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16 「女の子は、綺麗な格好をしていなくちゃ」

 その日、巨大なブラジウスという交易都市で起こった小さな崩落事故は、しかしその場にいた人々の視線を釘付けにするには十分すぎる規模の事故だった。


 石の運搬係が足をとめ、タイルに印をつけて回っていた飛職たちが唖然として立ち止まり、道行く人々は足をとめ、その場の労働者たちは息を飲んだ。


 誰もが見守るなか、アームの荷重によって歪な形で形状を保っていた大聖堂のなりそこないは、わずかな身じろぎののちに、断末魔のようなごう音を立てて崩れ落ちた。

 捲き上る粉塵は、瓦礫そのものを包み込み、あたりを砂一色に染め上げ、現場はまるで濃霧が立ち込めたかのような有様だった。


 そして、事故現場の人々が目撃した、最も異質な出来事。

 それは、粉塵の向こう側から、少年を抱きかかえたアシャが、無事に姿を表したことであった。


 崩落する建築現場に飛び込み、大の大人が何人かかっても持ち上げきれない瓦礫に挟まれた少年を救出し、瓦礫の直撃を免れる幸運を味方につけ、帰還する。

 それは果たして、ひとのなし得ることなのだろうか。


「奇跡だ」


 誰か、ぼそりとつぶやいた。

 その場にいた誰もが、口々につぶやく。奇跡だ、と。

 アシャは、迷いのない足取りで、ディンへと真っ直ぐに歩んでくる。

 彼女の通った後には、赤い斑点が滴り、道を赤く染めている。


 少年を抱えるアシャは、腰から下が、赤黒く染まっていた。

 彼女の足取りは確かなもので、決して彼女の怪我ではない。


 それは少年の血だった。

 少年は、両足の膝したあたりから、己の血を垂れ流していた。

 少年は、膝から先にあるはずの己の身体を、瓦礫の中に置き忘れてしまっていた。


 ぐったりと目をつむったままの少年と、血濡れのアシャ。

 その一種の異様な雰囲気に気圧され、誰もがうごきだせないでいる。


 彼女が崩落直前に飛び込んだ瞬間を目撃したものも、少なくない。

 無謀な行動だ。

 しかし、彼女は無事に生還を果たした。

 無謀な行動だったが、奇跡が起きた。

 賞賛に値する奇跡。

 

 彼女の無表情さと、少年の傷口と、事故現場という非日常がおりかさなり、一種の異様な空気をかもしだしている。


 それは、異質なものとして排除するか、考えあぐねているような、気持ちの悪い沈黙だった。


 街で、人の輪で、遠巻きにされる感覚。

 ディンにも覚えがある感覚。

 一度、異物とみなされると、いつしか、なにをしても構わない相手にされてしまう。

 この空気はまずい。


 アシャは、彼の元に辿り着くと、少年を抱えたままひざまずいた。

 そして悲痛な面持ちで口を開こうとする。ディンはとっさに、胸の前で十字をきり、祝福するように髪に触れた。

 お偉方が部下をねぎらうときの仕草。

 そして、できる限りゆっくりした動作でいう。

 願わくば、周りの人々から、厳かで重々しく見えることを祈りながら。


「よくやった」


 果たして、効果は絶大だった。

 嫌な空気は弛緩し、人々の彼女とディンを讃える歓声という形で、二人を迎え入れる。

 

 死地に飛び込み、少年を救出した英傑と、救出させる決断を下した主人という構図。

 ブラジウスの子弟という立場であるディンが、生還と任務の成功を祝う仕草はブラジウス教会が、神の御業を代行させたのだという、印象を人々に与えたのだった。


 これは、悪魔や化け物の仕業ではなく、正しい奇跡なのだ、と。

 わかりやすい美談として受け入れることで、人々は目の前の出来事を解釈したがっていた。故の、湧き上がる歓声。


 少年を医師に引き渡した後も、歓声は留まることを知らなかった。

 ディンは、羞恥の念を感じながら歓声に答えたのだった。

 ただ、ディンの心中は、羞恥とは異なる気づきによって、穏やかではなかった。


 少年の足が、押しつぶされて形をなさなくなったのではなく、鋭利な刃物かなにかで、切り落とされていた。

 そして、崩落直前か直後かに垣間見た、アシャが棒を一閃する姿。

 

 なんのことはない。

 彼女は、瓦礫に挟まれていた少年の足を、切り落としたという事実えである。


 そして、問題なのは。

 彼女がはためらうことなく人の足を切り落とせる人間だということである。




 現場を後にしたのは、夕刻だった。

 明日は、業務は山積みになるだろうし、あらゆるところから状況の説明を求められるだろう。

 だがそれらの問題は、すべて後で構わない。

 

 生還することではなく、彼女が、人体を切断できるという、おそるべき技量を持ち合わせていること。

 そして、ときとして、その技量を振るうことに、なんのためらいも覚えないという事実。


 そもそも、鋭利な刃物でも、足の骨を断つなどということは、非常に難しいことだと聞いている。だというのに、彼女はそれを、そこいらにある棒切れで成し遂げてしまうのである。

 彼女がその気になるならば。

 帰路につき、ずっと頭をそんな考えに縛られていたディンは、アシャから声をかけられて、飛び上がった。


「え、なに?」


「ですから、主人さまのお召し物を、汚してしまいました。伏してお詫びいたします」


 はじめディンは、何を言われたのかわからなかった。己の服を眺め、アシャの格好を眺めた。少年の血で汚れた、赤黒い姿である。

 どうやら、買い与えた服の事を言っているらしかった。

 彼女は、決定的に、ずれているらしい。ディンは、薄ら寒いものを感じずにはいられない。


「もう着れないかな。血の匂いにむせ返りそうになる」


 ほの暗い感情が、言動に現れてしまったらしい。

 含みのある表現だった。思いのほか強い口調に、ディンは自分でも驚いた。

 それから言葉もなく歩いていたのだが、ひとつ目の角を曲がってあたりで、ディンは堪えきれなくなった。


「アシャ」


「はい」


 彼女も立ち止まり、ディンに向き直った。まるでディンからの問いかけを待っていたかのような、滑らかな口調だった。


「君は、人間なのか」


「わかりません」


 陽が水平線の向こうに消え、弓なりの大地が赤々と地平線を染めている。

 文明の都の明かりが、はるか彼方に感じられた。あたりにはひとの気配もない。

 初夏の風が、ざわざわと梢をゆらしている。遠くで、獣たちの呼び合う声が聞こえた。

 ディンは拳を握りしめた。握りしめてから、また手を離した。

 努めて息を深く吸い、ゆっくりと吐く。


「人間でない、とすると、君は」


「何にみえますか」


 アシャが感情のこもらぬ瞳で見つめた。

 ディンも、真剣な表情で見つめ返した。

 人に仇なすものにはみえない。

 姿は尋常である。

 目元もはっきしとしているし、しゃんと立つ様子もいたって正気に見える。

 初めてあったやせ細った姿より、よほど人間らしい。


 しかし、彼女の話す言葉のほとんどが、ディンには理解できない。


 彼女の知識は、人類には早すぎるようにすら感じられる。

 そして、昼間の出来事。


 彼女はヒトに在らざる身体能力。


 そうやって考えると、細く手折られそうな顔には、鋭いものがある。

 彼女の淡い紫の瞳に、気高い魂を持っているように見えた。


 ディンは、なんと答えるべきか逡巡し、彼女の瞳から目を逸らした。 

 力強く、意志を秘めたその瞳。彼女からその力を見出した瞬間から、惹かれている、その瞳。


 彼女が何を持ち、何を考え、何に嘆き、どんなことに喜びを感じるのか。

 ただ、知りたいと思ったのだ。

 彼女が何者であれ、ディンが、彼女を知りたいと感じたことは、まぎれもない事実だった。


 俺は、他者を虐げてきたツケが、いつ自分に回ってきたしても、その瞬間まで、彼女を見ていたい。


 そう願ったのではなかったのか?

 ディンのないまぜになった思考を知らないアシャが、ささやくように言った。


「風が出てまいりました。そろそろお帰りになられたほうが」


 ディンは、アシャの顔をみた。

 いつもどおり、意思の読み取れない無表情である。

 しかし、感情はどうあれ、彼女が示してくれた提案は、間違いなくディンを気遣うものであった。


「そうだね」


 ディンはそう答えて、深く息をはいた。

 なにを深刻に悩んでいたのだろう。

 これまでに、彼女が自分に牙を向いたことが、果たしてあっただろうか。

 アシャからは、もらっているばかりの俺が、何をためらうと言うのだろう。


 現場がきしみ声をあげ、柱が崩れ落ちる瞬間。俺は、俺自身が生きたいと願った。

 損得は、実のところ、言い訳に過ぎない。

 とっさの時、俺の心を占めたのは、生きたいという純粋な感情だった。


 だから、俺は逃げた。


 しかし、彼女は飛び込んだのだ。助けに向かうことができたのだ。

 それが、事実だった。

 動かしがたい現実だった。


 誰が生き残るだとか、誰を生かすことが人類のためになるだとか。

 そういう損得とは全くことなる原理で、彼女は世の中を観ている。

 ディンは、顔を軽く叩いて、それから左手をアシャに差し出していった。


「その前に、呉服屋さんに寄り道かな」


 アシャは、差し出されたその手をみて、目を丸くした。

 それから、ディンを見つめ、ふたたび、彼の左手をみた。手のひらをさらした、友好を示すその仕草を。

 なにを言っているのだろう、と戸惑うように視線を惑わせる彼女に、ディンは告げる。


「その前に、湯浴みが先かもしれない。

 いや、着替えがそもそも必要だから服が先か。いっそのこと、呉服屋さんでお湯を借りてしまおうか」


 それでも動かない彼女に、ディンはつけくわえるようにいった。


「アシャ。君がだれであれ、そもそも女の子だ。女の子は、綺麗な格好をしていなくちゃ。そうだろう?」


 普段あれば、恥ずかしくてとても言えないような言葉だった。

 今まで口にしたこともないし、相手もいたこともない。

 でも、そんな歯の浮くような言葉は、するりとディンの口からこぼれたし、ディンにとって、自分が心から感じたことを口にすることは、ごく自然なことのように思われてのだった。

 そしてアシャの方も、大真面目に頷いていった。


「そうですね。忘れるところでした」


 アシャは、わずかに表情を崩し、ディンの手をとった。

 ディンはその手を力強くにぎりしめた。アシャも、確かな力で、握り返した。

 ただそれだけのことで、ディンの心は、穏やかな気持ちで満たされたのだった。

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