14 「私のお金ではありませんから」
彼女が先導する形で、階段を上っていく。
物の片付いた各階は広々としていて、ディンは生まれ変わった自分の住処に、ただただ驚くばかりであった。
アシャが見せたがっていたのは、最上階だった。
広やかなその部屋は、一面が、外を見下ろす大窓で、二面がディンの半生をかけて収集した本の棚と、申しわけなさそうに備え付けられた出入り口だった。
そして残りの一面は、部屋の端から端までしめる長方形の黒色の板が、上下に二枚ならんでおり、その黒い板を埋めつくさんとばかりに、白色で言葉や絵が書き連ねられている。
教会付属の学校でしかみたことのないような書写板が備え付けてあった。
「これは」
記号や数字が並べられ、言葉はほとんどない。
問いかけるディンに着席するよううながしつつ、彼女自身はは書写版に歩み寄り、先端の丸まった一本の白色の棒を取り出した。
利き手で人差し指と中指で挟み込むように握り、鼻の付け根のあたりを軽くさすった。
顔に掛けた何かを持ち上げるような、不思議な動作だ。
アシャが咳払いをすると、ディンは反射的に背筋を伸ばした。
神学を先達から学ぶときのような、あるいは、先生と議論するときと同種の緊張を、感じ取ったからだった。
「月が落ちてこない原理の前に、基本的な物体の落下について、意見を共有しましょう」
アシャの講義は質点の定義からはじまった。
ある質量のある物体を、形を持たない、ただの点として扱うとアシャはいう。
ものが落ちるという現象を議論する上で、なにが支配的で、本質がどこにあるかを見極めるには、この質点という概念がとても便利なのだとか。
物の大小も、回転も、摩擦や材料なども潔く取っ払い、重さだけが支配する環境を整えた上で、物が落ちるという現象について、アシャは見事に説明してみせた。
正しくは、ディンには正しく説明しているように見えた。
彼が理解できたのは、質量と高さと、ものを引っ張る重力という概念を作り出すことで、ものが落ちるという現象を説明できるらしいということ。
なるほど。さっぱりわからない。
先ほどまで感じていたはずの万能感は、見事に霧散した。
代わりに頭をもたげたのは、久しく感じていなかった劣等感である。
ただ、アシャの主張することは、きわめて単純だった。
地の底に悪魔が引っ張っていて、ありとあらゆるものを地上に縫い止めているだとかの与太話を信じるのではなく、ものを引っ張る現象を理屈抜きに、使える道具として定義しているだけなのだから。
それに、ディンには理解できなくとも、アシャが規定した定義した定義に従って、物体の落下を、地上のありとあらゆるものに当てはめていく様は、聴いていて心地よかった。
「君が物事を突き詰める習いであることはよくわかったよ……」
ひと段落ついた頃合いを見計らって、ディンは尋ねた。まだ、月とか星の世界とかいう単語は一度も顔をのぞかせてはいなかったが、ディンの頭は複雑な記号でいっぱいである。
「質問していいかな」
「どうぞ」
「俺はどこに連れて行かれようとしているんだろう?」
「この街を変えたいのではないのですか?」
軽い口調だった。
けれど、ディンを見つめるアシャの瞳は、恐ろしく澄んでいた。
純粋に、かつ、心の底からの発言。
意図はわからないが、彼女は本気で言っていた。
ブラジウスの叡智を集めたよりもすごい閃きを持つかもしれない彼女が。
彼女は、今まさに行われている講義が、街を変えられると確信しているのだ。
そうであるならば、自分がするべきことはなんだろう?
この、講義を紐解くところから、か。
「まず、前提として尋ねたいのだけれど」
「はい」
「これは、君の国の数学かい?」
ディンにとって、計算をすることは、文章を紡ぐことと同義だった。
ディンの習った計算は、言葉の羅列である。
数を解く上で『足す』『引く』『掛ける』といった言葉を数字の後に綴っていく。
だが、彼女の記した文字に、それらの言葉はない。
代わりに、記号が羅列している。
+、−、×、÷。
もしくは、言葉を伸ばしたような記号もあった。
彼女は言葉を記号に置き換え簡略化することで、圧倒的な時間の短縮に成功していた。
簡略化するということは、他の意味を削ぎ落とすことに他ならない。
弊害は、知識を持たぬものが見ると、一切の意味が把握できなくなる、ということ。
大勢の人間が知らなければ、記号は意味をなさない。
彼女の国で、これが常用されているのだとすれば、ブラジウスより数段上の数術教育がなされている、ということになる。
彼女の存在は、このブラジウスより遥かに優れた文明が存在することを示唆している。ディンは身震いした。
「ここより東方の、南国地の発祥と聞いています」
「君の国では、皆この記号を使っているのか」
「私が教育を受けていたときには」
「なるほど。これだけ帳簿が簡単に管理できる知識をもっているなら、
我が地でトトノ商会が盤石の地位を築きつつある事実に説明がつくな」
彼女の理路整然とした語り口調は、常に、高度な教育の香りを感じさせた。
ディンが理解できないのは、彼女の語る数学の根底にあたる記号の扱いに慣れていないからだ。
きっと彼女の知識は、比率、幾何、簿記に及んでいることだろう。
「これは」
ディンは彼女の持つ、白い棒についても問う。
ディンの知っている書写版といえば、ロウなどで塗り固めたものに、先端の尖ったもので引っかくようにして、文字通り刻むようにして書き記す道具しかしらない。
尖筆と呼ばれるそれは、たしかに文字を記すことはできたが、板も筆も磨耗による消耗が激しく、また素材も骨や象牙、金属からなるため、高価になりがちだった。
しかし、彼女が用いているものは、どうやら、板のロウではなく、手にした棒のみで、文字を記すもののようだった。
「石灰の粉を固めたものです。擦り付ければ簡単に文字がかけますので、建築現場でわけていただきまして」
「それも、君の国の発見かい?」
「似たようなもので勉強していました。
ものは、書いて考えるのが一番ですから。
現場の近くに、白線で工事の日程が記されていたものですから。
これは使えるな、と」
ディンが起工式で思い出すのは、持つものと持たざるものの立場による理不尽さだった。
どこまでに食事が配られて、どこから受け取れなくなるのか。
今の立場を確認する程度のことしか考えていなかったディンは、殴られたような衝撃を受けた。
見ているものがこうも違うのか、と。
「それで黒板を仕入れてくるあたり、君の向こう見ずな思い切りの良さには恐れ入るよ」
ディンの言葉に、アシャは言った。
いたずらが成功したときの子どものように、すこしだけ誇らしげな口調だった。
少しばかり、微笑んでもいるようだった。
その表情で、ディンは、自分がひとり相撲をしたいたことに、おそばせながら気がついた。
なんのことはない。彼女は、自分との約束を実行してくれていたのだ。
これは、彼女の見せてくれる、彼女の見てきた、外の世界の知識である。
わからなくて、当然なのだ。今まで一度たりとも、触れたことのない概念なのだから。
自分はただ、真摯な気持ちで受け入れ、学びとり、選択すればよいだけのことである。
「アシャ」
「はい」
「この講義、難しすぎるよ」
「そうでしょうか?」
「そうだとも。
また、講義してほしい。
でも、もっと、噛み砕いたところから」
「ですが」
「そんなに意気込んでやっても、簡単に世界は変わらないから」
軽い調子でディンがいうのと、アシャがふらついて、その場に膝をつくのはほとんど同時だった。
ディンが慌てて駆け寄り、彼女を支える。
「大丈夫か」
「すみません、ちょっと力が入らなくて」
緊張の糸が切れたのだろうか。
しかし倒れるというのは、穏やかではない。
心なし、彼女の手が冷たいように思えた。
二日ぶりに会った彼女は、妙にやつれていたのではないか。
色白の肌が、輪をかけて白い。
調度品が整っていて、豪華な夕食が用意されていた。
あらゆる扉の蝶番には油がさされているし、黒板にチョークとかいう学習道具まで揃えられている。
そのお金はどこから出てきたのだろう。
ディンは、いくらか苦しい顔をしながら、真面目な口調でいった。
「アシャ。今朝は何を食べた?」
「……」
彼女が視線をそらした。
なんとなく、アシャの癖が見えてきた気がする。
「お金なら渡したと思うんだけど」
そういって、ディンはアシャをじっとみつめた。アシャは耐えかねて答えた。
「多少は頂きました」
「倒れるくらい?」
「あの金額は、とても食費で使い切る額ではございません」
「だとしても、少しくらい拝借しても構わないんじゃないかい」
「私のお金ではありませんから」
「俺の身内が、満足に食事をしていないなんて噂がたった日には、俺が困るんだけどなあ」
ディンが嘆いてみせると、アシャは目に見えてうろたえた。
正確には、無表情のままうろたえるという、奇妙なことをやってのけた。
ひとの感情は、とても表情だけで表現されうるものではないと、改めて思い知るディンであった。
彼はため息をつき、戸惑い途方にくれるアシャにいった。
「明日はちょうど休みだ。おいしいものでも食べに行こう」
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作者は、面白かったの一言で、一年くらい生きていける生き物なので。




