13 「夕食はお済みですか?」
処刑は、とどこおりなく執行された。
ディンは、男の死を見届けると、手帳をとりだした。
そこは、死刑囚の予定がびっしりと記されている。
毎朝の聖堂での祈りの後に、翌日死刑を迎えるものの名が伝えらる。
ディンはその人物の名前を記し、死刑囚を訪ね、またページを読み返し、あるいは書き連ね、また慰めにゆく。
先ほど露と消えた男の名前の片隅に、印をつける。
はじめは名前の上から線を引いたが、どこかいたたまれなくなって、そのような形になった。
印のついたひとは、今日で十二名。
そのページからは、死臭をまとっているかのような、濃厚な血の香りが漂ってくる気がして、ディンは急いで手帳を閉じた。
ディンは、まだ死を目前に控えた彼らの告白を、恐ろしいと思うことができた。
ディンは、まだ、彼らがどんな人物であったか知るのが、辛くて堪らなかった。
印をつけるとき、胸のどこかに鈍い痛みがある。
しかし、印をつけることはディンにとって普通になり、日常になり、戦慄すべきことにも慣れてしまうだろう。
そんな、確信めいた予感がある。
なにせ、それは業務であり、延々と繰り返される日常なのだから。
「彼らが苦しむことで、幸福が最大化されている。
我らの幸福な日常の一部は、たったいま、命をちらした者のような、悲惨な末路を迎えるものたちに少なからず依存していことを、我々は決して忘れてはならない」
そう演説している自分が、まるで大嘘つきになったようで、気が滅入る。
帰ろう。
考えることをやめて。ディンは様々な思いを一緒くたに、深い溜息とともに吐き出した。
早朝の派手な仕事の後、双子を産んだ母親が不謹慎だとなげく信者を説得し、くたくたの頭で不認可の印刷所をガサ入れし、登録外の製本機材の処遇について手配したころには、ディンは、ブラジウスに対する些細な疑問について深く考える余裕もないほど疲れていた。
仕事に追われるということは、物事を考えないでいいと自分に許してしまうことになるらしい。
自分の将来について考えるより、少しでも長く惰眠を貪りたい。
それが、ディンの嘘いつわらざる本心である。
時間的試練に打ち勝ち、繁栄を築きあげた組織に属するということで、将来に対する不安は感じなくなって久しい。
組織の業務や遂行の手段に微小な欠陥や不信感を覚えつつも、掲げる理念に偽りはない。
世間の誰もが裏やむ立場に、焦りはあれど一定の保障がある。
しかも、それが報いられつつあることを、ディンは肌で実感している。
十年後の、組織の中核を期待されている実感もある。
彼がこれまでに支払ってきた努力も、今現在、彼に与えられる業務も、全ては明日のブラジウスのためである。
そして、相応の地位を得た暁には、教会の不条理、不義理、不平等について、正義の鉄槌を下すのだ。
そんな教会の門を叩いたころの若い、やる気に満ちた心は鳴りを潜めている。
今はただ、身体は休息を欲していた。
彼の身体はあくびをひとつ。
首を回せば、肩周りがぱきぱきとすごい音をたてた。
少しばかり、疲れているのかもしれない。
さもありなん。ここ二日ばかり、家に帰れていないのだから。
アシャには、それなりにまとまったお金を渡しているので、食事の面で心配はしていないが。
彼女のことを思い浮かべたディンは、心なし足が軽くなった。
帰ったとき、部屋に明かりが灯っているのは、実に気持ちが良い。
アシャを買ってよかった。
少しばかり身の回りが楽になれば、という程度にしか期待していなかった。
誰かが待っていてくれる家に帰ることは、心地よいことだ。
独り身で、かつ親しい異性をもった事もなく、従って他人との共同生活を想像だにしていなったディンとしては、嬉しい誤算である。
食べ物の味も、目に見えて良くなっている。
以前は喉につっかえるような飲み込みにくさがあったのに、それが全くなくなったのだ。
それもこれも、アシャが来てからだ。
やや表情が硬いきらいがあり、月を眺めて涙するよくわからないところもあるものの、おおむね許容範囲内だ。
むしろ。
そんなことを考えながら、家に着き、扉をあけ、あかりのついた部屋を見渡し、驚きの声をあげた。
「わあお」
むき出しだった石壁は、上品な柄のカーテンと絵画で覆い隠されていた。
深みのある木製の丸机が鎮座し、やはり、落ち着いた装飾の椅子と戸棚が、狭苦しくならない程度の距離で配置してあった。
アシャの持ち前の優雅さとでもいうべきものが、そこかしこに現れている。七日前の、足の踏場もなかった部屋は、今や面影すら感じられない。
「おかえりなさいませ」
アシャが深々と頭をさげた。
アシャと共にディンを出迎えたのは、テーブルに並べられた食事たち。
疲れきった胃に優しく染みるような、野菜と卵の温かいスープ。
薄くきったパンと、味つけのされた和え物。
下ごしらえをした鳥を丸ごと焼いたものに、程よい酸味の効いた、ぶどう酒。銀食器に盛り付けられたそれらを、銀の燭台が照らしている。
「夕食はお済みですか?」
いや、と小さく答えるディンの顔には、自然と笑みが浮かんでいる。
「腕によりをかけてくれたようで」
ディンの歓喜の声にぎこちなく笑みを返しながら、アシャはディンのために席にを引く。
無言で向かいの席にすわるよううながしたが、彼女は申し訳なさそうにいった。
「今日もお帰りにならないかと思いまして」
帰りが遅いディンを待ちかね、夕食は先に食べてしまったという。
彼女は居心地悪そうに壁際に控えようとするのを制し、彼女を座るようにいった。
「お茶でも飲んでいてくれれば、それでいい」
取り立てて咎めるつもりもない。
ただ、少しだけ悲しくに思ったのは確かで、ディンはそんな感情を抱いた自分に、驚きを禁じ得ない。
ディンの食器の音だけが、部屋にこだまする。形容しがたい重々しさをディンは感じていた。
「今夜は、月が出ていないね」
「そう、ですね」
心ここに在らず、という塩返事にディンの心は少しだけ凹んだ。
というより、面白くない。
二日間も、労働してきた結果が、この対応かと思うと、ディンは無性に泣き出したくなった。
一人ならば、心をかき乱されることもないだろうに。
でも、その不満を表にだすことがみっともない八つ当たりだということは、ディンも自覚している。
悔しくて、パンを千切らずにかぶりついた。
思い描いてきたとおり、いい塩加減だった。
美味しいと感じる自分が、悔しい。
そしてふと、これはこれで幸せなことなのだと気づく。
飯がうまい。うまいと感じられる。
少なくとも、一人で食事をしていたときのような、砂をはむような無気力化はない。
食事をすることと、会話を弾ませることは、別の事柄なのだろう。
黙々と食を進め、豪勢な食事を余すことなく腹に収め、お茶をいただいていたところで、アシャが口を開いた。
「言葉遊びの続きを、お聴きになりませんか」
「月に手が届いたとかいう、あれのことかい?」
妙に落ち着かない様子で頷いた。なんのことはない。
彼女も話題を探していた。そうと気づくと、途端に胸のつっかえがとれた。
身体が軽くなり、なんでもできるような気がした。




