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10 「なんだって?」

 開け放たれた窓からは月明かりが差し込み、彼女を照らしていた。

 青い光を受けて浮かびあがったのは、滝のように流れる髪。

 心持ち小さなおもてに印象的な瞳。

 白い肌にうっすらと引かれた、雫のあと。


 家に明かりがないことをいぶかしみながら扉を開けたディンの瞳に飛び込んできたもの。

 それは、何をするでもなく椅子に座して、まるで時が止まったかのように微動だにせず、空を見上げて涙するアシャの姿だった。


 首元と手首には、赤く引きつった鉄輪の痕が色濃く残る彼女の様子は、帰り道がわからず途方にくれた幼子のよう。


 奴隷商の手に渡る前に、何があったかをディンは知らない。

 口減らしに売られたのか、拐かされたのか、あるいは他の理由なのかもしれない。

 

 ただ、今この瞬間、ディンはアシャを金で買い取っている。

 事実としてアシャの自由はディンの金で縛りつけられているも同然である。

 彼女の苦痛に、貢献しているのかもしれないのだ。

 そう考えると、見てはいけないものを目にしてしまったような罪悪感が、つかのまディンの胸の内に浮かんだ。

 そんな申し訳なさが消えたのは、アシャがディンを認め、立ち上がったからだった。


「申し訳ございません、すぐに夕食の準備を」

 彼女は謝罪の言葉を口にすると、一礼した。

 慣れた手つきで火打ち石をうちつけ、半分ほど残っていたロウソクに火を灯す。

 揺られたロウソクの赤い明かりが、部屋をぼんやりと照らす。整理された部屋は、心なし広く感じられた。




 人参、タマネギ、クラタケを、目にもとまらぬ速さでみじん切りにする。

 軽く火を通し、豚の脇腹肉を細かく刻んだものを加え、さっと塩だけで味を整えると、朝方から仕込んでいた出汁に流し込む。刻みが細かいから、火が通るのも早い。

 アシャが椅子を引き、杯にぶどう酒を注ぎ入れ、なみなみスープをついだ。

 食欲をそそる暖かな香りが、一気に部屋中に広がった。


「どうぞ」


 食事に向かい合ったディンは、まず目で味わい、ついで香りを楽しみ、最後に舌で堪能した。

 街のどの料理店よりも、手間も素材も簡素であるはずだが、妙に深みのある味に、ディンは感嘆のため息をついた。


 添えられたパンに手を伸ばすと、側に控えていたアシャがさっとハチミツを差してくる。

 ちぎった切れはしに、ハチミツをたっぷりと塗り込み、かぶりつく。

 蜜の甘さが口中に広がると共に、微かな胡椒が甘さをより引き立てている。

 絶妙な塩梅だ。あっという間にひとつ目を平らげ、ふたつ目に手を伸ばしながら、ディンは何とは無しにいった。


「いっしょうにどうだい?」


「主人さまと同じ食卓を囲むなど、おそれ多いことでございます」


「だけど、俺は君が立っていると気になるんだ」


「ご容赦ください」


「客がいるならともかく、ここには俺とお前しかいない。誰かに見咎められる心配があるとすれば、それは俺でしかありえない。でもって俺は、君に席を勧めたんだ」


 アシャは、ディンの表情をじっと見つめた。やがて彼女は黙って、ディンの向かいに腰掛けた。




 二人きりの晩餐だった。

 ディンは、向かいで食事をするアシャが気になって仕方がなかった。

 アシャは、ディンの視線に気づいた様子もなく、黙々と食事を口に運んでいる。


 見るも無惨だったころの彼女と比べれば、体重もだいぶ戻ってきているように思われた。

 痩せすぎてはいるものの、しっかりと、頬に赤みがさしている。

 控えめに美しいと表現しても過言ではなく、一緒に食事をしていることが、少しだけ誇らしく思えてくるディンだった。


 それにしても、アシャは何者なのだろう。


 彼女の匙使いは大したもので、落ち着きを払ったさまは、ちゃんと躾けを受けた貴族のような優雅さである。

 慣れているというより、長年の習慣からきている自然体だった。

 文字も読み解くことができ、それなりの教育を受けたことも確かである。


 しかし、貴族であるにしては、料理の手際も給仕の態度も堂に入っている。

 それらの矛盾と、おおよそ鞭で服従を強いられる安い奴隷だという事実が、ディンの中ではどうにも繋がらなかった。

 そしてそれは、彼女のことを深く知らなければ、繋がろうはずもないことであった。


「何を泣いていたんだい」


 アシャの手が止まった。微かに眉をひそめ、微かに首を傾げる。

 それから、先ほどの態度をさしているのだと思い当たったようで、先ほどよりいくばくか頬を赤らめていった。


「月に、手が届きました。それが嬉しくて」


 斜め上の答えに、ディンは口に含んでいたものを危うく吐き出しそうになる。

 どうにか飲み込んだところで、改めて問う。


「なんだって?」


「月に手が届きました。それが嬉しかったのです」


 アイシャは大真面目に答えている。

 ディンは頭を抱えた。

 彼女が何を言っているのか、本気でわからなかった。


 彼女は、よく働くし、美人だし、料理の腕も抜群だ。

 つい先ほどまで、全くと言っていいほど、文句の付け所がなかった。


 でも、今はそうじゃない。

 ディンが思っていた以上に、彼女は重症なのかもしれなかい。

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