商人だとか拷問人だとか、そういった大きな括りではなく、もっと日常に適したところに現れるのではなかろうか。
例えば、契約を取り交わす際の、交渉の席だとか。
その場でもっとも金を手にできる状況を、演出しているのだとしたら。
詰所に入り、変わったことといえば、時間を無為に経過したことと、アシャの紙束の持ち主が変わったこと。
ディンには読めない紙束であり、おそらく少年にも読めない。
そこに記されたのは、かもしれない、という可能性のみである。
その紙束には、工匠の新しい工法や手段について記されているかもしれない。
その紙束には、客観的に説明できているかもしれない。新たな知識を独占できるまたとない機会かもしれない。
それが、権威ある大聖堂を建造できるほど知識だ。
しかも、言語化されているのだとしたら。
馬鹿馬鹿しい、と人は鼻で笑うだろう。
しかし、ディンの側に、はるか東方より連れてこられた奴隷が存在していることを、少年は知っている。
彼女が、ブラジウスにない知識を蓄えているかもしれない。
彼にとっては、可能性があればいいのだ。
仮に、理解できずとも、大金が転がり込む可能性を、みすみす見逃すことはできないのだ。
彼には、背負うべきリスクがないのだから、なおさらだ。
彼が、商人である限り、彼は、可能性を捨てきれないのだ。
ディンは、確信を持てないまま、だが、力強い声でいう。
「その言葉の読み書きについて、お教えしましょう」
少年が、ゆっくりと振り返った。
彼は悪びれもせずに、人を喰ったような笑みを浮かべていた。
ばれたか。
彼の顔には、そう書いてあった。




