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12 ―― 甘くて子どもじみた、純粋な願いから

『より多くの人々に、より確かな幸福を』


 ブラジウス教会は、ひとりの乙女の純粋な祈りから生まれた。

 誰もが幸せであることを願い、誰もが夢を語れる、太平の世の中でありますように。

 甘くて子どもじみた、純粋な願いから。


 されど、少女の願いとは裏腹に、現実は非情である。

 ひとの積み上げてきた富には限界があり、個人の持てる総量が一定の基準を下回ったとき、ひとは否応なく不幸な結末に陥る。

 

 富に限りがあるかぎり、幸福は有限なのだ。


 聖女の亡きあとに残された、彼女の弟子らは世の趨勢を見極めるのに長けていた。

 富を最大化するべく、知識をたくわえ始めた。

 各所で名だたる学者や職人を集め、交易都市を起こした。

 富がひとを引きつけ、ひとがひとを呼ぶ。

 ひとが増え、聖女の理念が浸透し、いつしか街全体が、彼女の語った理想郷を信じていた。


 街は順調に発展し、周囲の街を呑み込みながら拡張を続けた。

 ひとの集うところには、影もつきまとうのが世の理で、街の治安を守るために、ブラジウスは人びとからある権利を委任されるに至る。


『罪を犯した者を断ずる権利』


 これこそ、ブラジウスが発展する過程で獲得した、民衆を統率する有力な手段であった。

 民衆は、恐怖によってのみ、犯罪を抑止できるのである。




 薄暗い通路だった。

 ディンが歩く薄暗く湿ったそこは、ブラジウスが長い年月をかけて洗礼してきた、人を不幸たらしめる技術に満ち満ちている。

 ディンの握るランプが唯一のあかりだった。

 だが、その光はどんよりと重くカビ臭い空気を追い払うには、あまりに弱々しい。

 鉄格子のはまった窓がまちまちの間隔で開いていて、それぞれの部屋を覗くことができた。

 監視のための専用の通路で、出入りする入り口がないため、万が一の脱獄に怯える必要もない。

 もっとも、地下の尋問部屋に隔離された者が脱獄したという記録は、ディンが目を通した四百年の記録には一度もなかったのだが。


 どの部屋にも、ベッドと蓋つきの便器のほかに、何もない。

 収監された者は、眠っているか、ぼんやりとベッドに腰掛け、宙を見つめている。

 その瞳には、罪を悔いるような悲しみも、自由を奪われたことに対する怒りも読み取れない。

 ただ、ディンが通る足音に身体を震わせ、怯えをみせるのみ。


 彼らの宙を見つめる様が、部屋に置いてきたアシャに重なり、ディンは身震いした。

 彼女も、出会うのがもう少し遅ければ、彼らのようになっていたのだろうか。

 独房の彼や彼女らと、今の自分の生活が地続きのように思てくる。


 ディンは頭をふって思考を振り払い、部屋を順番にのぞいていく。

 部屋にも差があり、ひどいものになると、ベッドはなくなり、足も伸ばせないほどに狭くなる。

 背中を丸めて膝を抱え、かろうじて身じろができるばかりのその部屋は、部屋そのものが拷問道具のようですらあった。


「より多くの人々に、より確かな幸福を」


 思わずディンは、祈りの言葉を口ずさんだ。

 口上と共に脳裏に浮かんだのは、人の心理についてつぶさに観察したある学術書である。


 それによると、人は吐け口が必要なのだという。

 集団として生きる際に、内部で生じる大小様々な不条理に対する、羊が。


 その羊は、例えば、ひとの家に押し入った強盗であり、何人もの貞淑な女性のそれを奪った強姦魔であり、ブラジウスに背き国家転覆を狙った思想家であったりする。

 彼らは、善良な人びとの生活を脅かし、限りある幸福を不幸で汚した背信者である。

 そんな彼らが不幸になることで、人びとが幸せになるのであれば、何をためらうことがあるのだろう。


 ちなみに、その書に記されている研究結果には、不幸になるべく小突きまわされた哀れな羊がどうなるかについても記している。

 終始なにかに怯えるようになり、攻撃的になり、そのうち自分自身を傷つけはじめるのだとか。

 つまり、一度羊になったものは、自ら不幸を振りまくようになり、身に降りかかる不幸を加速させてしまう。


 従って、犯罪者は、一度道を踏み外せば、悪の道を歩むしかないのだ。


 その書の記述は、束の間ではあったが、ディンを安心させるのだった。

 どうしても湧き上がってくる胸のむかつきをこらえながら次々と部屋と通り過ぎ、やがて目的の部屋にたどり着いた。

 原型をとどめていないボロボロのガウンを巻きつけた彼は、ディンが自分の部屋の前で立ち止まったのを認めて、傍目にもわかるほど身体を震わせるのだった。

 部屋の反対側に、つまり出入り口のある方の通路に、黒服の看守たちが並ぶのを待って、ディンは男に声をかけた。

 今日があなたにとって、最良の日となりますように、と。




 いくつかの扉を通り抜け、石階段をのぼり、扉をくぐる。

 ひらけた内庭に繋がるその扉をくぐった途端、地下の陰鬱な暗闇とはうって変わった、朝の微睡みをはらんだ空気がディンの鼻孔をくすぐった。


 空は青々としていて、優しい陽の光が、ブラジウス教会の誇る尖塔の側面を照らしてみせていた。

ディンの背後で、息をのむ音が聞こえた。

 虜囚の男が立ち止まり、数ヶ月ぶりにみた太陽のまぶしさに、固く目をとじていた。

 看守が、彼の首の鉄輪から伸びる鎖を引こうとする。

 ディンは腕を上げてそれを制し、しばし男の好きにさせてやった。


 明るさに慣れてきた彼は、うっすらと目を開ける。

 汗と埃とで汚れきった彼の頬に、ひとしずくの涙がこぼれた。

 教会からの情報によると、男は盗人だった。

 きっかけは空腹だったのかもしれない。

 彼の始めの罪状は、窓を蹴破り、パンを盗み出したことだった。

 二年の刑期を終えた彼は、かつての善良な市民ではなくなってしまっていた。

 彼は再び家に押し入り、パンを盗み出した。


 問題は、親の帰りを待っていたその家の娘に、暴力をふるったことだった。

 仕事を終えて帰宅した両親が目にしたのは、必死の抵抗むなしく殴られ、犯され、力なく横たわる娘の姿だった。

 勤勉なブラジウス憲兵の働きにより、まもなく男は拘束され、尋問を受け、今度は疲れきった姿で、鎖に繋がれている……。


 男の目撃する、ひさしぶりの陽の光。

 新鮮な空気。

 彼の目には、世界が踊ってみえることだろう。

 彼の罪は、願っていもいないことだろう。

 束の間、彼は自由だった。

 それは、ディンの恩情というべきもので、彼自身の自由になる、最後の自由なひとときだった。


 まもなく、男は鎖を引かれ、ある部屋へ連れ込まれることになる。

 そこで、これから彼が主役となる舞台の準備が始められるのだ。


 ディンの仕事は、地下の監獄へ迎えにいくこと。

 男が手を縛られているとき、髪を切られているとき、そばについていること。

 彼の最後の告白に耳を傾け、必要であれば、彼が舞台の最後まで自分の足で立って歩けるよう、勇気付けること。

 刑台の上で、彼の傍らで十字架をかかげ、時に彼の視界を遮り、舞台のもう一人の立役者である赤い服の執行人が目に付かないようにすること。

 彼のを抱擁し、なぐさめること。


 そして、彼が命を失うその瞬間に、彼のために祈ることだった。

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