02 「この子はいま、生きている」
「手を握ってあげてください。そのほうが、落ち着きますので」
マキナは事務的な感情のこもらない声で患者の母親に告げると、革紐を通した太い針を取り出した。
ぐったりした様子で寝台に横たわる少年の側に向きなおり、彼の四肢を太い縄で寝台の隅にくくりつけていく。
慎重な手付きで少年の額に当てられた布を取り払う。
生え際から眉の上あたりまで、ぱっくりと裂けていた。見る間に血がじわりと湧き上がり、傷口を汚していく。
少年が、大きな悲鳴を上げた。
マキナが、口に含んだ酒精を傷口に吹き付けたからだった。
母親が身を切られたように少年の拳を握りしめた。
マキナはもう一度酒精を口に含むと、自らの手に酒精を吹きかける。
そして、昼間から灯したロウソクの火で針をあぶった後、少年の皮膚に針を食い込ませる。
少年が、くぐもった悲鳴をあげた。
ふせられた少年の額に、ぽつぽつと汗が浮かぶ。
針が額に刺さるたびに、あるいは糸を引き絞るたびに、苦しげに身を捩り、頭上にくくりつけられ両手でぎゅっと拳を握りしめた。
母親は悲痛な表情で少年の手を握りしめ、慰めの言葉をかけ続ける。
作業を続けるマキナは規則的なリズムで機械的に、縫う手を動かしていく。
少年の唸り声は、はじめこそ激しかったものの、やがて声はかれはて、反応が小さくなっていく。
そうして、唸り声がなくなったころ、治療は終わっていた。
「頭の怪我ですのでたくさん出血しましたが、大したことはありません。
もし、ふらついたり吐いたりすることがあれば、もう一度連れてきてください」
手についた血を拭いながら、マキナは告げる。
母親はマキナに深く頭をさげ、治療を乗り越え眠りについた少年の頬を、いとおしそうになでている。
母親はくるぶしまでの長衣を着て、胸の下あたりで紐を結び、肩掛けを羽織っていた。
継ぎ接ぎだらけでくたびれた長衣は、膝や肘のあたりがすりきれ、少し力を加えれば破けて使いものにならなくなりそうなほど薄かった。
少年を撫でる手も、雑多な作業で固くなっている。
また無償の奉仕になりそうだ、と胸の中嘆きながら、マキナは、目にかかった前髪を乱暴にかきあげる。
ぼさぼさの赤みがかった髪と、血痕の残る前掛け。
身体の線を隠すよれよれの服。
肌はシミひとつなく、きれいに整っていたが、白いというより、病人のように青白かった。
マキナは親子を処置室を残し、ひとり居間に向かう。
居間には、横に長い机と、対の椅子と、銀でできた燭台と、僅かな食器類。
日常生活を感じさせるようなものは、何一つ存在しない、殺風景な居室。
椅子に腰掛け、加えたパイプから微かにただよう刻煙草の薫りを堪能しながら火を点けたのと、訪問を告げる裏戸の鐘が鳴らされたのは、ほとんど同じ瞬間だった。
一瞬の逡巡の後、マキナは答えた。
「あいてますよ」
微かに軋みながら、扉が開かれた。
戸口にたつものの姿を認めて、マキナは眉をひそめると、深く煙を吸った。それから顔を上げ、静かに口をひらく。
「教会の生え抜きが、場末の薬師になんのようですかな」
教会の生え抜き――ディンは、苦虫を噛み潰した表情で答えた。
「君は医者で、この子は患者で、俺は患者のつきそいだ。そういうことでよろしく頼む」
「ここは、死に最も近い場所だ」
パイプをくゆらせながらマキナはいう。
彼女の吐き出した煙が、輪となって登っていき、かき消えた。
マキナは緩慢な動作で立ちあがると、明かりの灯っていた銀の燭台をどけ、患者を寝かすようにうながした。
ディンが抱きかかえたた女性を、うつ伏せの格好で横たえる。
運びこまれた患者は、医療をたしなんだ者でなくとも、彼女が衰弱しきっているのが見て取れる。
端的にいって、酷いという表現意外に、言葉がでなかった。
今なお背中からにじみ出る血が、彼女から活力を奪っている。
ゆっくりと、彼女に緩慢な死が忍び寄っている感じだった。
「いくらつかうんだ」
息をするのも苦しそうに顔をしかめる彼女のことを、マキナは無表情に見下ろしていた。
汗と埃と苦痛とがないまぜになって、彼女の容姿をわかりにくくしている。
けれど、目鼻立ちの整ったさらの生娘だというのが、マキナの見立てだ。
飾りにするも、そばにはべらすも、慰みものにするもよし。
使い道はいくらでもある。
男であれ、女であれ、容姿の整った者は、いいようになぶられたあと、気の向くままに行為を楽しめるよう、仕込まれる。
彼らが歳をかさね、行為の対象としての魅力が失われたら、畑に放り出され、暑さや節々の痛み、飢えに悩まされながら、死ぬまで農作業に従事する。
彼女のこれからの人生は、主人へ奉仕という形で搾取されうるのだ。
主人に忠実に仕えるように仕込まれるのも、そんなに不幸な人生ではない。
まあまあな幸せであろう。
大抵のところでは、奴隷が死ぬことなんて、珍しくもなんともないことなのだから。
運があれば、自由を手にすることもあるかもしれない。
主人が死んだだとか、生活が苦しくなったからだとか。
新しい主人に届けられる途中に隙があったとか。
だとしても、身分を証明できるものを持たぬものが、ブラジウスで受け入れられることはない。
物乞いになるか、身体を売るか、犯罪に手を染める。
犯罪に手を染めた者がどんな人生を辿るのかは、マキナ自身がよく知っている。
だからこそ、問う。
果たして、助ける意味があるのかどうか、と。
「この子がたすかるだけの額を」
マキナは、感情のこもらぬ視線で奴隷をみ、それからディンを見た。
「今からでも契約を破棄してくることをお勧めする。
違約金を払ってでも、健康なやつを買ったほうがいい」
つかの間交差する、両者の視線。
訪れる沈黙。
沈黙を壊したのは、奴隷のうめき声だった。
彼女が痛みに身体を引きつらせ、喉の奥でうめいた声。
「この子はいま、生きている」
ディンは絞り出すようにいった。
消え入りそうな、かすれた声だった。
「不幸なのは、この娘だけではないと思うんだがね」
救う対象を選り好みするのか、という皮肉を込めて、マキナは問うた。
「俺が買ったんだ。
俺の手の届く範囲で助けたいと思ったんだ。それでは駄目か?」
「投資家としては、落第点だろうな」
「かもしれない」
ディンは肩をすくめた。
「まあ、今までのあんたの中では、いっとうマシな答えだ」
マキナはそういうと、壁を埋め尽くさんばかりに並んだ薬箱から、数種類の薬草を取り出した。
砥石で軽く越し、白湯と蜂蜜で溶く。
衰弱した奴隷のあごに手をやり、上向かせる。
かすかに開いた口元から、薬湯を流し込んだ。
薬湯を飲み下す喉の動き。
奴隷少女が微かに目をみひらいた。
干からびた唇を微かに動かしたが、声はでなかった。
「これ以上は無駄になってしまいます」
ディンと話すときとはうって変わった、優しい声音だった。
穏やかな口調で、彼女の緊張を解きほぐしていく。
先ほどの少年と同じように、机の隅に四肢をくくりつけていく。
彼女はされるがままに、身を任せていた。布の塊をとりだし、患者の口元にもっていく。
「口をあけて。これからちょっと辛いですから」
「何をするんだ」とディン。
「膿んで固まった皮膚をとりのぞかんと話にならん。はやく気を失ったほうが幸せなんだが」
声をかけながら、縁の浅い金属の盆を取り出し、いくつかのナイフを並べた。
燭台を手元に寄せると、ナイフを取り出し、一本一本を丁寧に火であぶった。
「少しでもまけてほしけりゃ、そこの水瓶に水を並々汲んでくるんだな」
机の側で立ち尽くしているだけのディンに、マキナはいった。
ディンはうなずくと、桶を持って部屋を後にする。
通りに人気はなく、そもそもが陽の光も届かない裏露地。
風雨で色の落ちた、看板がかかっている。
目を凝らしてみれば、看板には、シアーモション施療院と記されているのがわかるだろう。
医師を意味する杯とぶどうをあしらった紋章も添えられている。
ディンが後ろでに扉を閉めたとき、少女のくぐもった悲鳴が聞こえた。
鞭とは異なるものであっても、彼女が味わう苦痛は等価である。
鋭い痛みと苦痛とが、彼女の内蔵を握りつぶしているかのようだった。
弱った身体を必死にこわばらせ、悲鳴を押し殺そうとする彼女の姿が目に浮かんだ。
ディンはたまらなくなって、夜の闇のなかを駆け出した。