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11 「聖女と呼ばれる立場にありまして」

「俺にもわかる言葉で説明してもらえないだろうか」

 

 アシャは軽く首をかしげて、ディンを見つめる。

 表情こそ変わらないが、その様子は小動物のようなあどけなさだ。


 アシャは、少し考えていった。


「月が落ちてこないのはなぜだろう、とそう考えておりました。それはおかしいことなのだと」


 彼女のはいつものようあっさりとした口調だった。

 ディンは諭すようにいう。

 彼が口にするのは、信者の子どもたちに伝える、わかりやすい説法である。


「君は知らないかもしれないが、天界は、神の理に則って動いているんだ。教会の最新の叡智の集積がもたらした、結論だよ。

 だいたい、同じ理で動いているのであれば、月が落ちてこないのはおかしいじゃないか」


 しかし、彼女はとりあわない。


「月を支えるだけの力が、どこかにあると考えればいいのではないかと」


「じゃあ、あの月は、天高くそびえる黒い屋根から支えが伸びてるとでも?

 それならたしかに、落ちてはこない。月がいつも、同じ面を見せていることの説明にもなる。

 だけど、月を支える建造物は、到底、ひとの手で建造できるものではないだろう?

 それこそ神がお造りになったとしか考えられない」


 彼女は静かに首を横に振った。


「あれは、私たちにむかって落ち続けているのではないでしょうか」


「つまり?」


「大きな皿に転がした小さな球があたかも渦をつくるように、縁をまわりながら、中心の穴に向かっていく。

 主人さまの書籍にございました、渦理論なるこの現象を、拡大解釈すればよいと思います」


 ディンは、黙って続きをうながす。

 彼女は、淡々と語る。


「船旅をすれば、誰でも気づきます。

 遠くのものが水平線の向こうからやってくるとき、それは一番高いところから見えてきます。

 これはきっと、水平に見える大地が、実は歪んでいるからなのでしょうね。

 大地が丸い。そう考えると、わたしのなかに興味深い仮説が湧き上がってきたのです」


「どういうことだい」


「ものは、どこまででも投げ続けることができるのではないか、と。

 例えばどこにでも転がっている石ころ。

 弓は、豪腕のものが強く引き絞ったならば、誰よりも遠くまで飛んで行く。

 あるいは、投石機の腕が、長ければ長いほど、ものを遠くまで飛ばすことができる。


 大地は丸いく、かつ、無限に腕の長い投石機。

 これらを使えば、どこまででも物は飛んで行くのではないでしょうか」


 アシャはあいもかわらず、淡々とした口調で続けた。


「もちろん、月が落ちてくる速度と地球を回り続ける速度を計算せねばなりませんし、地球が回っていることをも証明せねばなりません。

 ですから、今の段階では言葉遊びにすぎません。

 ですが、わたしにとって、何事にも変えがたい発見でした」


 アシャはいつになく興奮したようすで、白い頬はほんのり赤く染まっている。


「思考を重ねていけば、月だって手が届くのです。

 この事実に、わたしはいたく感動したのです」


 ディンはうめいた。

 神がお造りになりましたから、などと言い出し、世界の美しさに心を打たれて泣いていたのであれば、彼女の思考を一蹴できただろう。


 彼女は極めて論理的だ。

 これは、一考にに値するのではないか、と思わせるほどの。

 彼女は彼女なりの考える法則に従って、大胆に仮説を構築したに過ぎない。


 もっとも、ブラジウスが説くのは平坦な大地である。

 神がお造りになられた大地に、神が山と海をつくり、その両者を川で繋いだ。

 それが、大地の始まりであるという。


 この寓話が正しいかどうかは問題ではない。

 大勢の話が、この寓話を信じやすいか否かである。


 仮に、であるが。

 彼女が思考実験だけでなく、例えば誰が見ても納得するしかない数学なり物理なりの共通言語で先のような世界を描き出したとしたら。


 彼女は世界の構造に風穴を開けてしまうかもしれない。

 

 ディンは、自らの思考を打ち消した。

 そんなことはあるまい。

 ひとりの人間の知恵が、数千、数万の人間の積み重ねに打ち勝つことなど、考えられない。

 ブラジウスという知識の権化より先に、余人が立ち入ってはならない世界があるのだから。

 ディンは、深いため息をついた。


「やっぱり、いろいろ普通じゃないな」


 考えても意味のないことに喜びを感じるなんて、と心の中で付け加えた。

 口に出さないだけの分別は、ディンも持ち合わせていた。


「普通とは、なんでしょうね」


 アシャは、いつもより少しだけ、感情を表にだしていた。

 彼女は素直に問うている、とディンが感じれるくらいには。


「少なくとも、夜空を見上げながら涙を流すような生活ではないと、俺は思うね」


 ディンは言葉を選びながら答えた。

 アシャは、曖昧にうなづいた。


「わたしは、考えることが楽しいのです」


 彼女の声音からは、自分の夢を告白するような、恥ずかしさが滲んでいた。

 ディンは、その感覚を知っている。


 若気のいたりというやつだ。


 それは、自分こそが世界の中心にて、取り組めばなんでもできるような万能感を感じていて、後先考えず、行動にうつそうとしてしまうのだ。


 そして数年後に、赤面する。


 だからこそ、早く現実を伝えねばなるまい。

 夢を見て失敗するのは、自分一人で十分だ。

 ディンは妙な義務感を覚えて、諭すようにいった。


「そんな益体もないことを。

 考えたところで、人の営みは変わらないし、世界を変えうる発想なんて、でてはこないよ。

 それに、そういう益体のないものは、外で言わない方がいい」


「月に手を伸ばすことが、悪いことなのですか?」


「地球を丸いと仮定することが、まずいことなんだ」


「なぜ」


「俺と君は、特別だからだ」


 ディンはアシャを真っ直ぐに見つめていった。


「俺は、そういう考えを取捨選択するのが仕事だ。

 君は、特別暇だから、そういうことを考える時間がある。

 でも、周りのひとはそうじゃない」


「だとしても、考えるな、と聴かされ続ける生活より、よほど生きていると実感します」


「じゃあ、それを吹聴するのだけは、やめてほしい。

 考えたこともなく、考える練習もしてこなかったものに、君の説は過激すぎるんだ」

  

「わかりました」


 ディンの言ったことは、ほとんどブラジウスの真理である。

 誰もかれも、やるべきことを抱えて生きている。

 金を稼ぎ、家族を養い、かつ街を豊かにせねばならない。

 余計なことに頭をひねる時間などないのだ。

 

 だが、目の前の、アシャという少女は。

 立ち振る舞いに、論理的な考え方に、堪能な語学力。

 しっかりとした教育を受け、ブラジウスでは誰も考えつかないような思考を、働かせることが出来るらしい。

 ディンは思い切って尋ねてみた。


「君はここに来るまえ、何をしていたんだい?」


「聖女と呼ばれる立場にありまして」


 アシャは間入れず答えた。

 ディンは彼女の真意がどこにあるか測りかねて、彼女をまじまじとみつめた。

 よくよく見ると、口元にささやかな笑みが浮かんでいるようにみえる。


 なるほど、俺の同居人は、時々真顔で冗談をいうらしい。


 ディンは心の帳簿に新たに発見した事実を刻むとともに、彼女の冗談に付き合うようにいった。


「出会って一番上等な冗談だね」


「ええ、私もそう思います」


 こんどのアシャの表情には、確かな笑みが浮かんでいた。

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